#27 胸の使い方④
「……慎重に、慎重に……」
私は今、人生で最も“衝撃”という言葉と向き合っている。
依頼主から預かったのは、“幻の震生薬”が充填された薄氷のフラスコ。
わずかな衝撃で反応し、半径数メートルを更地にするという、移動する地雷のような代物だ。
本来ならプチプチの緩衝材を詰めて運ぶべきだが、この世界にそんなものはない。
だから私は、自分の中にある“最強の緩衝材”を使うことにした。
(……ここなら、絶対に割れない)
私はフラスコを、自分の胸の谷間に、深く、深く差し込んでいた。
(……待って。これ、完全に“胸で挟んでご奉仕の体勢”じゃない?)
自分で自分にツッコミを入れて、思わず足を止める。別名を“紅葉合わせ”というらしい。
違う。違うから。これは運搬。安全確保。命がかかってるやつ。
決して、そういう目的の姿勢じゃない。
(……なのに、なんで心臓の音がうるさいのよ)
ガラス越しに伝わる冷たさと、自分の体温。
その対比を意識した瞬間、頭の中に余計な連想が湧き上がってくる。
(あ、これ……私、相当、煩悩たまってない?)
ぶんぶんと頭を振り、必死に雑念を追い払う。
今は仕事中。私は勇者でも色仕掛け係でもない。
ただの“慎重な運び屋”だ。こんな状態で爆散する訳にはいかない。
一歩踏み出すたびに、肌にひんやりとしたガラスの感触が伝わる。
だが、私の胸の肉がその衝撃をすべて吸収し、フラスコを完璧に固定している。
「はぁ……はぁ……」
怪しすぎる。両手で胸を左右から挟み込むように押さえ、すり足で、腰を落として歩く。
余計なことばっかり考えてる自分の頭が恨めしい。どう見ても変質者だ。
(でも、これしか方法がないんだよ!)
普通のバッグに入れれば、歩行の振動でアウト。
手に持てば、誰かとぶつかった瞬間にアウト。
だが、この聖域に収納して、さらに両手でガードしていれば、物理学的にこれ以上の安全地帯はこの世に存在しない。
ここまで手をのばしてくる人もいないはずだ。もしいたら、私以上の変質者である。
(……ん、なんか、冷たい?)
一歩、また一歩と慎重に足を運ぶうちに、胸の奥で妙な感触が走り、私は背筋を凍らせた。
キンキンに冷えているフラスコと、生温かい私の体温。
その温度差が、密着した場所で結露を引き起こし始めていた。
(……やば。これ、どんどん濡れていってる……っ!)
冷たい滴が、谷間の奥深く、肌を滑り落ちていく。
ただでさえ全神経を集中させているというのに、そのくすぐったいような刺激が、私の集中力をじわじわと削っていく。
(あ……。待って。これ、もしかして……)
恐る恐る視線を落とすと、案の定だった。
胸の中心からじわじわと水分が染み出し、淡い色の生地を濃い色に変えていく。濡れた布地は吸い付くように肌に密着し、その下にあるブラジャーの柄が、はっきりと浮き彫りになっていた。
(……嘘でしょ!? これじゃ、ただの濡れ透けイベントじゃない!!)
爆発を防ぐために胸を抱え上げるようにしているせいで、私は胸を見せびらかすように歩いている。
背筋は伸び、歩幅は小さく、足運びはひどく慎重になる。
ここで少しでも身をよじれば、半径数メートルが吹き飛ぶ。 私が恥死するか、物理的に爆死するか。
この究極の二択を突きつけられた状態で、私はただ涙目で前を見つめるしかなかった。
「……あら」
ふと、横目に視線を感じる。
見れば、通りすがりの少女――どこかの屋敷で働いていそうな、清潔なエプロンドレス姿のメイドが、足を止めてこちらを見ていた。
(やばい、見られてる……!?)
だが、その視線は――予想していたものとは少し違っていた。
じっと、私の胸元を見つめたまま、彼女の頬が、ほんのりと赤く染まっていく。
「……ご立派な……」
ぽつりと漏れた声は、感嘆にも似ていた。
(えっ)
一瞬、思考が止まる。
彼女は自分の胸元――控えめな膨らみと、ふくよかな体つきを気にするように手を添えてから、こちらへ軽く頭を下げた。
「失礼いたしました、お嬢様」
そう言って、どこか気後れした様子で足早に去っていく。
(……お嬢様!?)
この世界における“胸が大きい=高貴・豊穣”という価値観の恐ろしさを、改めて肌で感じていた。
私の変質者ムーブは、通りすがりの住人からすれば「豊かさの象徴が瑞々しく輝き、慈しむように何かを抱いている」という、宗教画か何かに見えるらしい。
(……いやいやいやいや)
脳内で全力否定する。
(この状況で!? この姿で!?)
爆発物を谷間に挟んで、濡れ透けになりかけながら歩いてる女が?
(どこの世界にそんなお嬢様がいるのよ!!)
心の中で叫びながらも、私は結局――
その“勘違い”を否定する余裕すらなく、ただ必死に足を前へと運ぶしかなかった。
教会へ続く石の階段を前にして、私は小さく息を呑んだ。
段数は多くない。だが、問題は別のところにある。
(……足元、見えない)
胸に挟み込んだフラスコの存在もあるが、それ以前に自分の胸そのものが視界を遮っている。
視線を真下に落としても、段差の先はふくらみの向こう側だ。
(段の高さ、どれくらい……?)
首を少し横に傾けて、角度を変えてみる。
それでも、石段の縁は曖昧にしか見えない。
(……これ、普通に危ない)
一段踏み外せば、即転倒。
転倒すれば、胸の中のフラスコが終わる。
私は足を止め、しばし真剣に考えた。
(……横向きで降りる? いや、胸がぶつかる……)
結局、私は極端に慎重な方法を選ぶことにした。
一段ごとに、つま先で段の縁を探り、確認してから体重を移す。
「……よし……ここ……」
まるで暗闇を歩くみたいだ。
視界に頼れない分、足裏の感覚だけが頼りになる。
胸を抱え込むせいで前屈みになれず、自然と上体は起きる。
結果、ますます足元が見えない。
(……詰んでない? これ)
一段進むだけで発生する大きな位置エネルギーを、世界最高の衝撃吸収材が無効化していく。
段差を読み違え、ヒヤリとする瞬間が何度もあった。
ほんの数センチの誤差で、バランスが崩れそうになる。
そのたびに、私は腹筋に力を入れ、胸を固定し、なんとか踏みとどまる。
「……っ」
一度だけ、足が空を切った。
心臓が跳ね上がり、全身が強張る。
(今の、今のは……!)
ギリギリで段の縁に靴底が引っかかり、転倒は免れた。
胸の中のフラスコは、奇跡的に無事。
(……危な……!!)
私はその場で数秒、完全に静止した。
呼吸を整え、フラスコの感触を確認する。
(……大丈夫。割れてない)
改めて思う。これは魔物討伐よりよほど神経を使う。
胸があるせいで足元が見えず、胸があるおかげでフラスコは守られている。
(……プラマイ、ゼロ……?)
そうして、これ以上ないほど慎重な動きで、私は一段一段、階段を制圧していった。
最後の段に足を置いた瞬間、視界の先に、教会の大きな扉が現れる。
「……着いた……」
思わず、声が漏れた。
胸を押さえたまま、深く息を吸う。
爆発物も、自分の体も、まだ無事だ。
(……階段だけで、寿命縮んだ気がする)
教会の大きな扉を押すと、静寂が包み込む。
石造りの空間に、わずかに差し込む光。外の街の喧騒が嘘のようだ。
(……ここまで来れば、あとは安全……かな?)
胸に挟んだフラスコを抱えたまま、私は教会の奥へと進む。
肩の力が少しだけ抜け、ようやく“慎重すぎる運搬ミッション”の緊張から解放される。
胸はまだガラスのフラスコを守るために存在しているが、心の中ではほっと安堵のため息をついた。
(……次は、受け渡しだけ。ここまで来たんだから、もう大丈夫……!)




