蒼炎 3
本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。
『魔導書』
『黒の書』とも呼ばれるそれは、主に13世紀から16世紀頃にかけて、多くの魔術師たちが自身の経験や知識を羊皮紙に書き記して作り上げた書物であり、現代で言うところの魔術のハウツー本である。
便宜上、魔導“書”とは呼んでいるが、実際に本の姿になっているものは少なく、当時の魔術師、あるいは魔女たちは、断章という形で所持していたと言われている。しかし、その多くが歴史の中で異端審問や魔女狩りなどの迫害により失われてしまった。
そんな魔導書であるが、今でも存在しているものがある。
例えば、お守りと指輪を使用する魔術が記された『黒い雌鶏』、“大奥義書”と呼ばれ、悪魔や精霊の使役方法が記された『赤い竜』、自身の守護天使や超自然的存在の力を借りて願いを叶える魔術を記した『アブラリメン』など。
そして、それらを差し置いて“魔導書の代名詞”とも言われているのが『ソロモンの鍵』である。
ソロモンとは、紀元前970年から930年頃にかけて、イスラエル王国に在位した叡智の象徴とされる名君、第三代目の王であった。
その名は旧約聖書の『列王記』に登場し、この六章では唯一神ヤハウェの命を受け、黄金に覆われたエルサレム神殿を築いた様が事細かに記されている。
また、このソロモンにはもう一つの伝承がある。
それは“魔術王”と呼ばれる伝説。
彼はヤハウェからエルサレム神殿の建築を命じられた際『七年で完成させること』『槌や斧などの鉄を用いた道具の使用を禁ずる』という制限を受けたとされる。
そこで彼は悪魔の力に頼った。
ソロモンから悪魔を捕らえるように命令された配下の勇者ベナイアは、悪魔を油断させ、王から賜った、唯一神の名である聖四文字を刻んだ指輪を用いて悪魔を従えた。
この伝承により、ソロモンは最終的に多くの悪魔を従えた“魔術王”と呼ばれ、これが元となり生まれたのが魔導書『ソロモンの鍵』を構成する二つの魔術のうちの一つ『ソロモンの小鍵』あるいは『レメゲトン』『ゲーティア』と呼ばれるものであった。
そこに記載されているのは、ソロモンが使役したとされる七十二柱の悪魔の召喚と使役の方法である。
◆◆◆◆◆
午後7時。
日が落ち、所々に立っている街頭が暗い路地をぽつぽつと照らし始めた頃、まだ明かりが灯る煙羅亭のいつものテーブル席で、準備を済ませた黒亜と、市内で発生している火災の情報収集を終えた芽衣が顔を合わせていた。
二人を挟むテーブルの上には、昼過ぎに依頼者の笹倉和美から受け取った、複雑な図柄の描かれた紙片が置かれている。
「で、これがその『ソロモンの小鍵』って魔導書に載ってる悪魔のうちの1体を表したマークってこと?」
「そういうことだね」
BELETH
ベレス、あるいはベレト。
この紋章には、記載されている6文字のアルファベットを並べることで、そう読むことができる英単語が書かれている。
芽衣の問いかけに肯定した黒亜は続けて言う。
「悪魔には“序列”があるの。この序列は魔導書や考え方によっていろいろ種類があるけど、有名なのは17世紀の神学者、セバスチャン・ミカエリスが唱えた『悪魔の九階級』かな」
かつて6世紀頃に存在したとされる神学者、偽ディオニシウス・アレオパギタは『天上位階論』において天使を九つの位階に分類したとされる。
セバスチャン・ミカエリスの『悪魔の九階級』は、この天使の位階をモデルにそれまで様々な序列で語られていた反逆天使や悪魔の序列を再構成したもので、今日では最も普及している代表的な序列であろう。
ベルゼブブ、アスモデウス、アスタロト……
最近ではゲームやアニメなどで耳にすることの多いこれらの名は、元を辿ればこの九階級に連なる悪魔になる。
「でも『ソロモンの小鍵』に出てくる悪魔は、違う形で“序列”を表現してるの。メイちゃんは“爵位”って知ってる?」
「しゃくい?」
目を瞑り「うーん……」と悩み始めた芽衣は、思い出したかのように言った。
「わかった、アレでしょ! 『ワシはなんちゃら領を治めるほにゃらら伯爵である』みたいな!」
「正解。伯爵とか侯爵とか、世界中で使われている『その人物の地位を示す称号』だね。『ソロモンの小鍵』の悪魔は、この“爵位”で序列が決まっているんだ。だから私はそのまま『爵位持ち』って言ってるけどね」
小鍵に登場する72柱の悪魔は全て“爵位”を持ち、これにより序列が決まる。
すなわち、低い順に『騎士』『伯爵』『侯爵』『公爵』『王子』『王』の6階級である。
「じゃあこのベレス? ってのはどれになるの?」
ここまで説明したら当然気になるだろう。
この質問に対し、黒亜は困ったように答えた。
「“王”……なんだよねぇ……」
「一番上のやつ?」
「一番上のヤバいやつ」
『ソロモンの小鍵』の13番目にその名が載るベレスは、悪霊たちが演奏するトランペットなどの楽器を演奏する中を、蒼白の馬に乗って現れるとされる偉大かつ恐怖の“王”である、と言われている。
また、この悪魔は喚び出した術者の望むままに男女の愛を燃え上がらせることができるとされている。
つまり、立花千春はベレスを召喚し、その能力で竹田和彦との復縁を狙ったのだろう。
「いやー、チハルちゃん、よくこんなの見つけてきたね。今うちの学校、女の子たちの間で静かにオカルトブームになってるけどさ、普通こんなマニアックなところに行き着かないじゃん?」
「そう思うでしょ? 『ソロモンの鍵』ってね、今でも普通に本屋とかで買えるんだよ」
「うっそ!?」
芽衣はスマホを取り出すと、指を滑らせて調べ始めた。
「うわ、マジじゃん! 『ソロモンの書』『ソロモン王の小さな鍵』『ゲーティア』……あっ、Amazonのマケプレで1000円で売ってる! 魔導書って中高生のおこづかいでも買えちゃうの!?」
黒亜にスマホの画面を見せながら驚きの表情で訊いてくる芽衣。
もしかしたら彼女は“魔導書”と聞いて、年季の入ったボロボロの、禍々しいオーラを放っている呪物のような本を想像していたのかもしれない。
それがよもや1000円程度で買うことができ、あまつさえ物によってはポップなイラストの表紙と共に『この本を読んで実践すれば、あなたも明日から大金持ちの恋愛マスター☆』なんて謳い文句の帯を付けられて、一体誰が魔導書と思うだろうか。
魔導書、黒の書などとそれらしい雰囲気で語られ、一般人には縁遠いものの様に思えてしまうが、割と現代社会では身近に存在しているのだ。
「なんというか、すごいよねぇ、現代……」
しみじみと呟く黒亜。
「すごいよねぇ……じゃなくて! みんなが1000円でホイホイと魔導書買って悪魔を召喚したらマズいでしょが!」
「でも『悪魔』が絡む案件なんて滅多にないでしょ?」
珍しくもっともな事を言う芽衣だが、黒亜はあっけらかんと返す。
「た、確かに…! あれ? 何で…?」
「あのねメイちゃん、魔術って“ちゃんと正しい手順”でやるのって、ものすごーく面倒なんだよ。そして、その面倒なことをちゃんとやっても、大抵は何も起こらないの」
「…?」
「魔術で一番大事な要素はね“素質”なの」
例えば芽衣がある悪魔を召喚する儀式を、入念な準備を整え、魔導書に記された正しい手順でおこなったとしよう。
黒亜の見立てでは、おそらく何も起こらない。
逆に黒亜がろくな準備もせず、最低限必要なものだけで雑に召喚しようとしても、形はどうあれ何かしらが起こるだろう。
これは術者の生まれ持った魔術に対する“素質”が深く関わっており、大抵の人間はこの“素質”を持ち合わせていない。
つまり、
「立花さんは、持ってたんだろうね」
そして、選りにも選って、『悪魔』の中でも最上位クラスの『爵位持ち』を喚んでしまった。
7年前の黒亜の様に。
「それで、メイちゃんの方はどうだった?」
「ふっふっふ、当然バッチリよ」
芽衣は例のマル秘手帳を取り出すと、約四時間の情報収集の成果を語り始めた。
神無高校でのボヤ騒ぎの後、今日までの三日間で発生した火災。
そこで被害に遭っていたのは、男子バスケ部のマネージャーである坂下京香、竹田和彦、そして立花千春の自宅だった。
たまたま火災現場を目撃した周辺住民の話によると、三人の家は何の予兆もなく、突如燃え上がったらしい。そして皆、口を揃えてこう言った。
燃えた家は蒼い炎に包まれていた、と。
京香と和彦の家は深夜に燃え、二人とも火災の被害に巻き込まれてしまった。
一命は取り留めたものの、煙を大量に吸ったり軽度の火傷を負ったりしたことから、現在は北区にある病院に入院しているらしい。また、千春の家には誰もいなく、人的被害はなかったそうだ。
「たぶん、チハルちゃんがやったんだろうね。でも、自分の家まで燃やしちゃうってのはさ……」
「おそらく、正気じゃないね」
悪魔の召喚に失敗し、逆に付け込まれてしまった可能性が高い。
悪魔、特に上位の存在はずる賢く、狡猾だ。
たとえ正式な手順で喚び出したとしても、彼らは言葉巧みに術者を欺き、隙あらばその弱みに取り入ろうとする。
「でもさ、元カレと浮気女の家は燃やしたし、自宅まで燃やしちゃったのはアレだけど、もう被害は起きないんじゃない?」
「どうかな。私は暴走してると思うよ。本来、召喚した悪魔は適切な手順で退去させないといけないし、そもそも『爵位持ち』の悪魔がそう素直に“あちら側”に戻るわけない」
まるで確信しているかのような口ぶりで黒亜は否定する。
「じゃあもしまた被害が出るとしたら……」
「立花さんに強く関連する人……笹倉さんの可能性が高いかも」
千春も和美を親友と思っており、近い位置にいる存在と認識しているのであれば、その矛先は和美に向いてもおかしくないだろう。
「だとしたら、やっぱりこんな悠長にはしてられないね。まずは立花さんを探そう」
「でもどうやって? この市内で人一人を探すのって、けっこー大変だよ?」
「大丈夫。立花さんがベレスに支配されているなら、これを使って見つけられるから」
黒亜はそう言うと、テーブルの上のベレスの紋章を指さした。
「これで?」
「うん……そうだ、せっかくこういう仕事してるんだし、メイちゃんもたまには“魔術”を体験してみる?」
「えっ、私!?」
オカルト関連の相談事を引き受ける【奇々怪々】だが、事務処理やバックアップを担当する芽衣は、その実、“怪異”というものに触れた経験はほとんどない。唯一経験したのは、黒亜と出会うきっかけになった怪異ぐらいだろう。
「お、おう! いいよ、受けて立とう…!」
「ふふっ、そんな緊張しなくても大丈夫だから。あ、でもその席から立ったりとかはしないでね」
「りょーかい…!」
コクコクと首を縦に振る芽衣に軽く頷き返すと、黒亜は足元のバッグから“葡萄の樹の呪杯”を取り出した。
◆◆◆◆◆
芽衣はよく、黒亜のことを“現代の魔女”と呼んで茶化したりするが、実際に“魔女”としての夕川黒亜を見る機会はほとんどない。
彼女がよく見ているのは、煙羅亭の決まった席でコーヒーを飲みながら本を読んだり、大学の課題をこなしている“女子大生”としての姿である。
そのため、頭では理解しているし、“魔女”としての彼女を見たことも1、2回はあるのだが、どうしても「普通の女子大生」としての印象が強くなり、彼女が“魔女”であるということを忘れてしまうときがある。
そんな普通の女子大生である黒亜は、今彼女の目の前で“魔女”へと姿を変えた。
テーブルの中心に置かれた銀のゴブレット。脚と土台が樹木を象ったその杯の上に、黒亜は黒い長手袋を着けた左手を翳した。
その左手の周囲に黒い霧の様なものが纏わりつき始めると、その霧は凝縮し、まるで墨汁のような数滴の“黒い水”となり、杯の中へ落ちた。
芽衣が杯を見守っていると、ゴブレットの土台から無数の黒い筋のようなものが途中で枝分かれしながらテーブル上を走り始める。
「!?」
その黒い筋はテーブルの端まで達すると、テーブルの脚を伝って床まで伸びた。
まるで何かの苗木のように見立てたゴブレットから張られた“黒い根”のようなその筋は、二人が座るテーブル席を周囲から区切っている様にも見える。
ちりん
どこからか微かな鈴の音が聴こえた瞬間、空気が一変した。
見た目にはいつもと変わらない、煙羅亭の店内の一画。
しかし、芽衣は“音”が消えたことに気付く。いつも店内で流れているレコードの音楽が聴こえない。そして気温も下がったのか、急に肌寒くなった。
加えて、彼女たちの座るその場所は、多量の水分でも含んでいるかのように空気が澱み、重くなり、不快な息苦しささえ感じる。
気持ち悪い。
人が居てはいけないかのような異質な空間に変えられたその席で、芽衣は全身の産毛が逆立った。
止まらない冷や汗に、この場から一刻も早く逃げ出したい気になり、彼女は無意識に腰を浮かせようとしたが、
「動くな」
黒亜から放たれた静かな、しかし力強い一言に、芽衣はまるで金縛りにあったかのように動けなくなる。
唯一動かせる目で視線を彼女に向けると、普段は黒いその瞳が、薄い緋色に染まっていた。
目の前にいる人間は、本当に黒亜なのだろうか。
容姿も服装も変わらない。変化したのは瞳の色のみ。
だが、彼女が纏う雰囲気は明らかに普段とは異なり、数分前の彼女とはまるで別人――そう、黒亜の姿をした何かが座っているようにしか思えない。
目の前にいるのは、芽衣のよく知っている『少し緩い性格の三歳年上の優しいお姉さん』ではなく『圧倒的な気配を以てこの場を制する支配者』であった。
これが“現代の魔女”夕川黒亜。
その彼女の眼差しは右手に持ったベレスの紋章に向けられていたが、やがて彼女は目を閉じる。
同時に、無数の巨大な眼が二人のいる空間に出現した。
「ひっ……」
ただ呼吸だけが漏れたかのような、悲鳴ともつかない悲鳴が喉を出る。
空間に浮かぶ大小様々な眼は、何かを探すかのようにぎょろぎょろとせわしなく、あちこちに視線を向ける。
動けずにいる芽衣は、その悪夢の様な不気味な光景を、目にうっすらと涙を浮かべながら、声も出せずに視界に収め続けるしかなかった。
「……いた」
ややあって、黒亜はそう呟くと再び目を開く。
そして左手の人差し指で、ゴブレットの杯の縁を軽く叩く。
ちりん
再び微かな鈴の音が聴こえた。
同時に、ゴブレットからテーブルや床に伸びていた“黒い根”や、空間に出現していた無数の“眼”が溶けるように消える。
先ほどまでの肌寒さはなく、店内には昼間と変わらない陽気なジャズの音楽が流れている。黒亜の一言で金縛りにあったかのように動かなくなった身体も、もう自由に動かせる。
芽衣は煙羅亭に戻ってきた。
「ふぅ……」
そして、目の前には芽衣がよく知る、いつもの黒亜が座っていた。
彼女は小首を傾げながら、柔らかい笑みを浮かべて訊いてくる。
「どうだったかな? 本物の“魔術”を体験した感想は」
「え……あ、うん……なんかヤバかった……」
まだ感覚や感情が追い付いていないのか、彼女にしては珍しく語彙力のない月並みな感想しか出なかった。
「……少し怖かったかな? 途中でメイちゃんが立ち上がりそうだったから、無理矢理動きを止めちゃったりもしたけど……」
黒亜は芽衣の目元の涙の跡にでも気付いたのか、少々申し訳なさそうに「ごめんね」と言う。
少し、どころではない。あと5分もあそこにいたら、芽衣は発狂していてもおかしくはなかった。
「私が作る“儀式の場”は、呼び方が違うだけで、本質的には“怪異”が生み出す“縄張り”と同質のものなの。だからさっきメイちゃんは、怪異の縄張りに入ったのと同じ体験をしたことになるね」
芽衣はかつて一度だけ、怪異の“縄張り”に侵入してしまったことがある。
確かにそのときも違和感はあった。だが、ここまでの気持ち悪さ、異質さまでは感じなかった。その“縄張り”は大した力のない悪鬼によって張られたものだったはずだ。
ならば、彼女が先ほど体験してしまった“儀式の場”は、どんな『魔人』あるいは『悪魔』が生み出す“縄張り”に相当するものだったのか。
「それはそうと、メイちゃん。立花さんは南区にいたよ。ここからそんなに離れてないない住宅街を歩いているみたい。やっぱり笹倉さんのところに向かってるのかな?」
黒亜は話題を変え、先ほどの魔術で探し出した千春について語った。
そう、芽衣が魔術を体験するのはついでで、本題はこちらである。
「場所はどの辺かわかる?」
スマホを取り出した芽衣は地図アプリを開くと、黒亜が視た情報を元に千春の推定位置を特定する。どうやら場所は煙羅亭からさほど離れてはいない。
彼女の移動速度も速くはないが、そのまま真っ直ぐ進んだ先には和美の家があるらしい。
もう出ないと間に合わないと判断したのか、黒亜はテーブルの上に置かれた呪杯と足元のバッグを手に取ると立ち上がった。
「今回は『悪魔』が相手みたいだし、気を付けてね」
先ほどの体験が尾を引いているのか、芽衣は珍しく黒亜を気遣う言葉を投げる。
これに対して黒亜もまた珍しく、ふふんと鼻を鳴らして不敵に応えた。
「任せな、相棒」
それは芽衣がよく口にする台詞。黒亜が言うと全く似合わない。
千春を追うために店を出た彼女を、芽衣は笑ながら見送った。
<続>




