七匹の子山羊 6
本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。
暗い病院内に、4つの音が響く。
――ざっ、ざっ、ざっ
1つは、雨宮刻子の履く草履が床を擦る音。
――カツン、カツン、カツン
1つは、夕川黒亜の履く黒いブーツが床を叩く音。
――べた、べた、べた
1つは、雨宮にしか見えない“式神”である『悪喰』が床を踏む音。
どん……どん……どん……
1つは、外から聞こえてくる何かが、雨宮の作った“結界”を殴りつける音。
この何か――神無市を騒がせている連続殺人事件の犯人の正体を確かめるため、雨宮と黒亜は待合ロビーから中庭の方へ向かっていた。
淡くぼんやりと光る非常灯が足元を照らしているが、暗順応して夜目が効いていても、通路の先は見通せない程に暗い。
その中を2人と1体は足音だけを響かせながら黙々と歩いていた。
「雨宮さん」
どこまでも続いていくのではないかと錯覚させる通路を歩きながら、黒亜は雨宮に話しかけた。
「ん?」
「さっき、この“結界”から出ようとしているのが“呪い”と『悪魔』の合体したもの、と言っていたと思うんですけど、どういうことですか?」
「ああ、そのことね」
雨宮は歩きながら、しかしその速度は少し落として語り始めた。
「じゃあ説明を……と言っても、そのままだけどね。今、私の作った“結界”を叩いているのは『悪魔』であり“呪い”なのよ。昔、赤音とやんちゃしてたときも、そういうのを視たことがあったわね。ふふ」
抜き身の短刀を握る右手とは逆の、左手の人差し指を顎に当てた雨宮は、宙に視線を向け、過去の経験を思い出しながら答えた。
「赤音が言うには、何かしらの形になる前の無垢な“呪い”に『悪魔』が乗っかる感じで融合しちゃう、だったかしら? 『悪魔』としての意識は残るけど、その行動自体は“呪い”に支配される……確か『呪魔』って呼んでたわね」
「呪魔……」
初めて聞く名前だった。
“呪い”とは、人が持つ“負の感情”や“負の念”から生まれるが、生まれたばかりの“呪い”は、例えるなら空箱のようなものである。
この空箱状態の“呪い”は非常に不安定なため、生まれた瞬間にその“呪い”を生み出した主の特性や特徴、あるいは周囲の環境要因を取り込み、箱の中を満たすこと他者を襲う安定した“呪い”と成る。
雨宮の言う『呪魔』とは、この空箱の中に『悪魔』が入ることで生まれた存在。
まさに“呪い”と『悪魔』の合体。
「そんなことが起こるんですね……」
「起こるのよねぇ。タイミングの問題と言えばそれまでだけど、無垢の“呪い”と『悪魔』がすぐ近くにいて、しかも波長が合わないと起こることじゃないから滅多に視ないのよ」
納得がいった。
であれば、あとは、
「『呪魔』って、相手にするのは厄介な感じですか?」
問題になるのはこの点だ。
「んー、基本は『悪魔』の対処法と同じかしら? でも普通の『悪魔』よりは強力かもしれないわね。私も3回くらいしか遭遇したことないけど、どれも面倒な子だったわ」
雨宮はさらっと言っているが、一口に『悪魔』と言っても、その強さの幅は広い。そしてその“普通の『悪魔』”は《《下側》》でも十分に強力なのである。
「まぁ私の“結界”が破れないんだから、今回の子は大したことないわ、きっと」
「はぁ……」
のほほんとそんなことを宣う雨宮だが、核シェルターを破れないミサイルは大したことがない、と言われたところで何の安心にもならない。
それに雨宮でどうにもならないような相手なら、黒亜がどうこうしたところで無駄だろう。
諦めたように小さく溜息を吐きながら歩いていると、やがて、前方がうっすらと明かるくなった。
「あの扉から中庭に出れるわ」
左右にスライドする大きな扉。その扉に設けられた小窓から明かりが漏れている。
扉を開けた先にある神無病院の中庭は、入院患者やその家族たちの憩いの場となっている。昼間はベンチに座って談笑する人、車椅子を押されて散歩する人、外出はできないが気分転換で外の空気を吸いに来た人など、多くの人の姿が見られる。
しかし、夜はただ、しん、と静かに、数個の防犯用の街灯のような照明が夜闇を照らしているだけの中庭。
そんな中庭に出た2人には、先ほどよりもはっきりと“結界”を打つ音が聞こえてくる。
広い中庭の反対側、道路に面した箇所。
そこに、それはいた。
雨宮と2人で歩き近付くと、うっすらと光に照らされシルエットが露わになる。
やや背の高い、人間の女性のような体躯の後ろ姿だった。しかし“結界”を叩くために振り上げられる腕は男性を思わせるような筋肉も見て取れる。
そして何より目を引くのは頭部。
黒い毛に覆われ、先端がこちらを向いた角のようなものが生えている、明らかに人間のものではない頭だった。
その『悪魔』のような存在――正確には『呪魔』と呼ばれるものが、ひたすら、何度も、機械的に、破れない“結界”を叩き続け、鈍い音を響かせ続けていた。
ここから出せ、と言わんばかりに。
「それじゃどれだけ時間をかけても壊せないわよ」
異形の頭部を持つ『呪魔』から5~6メートルほど離れた背後に立った雨宮が、声をかけた。
『呪魔』の振り上げていた腕が、ぴたり、と途中で止まる。
掲げられた腕はゆっくり下ろされ、『呪魔』の顔がこちらへ向けられた。
黒亜から息が漏れる。
前方に伸びる顔、鼻、口。頭部の真横から生える長い耳。顔の側面にある眼球は、それぞれがぎょろぎょろと目まぐるしく動いていた。
人間ではない、動物の頭部。
「山羊、かしら?」
雨宮が小首を傾げながら呟く。
そう、山羊だ。黒い山羊の頭部である。
胸部に膨らみを持つ人間の女性のような黒い体躯と、その体躯には合わない、男性のような力強さを感じる黒い手足。そして黒い毛に覆われた山羊の頭部。
この『呪魔』は、間違いなく“悪魔”だった。
オカルト、あるいは宗教的な解釈において“山羊”には様々な意味合いが存在するが、その中の一つが新約聖書にも書かれている“悪”の象徴である。
ヨーロッパで15世紀頃から長きに渡り『魔女狩り』がおこなわれていた頃には、悪魔は山羊の姿で現れるとされていたし、山羊をモチーフにした悪魔も生み出された。
その悪魔は長く悪魔崇拝の象徴として崇められ、かつてエルサレムの神殿の丘に本部を置いていた、かの有名な騎士修道会・テンプル騎士団も秘密裏に崇拝していたとされる古参の大悪魔。
その名は……
「バフォメット!?」
理性ある人間と理性なき獣。
男と女。
善と悪。
様々な二元性の象徴ともされたこの悪魔は、両性具有であり、山羊の頭と蝙蝠、あるいは烏の翼を持つとされていた。
不完全なのか、翼こそないが、目の前にいるこの『呪魔』のベースは『バフォメット』と呼んでいいだろう。
「そうそう、そんな名前だったわ。昔、何かの本で見た覚えがあるのよ。うん、やっぱり山羊ね」
黒亜が驚きと共に告げた悪魔の名に、雨宮は、ぽん、と両手を叩いて呑気に言う。
こちらを向いた『バフォメット』は動きを止めていたが、やがてその眼の動きも止まった。
その眼が見据えたのは、雨宮。
気付いたのだろう。自身の行動を阻む“壁”を作ったのが彼女だということに。彼女を排すれば外に出られるということに。
ふと、中庭の照明の光が『バフォメット』の持つ何かに反射した。
先ほどまでは握らていなかった右手の大きな金属の鋏。
それを目にして黒亜は確信する。
神無中学の生徒を殺害したのはこいつだった、と。
あの鋏で被害者たちの手を貫き、床に縫い止め、腹を切り開いたのだと。
あたかも「狼と七匹の子ヤギ」に登場する母ヤギが狼にしてやったように、切り開いた腹に物を詰め込んだのだと。
無意識に、黒亜の右手が左腕を覆う黒い長手袋に伸びる。
だがその手を雨宮が制した。
「言ったでしょ。今回は私がやるって」
そうだ。
あれは見た目こそ『悪魔』だが、実際には“呪い”と融合した『呪魔』である。
生きた人間の生み出した“呪い”は本人に返さなければならない。今回は雨宮がその責を負うと言っていた。
そのことを思い出し、黒亜は長手袋から右手を離した。
――しゃきん
不意に、『バフォメット』が手に持つ開いた鋏が閉じられ、金属の刃が擦れる音が鳴る。
同時に。
ぬぅ、と、雨宮の背後から、巨大な二本の刃が音も無く現れた。
「!?」
左右から雨宮の首を挟み込む形で現れた、巨大な鋏の刃。
その刃は、まるで糸を切るかのように、雨宮の首を切り飛ばそうと閉じられる。
「あ……」
余りに自然で、前置きも容赦もない奇襲に、間近で見ていた黒亜ですら反応できない。ただ咄嗟に、声とも呼べないただの音が喉の奥から漏れ出る。
あと数センチで首に刃が届いてしまう。
雨宮の首が切られてしまう。
間に合わない。
焦りで目を見開いた黒亜が、反射的に腕を伸ばした。
そのとき。
刃の動きが止まった。
無論、『バフォメット』が攻撃を止めたわけではない。
“結界”か“防護障壁”か。
否。黒亜には見えない何かが閉じようとする刃の動きを、まるで巨大な手が無理矢理に掴んで押し留めている――そんな光景に見えてしまった。
「せっかちねぇ」
少しでも横に動けな首が飛びそうな状況にも関わらず、雨宮は刃の表面を指先でなぞりながら、今までと変わらない調子で、しかし無感情な眼差しを『バフォメット』に向けていた。
反射的に対処した、というわけではないはずだ。
雨宮はそのおっとりとした性格もあり、立ち振る舞いが隙だらけで、無防備のように見えてしまう。
だが、本当に隙だらけであるなら、30年以上も様々な“怪異”を相手にして無事でいられるわけがない。
雨宮に隙などない。彼女にあるのは“余裕”だった。
あの『バフォメット』の初手は、雨宮だから問題なく対処できた話だ。
もし黒亜が単身でここに踏み込み、同じ様に初手で首を狙われていたら、無事では済まなかっただろう。
何をしてくるかわからない。決して油断してはいけない。
“怪異”を相手にする際の“油断”は、こと『悪魔』以上の存在が相手になれば生死に直結する。
長年【祟り屋】として活動している雨宮の経験と技量は、まだ黒亜が並び立てる次元ではないのである。
雨宮を狙い、しかし鋏を止められた『バフォメット』は、再びその手に持つ大鋏を開いた。
二撃目が来る…!
どぉん!
黒亜が身を固くした瞬間、凄まじい音が鳴り『バフォメット』が地に伏した。
大の字でうつ伏せに倒れた『バフォメット』は起き上がろうしているのかもしれない。
しかし、またも見えない何かだ。
何かが『バフォメット』を真上から押さえつけているのだろう。その身体は地面にめり込まんとしていた。
「『悪喰』様、そこに倒れる『呪魔』の両腕のみをお召し上がりください」
その言葉に反応するように、倒れた『バフォメット』の両腕の傍らに“鬼の口”が現れる。その“口”は院内で無数の『悪霊』たちを喰ったように、『バフォメット』の腕に喰らい付き、引き千切り、咀嚼し、喰らった。
――おおおおおおおおおお!!!!!!
両腕を失った『バフォメット』の口から放たれる、低く、太い、苦痛の悲鳴。
たとえ相手が『悪魔』より上位の『呪魔』であれ、暴食の“神”の前では等しく、餌でしかない。
得物である大鋏を腕ごと失った『バフォメット』は、それでもなお、雨宮に牙を剥こうと唸り声を上げる。だが、『呪魔』を抑え込む不可視の圧が身じろぎすら許さなかった。
雨宮家は平安の世から続く陰陽師の家系であり、とりわけ“式神”の技に長けているという。中でも雨宮家の当主が代々契約を結ぶ『悪喰』という“祟り神の式神”が象徴的な存在である。
だが。
刻子に限っては自身が作り出した、とある“式神”も使役している。
その名を『白黒十神』
陰陽道の基本となる“陰陽五行思想”を基に作り出された、十体の式神。
「さすがに晴明様の『十二神将』には及ばないと思うけど、なかなかの自信作なのよ? あ、でも詳しいことは企業秘密、ね」
と、以前尋ねたときには詳細まで訊くことは叶わなかったが。
いるのだろう。
いつの間に呼んだのかもわからない、黒亜には見ることも、気配を感じることさえ出来ない、刻子の“式神”が。
あの黒山羊の『呪魔』を抑え込み、大鋏から雨宮を護った“白黒十神”が。
「この子がただの『悪魔』なら『悪喰』様に食べて貰っておしまいなのだけど、それじゃ“呪い”が解決しないし、やっぱり面倒よねぇ、『呪魔』は――」
地に押さえつけられた『バフォメット』の傍に立った雨宮は、さして警戒する様子もなく溜息を吐いた。
黒亜なら初撃の不意打ちで死んでもおかしくなかったことをしでかした『呪魔』を相手に、その口から出たのは“面倒”という感想。
雨宮にとってはその程度の相手。
「じゃあ、そろそろ“返って”貰おうかしら」
右手に短刀、左手にはどこから出したのか、1枚の札を持ち、雨宮はしゃがみ込んだ。
押さえつけられてなお、雨宮を排除すべき敵と見做して、睨め付け見上げる『バフォメット』の頭に、雨宮は左手の札を乗せる。そして、その上から短刀を突き立てた。
さして抵抗も無さそうに、しかし、ぐじゅり、という音でも聞こえてきそうな一突きに、『バフォメット』から再び低い悲鳴が上がった。
雨宮はその様子を眉一つ動かさず、無言で見つめる。
やがて『バフォメット』の身体は徐々に薄くなり、最後には完全に消えてしまった。
「終わったんですか…?」
「ええ。“呪い”は返ったわ」
あまりのあっけなさに、思わず問いかけてしまった黒亜。
対して雨宮は、立ち上がりながらただ事実を述べる淡々とした様子で答えた。
「あの『呪魔』が原因なら、もう殺人事件も起きないでしょう。刑事さんにもそう伝えておいて頂戴。ああ、後、浜中くん、だったかしら? 自殺未遂して寝たきりになっちゃった子。その子、たぶん死んだから》。それも確認してもらうように伝えるといいわね」
「……はい」
わずかに目を伏せた黒亜の表情が暗くなる。
人を呪わば穴二つ。
しかし今回は5つの穴を掘ることになってしまった。いや、5つで済んだと言うべきか。いずれにせよ、後味は悪いの一言に尽きる。
「『悪喰』様、お戻りください」
ひゅう、と微かに風が吹く。
雨宮が短刀を鞘に納めると、周囲を徘徊していた不穏な気配も消え去った。
「さ、帰りましょうか」
雨宮は、ぱん、と1回手を打つ。
丑三つ時の夜の世界は一変し、光と音に溢れたこの世に戻った。
2人しかいなかった中庭には、病院関係者や患者、そしてその家族と思われる人々が、談笑やリハビリ、気分転換など、各々が思い思いに時間を過ごしている。
その中の何名かが、驚いたような表情を向け、雨宮と黒亜をの方を見ていた。
『霊』も『悪霊』も“呪い”もなくなった病院は、心なしか少し静かに、そしていつもよりも明るく見えた。
◆◆◆◆◆
2日後。
煙羅亭に檜山が訪れた。
あの『呪魔』の退治後、病院で雨宮と別れた黒亜は芽衣に電話をかけ、事のあらましと、雨宮の言っていた確認事項を告げた。
芽衣から連絡を受けた檜山は、翌日、神無病院で浜中の様子を確認したらしい。
「結論から言うと、浜中は亡くなった」
檜山は黒亜の姿を見つけるとテーブル席の対面に座り、開口一番に告げた。
今日は芽衣もアリアもいない。店内にはいつもの陽気なジャズが流れているが、店内は穏やかだった。
「亡くなったのは2日前。俺が猫の嬢ちゃんから連絡を受けた日だ。植物状態でありながらも安定はしていた浜中の容体が急変。原因不明の心臓発作を起こしてそのまま……だったそうだ」
「そうですか……」
おそらく、雨宮が『呪魔』を返した後、すぐのことだったのだろう。
「まぁ、その、なんだ……お前さんたちが何をしたのかは知らねぇし、訊くつもりもねぇ。もし自分たちのせいで浜中が死んだって思ってるなら……気にするな。これは俺が判断してお前さんたちに頼んだことだ。なら浜中が死んだ責任は俺にある」
そのつもりはなかったが、浮かない表情が出てしまったのだろうか。
檜山は少しばつが悪そうに後頭部を手で搔きながら言った。
自身の手には負えなかったとはいえ、警察という立場でありながら、自分より遥かに年下の民間人に依頼をおこない、その結果、死者が出てしまった。その負い目があるのだろう。
「大丈夫です。割り切っています。“怪異”に関わっていると、よくあることですから」
よくあることだからといって、慣れるわけではない。
生きている人間を死者から、霊から助けたいためにしている活動で死者が出てしまう。本末転倒もいいところだ。
そしてどんな状況であれ、死者が出て哀しいことはあれど、嬉しいことなど一つもない。それがたとえ“呪い”を返すしか方法がなく、その結果として返された者に確定の“死”が待っているとしても、だ。
そうするしか方法がなく、その結果として人が死ぬ。
理解はできる。だが、納得はできない。
誰も死なずに済む方法が、他にあったのではないだろうか?
雨宮ほどの経験を積んできてもなお、方法はそれしかないと言うのだから、こうするしかなかった。それでも人が死ぬと、毎回考えずにはいられないのだ。
“怪異”に関わる活動には、そんなことが本当に多い。
「そうか……」
檜山も言葉通りには受け取ってはいないだろう。強がりを言っているように思われたかもしれない。しかし、こう言われればそれ以上は深く追求することはできない。
2人の間に沈黙が下りる。
他に言葉も見つからず、沈黙に耐えかねたのか、檜山は席を立った。
「改めて、助かった。そしてすまなかった。報酬については猫の嬢ちゃんに渡しておいた。じゃあな――」
そう言って、檜山は店を後にした。
一人、席に残った黒亜は、目を閉じて上を向くと、深く、深く息を吐いた。
<七匹の子山羊、終>




