第一話 人生で一番、幸せな日
※本作は和風ダークファンタジーです。
※残酷な描写・鬱展開を含みます。
※ご自身の判断でお楽しみください。
痛い。
指が冷たい。
口の中いっぱいに鉄臭い味が広がる。
顔から生暖かい液体が流れ落ちて、地面の上に赤い染みを作っていく。
(……痛い)
みんなを守りたかった。
みんなを幸せにしたかった。
……本当に?
英雄になりたかった。
拍手が欲しかった。
誰かに、凄いって言ってほしかった。
(……死にたくない)
遠くで、拍手の音が聞こえた気がした。
あんなに欲しかった、あの音が。
――今は、耳障りな葬儀の合図にしか聞こえなかった。
* * *
夕暮れの空が、赤く染まっていた。
村の門が開くと、ざわめきが広がった。
「帰ってきたぞ!」
誰かの声を合図に、歓声が弾ける。
十二面士たちが村へ戻ってきたのだ。
袴の裾は裂け、羽織には乾いた血が黒く残っている。
頭の横には、十二支の動物を象った面が掲げられていた。
村人たちは一斉に駆け寄った。
「おかえりなさい!」
「今日はどうだった!?」
「妖は何体出た!?」
面士の一人が疲れた声で答えた。
「三体だ。 南の森に出てた」
どよめきが起きる。
妖は、人の兵では太刀打ちできない。
だからこそ、面を授かった彼らは英雄と呼ばれる。
面士たちを囲む声は明るかった。
だがその時、歓声の波がほんの一瞬だけ揺らいだ。
笑い声が、ひとつ、またひとつと小さくなる。
面士たちの列の後方。
そこだけ、人の流れが不自然に途切れていた。
やがて、静かに担架が運ばれてくる。
まだ若い面士だった。
血は拭われて装束も整えられており、遠目には眠っているように見えた。
母親は担架の横に膝をつき、震える手で息子の手を握った。
まだ温もりの残るその手を、縋るように握りしめるが、すぐに力なく指を緩めた。
「立派だったらしい」
「最後まで前に出ていたと」
村人たちの言葉に、母親は何度も頷く。
口元だけが、うまく形を作れずに震えていた。
「……面士として、役目は果たした」
父親が短く息を吸い、絞り出すように言った。
「名誉だ」
周囲も深く頷く。
「誇らしいことだ」
「村を守ったんだ」
すると、小さな少年が母親の袖を引いた。
「僕も面士になりたい。 兄ちゃんみたいに戦って、みんなに拍手してもらうんだ」
母親の表情が一瞬だけ強張る。
それでも、否定はしなかった。
「……面士になるのなら、覚悟を決めるんだよ」
担架がゆっくりと運ばれていくと同時に、拍手が重なり広場を満たす。
「かわいそう」と言う者は誰もいなかった。
* * *
少し離れた場所で、その光景をじっと見つめる少女がいた。
あやめ、十歳。
栗色の二つ結びを揺らしながら、赤紫の瞳で担架をじっと見つめていた。
(あたしは、あそこに乗りたくない)
死ぬのは怖い。
あんな風に運ばれて終わるなんて、嫌だ。
けれど、目が離せなかった。
村の人たちは、死んだ面士を囲んで名前を呼んでいた。
立派だった、誇らしいと口々に言っている。
畑を手伝っても、妹の面倒を見ても、あやめの名前がこんなふうに呼ばれることはない。
それが当たり前だと分かっているのに、羨ましかった。
名前を呼ばれたい。
凄いって言われたい。
誰にも見てもらえないまま終わるくらいなら、あんなふうに拍手される方がいいと、一瞬だけ思ってしまった。
「……あたしも、ああなりたい」
呟いた声は、拍手に紛れて誰にも届かなかった。
* * *
八年後。
五月五日。
端午の節句。
今日はあやめの十八歳の誕生日であり、人生が決まる日だった。
この日が来るのを、何年待っただろう。
選ばれさえすれば、あたしの人生は変わる。
「あやめ、頼むから座って。 床に穴が開くから!」
「あーもう無理! 落ち着けるわけないじゃん!」
畳を行き来するあやめの足音に、母・うめが声を張り上げた。
母は、さっきから何度も同じ棚を拭き掃除していた。
もう埃一つないというのに、雑巾を動かす手は止まらない。
「今日なんだよ!? 一生に一回の日なんだよ!?」
「わかってるよ。 だからこそ座ってなさいって言ってるんでしょうが!」
母は言い返しながら、今度は棚の魔除けを並べ直し始めた。
この村では十八歳になると、屋敷から遣いが来る。
妖を討つ力を持つかどうかを選別され、適合した者だけが『十二面士』候補となる。
だが、その確率はわずか五%。
大半はただの人間として追い返される。
同い年の子たちが、誰が好きだの格好いいだのと騒いでいても、あやめにはぴんと来なかった。
あやめが欲しいのは、英雄として名を呼ばれる未来だった。
今日は、そのための審判の日なのだ。
母の横では、父・はぎが膝をつき、廊下の板目を一心不乱に磨き上げている。
「あやめ、落ち着きなさい。 果報は寝て待てと言うだろう」
「お父さんこそ、そこ、さっきも磨いてたじゃん。 もう鏡みたいになってるよ」
「……まだだ。 まだ、曇っている気がするんだ」
父は一度も手を止めず、板目に反射する自分の顔を睨みながら雑巾を滑らせていた。
「お姉ちゃん、また外を見に行くの?」
妹のつつじが、呆れたようにあやめの袖を引く。
「確認しに行くだけだってば!」
いつもと変わらないようで、どこかひとつ歯車が噛み合っていない朝だった。
* * *
昼前、不意に遠くから鈴の音が響いた。
ざわめきがぴたりと止む。
「……来た」
白装束の使者が、道の中央を歩いてくる。
村人たちは黙って道を開き、はしゃいでいた子どもたちですら口をつぐんだ。
使者はあやめの家の前で足を止めると、細長い札を取り出し、事務的に告げた。
「左手を。 札が赤く光って燃えれば『適合』です」
あやめは一瞬、ためらった。
選ばれれば英雄、燃えなければただの村人。
その境目が、この薄っぺらな紙一枚で決まってしまう。
(もし適合すれば、屋敷から莫大な報奨金が家族に支払われる。 あたしは憧れの英雄になれて、家族は一生食いっぱぐれない)
……やるしかない。
あやめは震える手を差し出した。
札が手の甲に触れた瞬間、赤い光が皮膚の下を這うように広がった。
あやめの熱に煽られるように、赤く光りながら燃えるようにして、札が消えていった。
「適合者です。 十二面士候補として登録されます」
その言葉を聞いた瞬間、あやめの頭は真っ白になった。
鼓動がどくどくとうるさく響いて、うまく息ができない。
(嘘じゃない。 夢じゃない。 ……あたし、やったんだ!)
ずっと遠くから見上げることしかできなかった場所に、ようやく自分の足で立てる。
家族に胸を張れる、みんなを守れる『英雄』に、あたしはなれるんだ。
「……ッ、やったあああああ!!」
あやめが叫ぶのと、歓声が爆発するのは同時だった。
「あやめ……あんた、本当に……!」
母が、真っ赤な顔で突っ込んできて、あやめを力いっぱい抱きしめた。
「立派になったな、あやめ」
父が、震える手で何度も肩を叩く。
「お姉ちゃん、すごーい!」
妹のつつじが、あやめの腰にしがみついて顔を輝かせる。
熱狂に包まれ、名前を呼ばれ、背中を叩かれる。
生まれて初めて、世界の真ん中に立った気がした。
端では年配の女性が涙ぐみながら頷いている。
「よかった……よかったね……」
祝いの言葉のはずなのに、あやめには重たく聞こえた。
(……気のせいだよね)
そうだ。
嬉し泣きに決まっている。
今日は人生で一番、幸せな日なのだから。
「準備を」
使者の声が、歓声を切り裂いた。
「……え?」
母が、あやめを抱きしめていた手を緩め、顔を上げた。
「本日より、屋敷へ同行していただきます」
「今日、連れていくんですか?」
父の声が、少しだけ裏返った。
「はい。 適合者は直ちに屋敷で登録と支度を行います」
使者は淡々と告げた。
「さすが選ばれた人は違う」
「しっかりな、あやめちゃん」
周囲から祝福の声が重なる。
父は口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。
母の手が、痛いほど強くあやめの腕を掴んだ。
「あやめ、しっかりしなさい。 あんたは、うちの誇りなんだから」
「わかってるって!」
あやめは笑って、その手を振り払うようにして歩き出す。
その時の母の指先が、一瞬、頼りなく宙を泳いだことには気づかなかった。
「お姉ちゃん!」
つつじが、人混みをかき分けて飛び出してきた。
差し出されたのは、色鉛筆で描かれた一枚の紙。
そこには、凛々しい戦馬の面が描かれていた。
「ずっと前から描いてたの! お姉ちゃん、絶対これ似合うと思って!」
得意げな笑顔。
あやめは、その絵を大切に懐にしまった。
「ありがとう。 絶対帰ってくるね」
「うん、英雄になってね!」
妹にそう言われると、誇らしい気持ちになる。
英雄になりたい。
その気持ちに、まだ嘘はなかった。
* * *
村を出て、白装束の使者の後を追う。
背後の歓声は遠ざかり、辺りには自分たちの足音だけが響いていた。
やがて、屋敷の外門が見えてくる。
村の建物とは比べものにならない高さの石門だった。
重い音を立てて門が開き、その向こうに奥へと続く長い石畳が伸びている。
一歩足を踏み入れた瞬間、冷えた石の感触が足裏に伝わる。
(あれ……?)
この場所を、知っている気がした。
誰かと一緒に、この石畳を走ったことがあるような気がする。
隣にいたあの子の顔が、ぼんやりと浮かびかける。
けれど、それ以上を思い出す前に、前方の使用人たちが寸分違わぬ動きで一斉に頭を下げた。
そのうちの一人と目が合ったが、相手はすぐに視線を伏せた。
祝いの言葉も、歓迎もない。
「こちらへ」
抑揚のない声に促され、あやめは敷地の奥へ進んだ。
石畳の先にあったのは、巨大な屋敷だった。
扉が開かれ、そのまま中へ通される。
長い廊下の奥、灯りの届かない場所に人影が立っていた。
(……誰?)
顔は見えない。ただ静かに、こちらを見ている。
それだけなのに、なぜか足がすくみそうになる。
背後で扉が閉まる。
わずかに残っていた外の気配が、完全に途切れた。
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