#21 欲求不満③
ノエルが帰ってきたのは、夕食の匂いが部屋に残り始めた頃だった。
扉の音と一緒に、外の空気が入り込む。
「ただいま戻りました」
いつも通りの、丁寧で落ち着いた声。
それを聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた熱が、一気に意識の表に浮かび上がる。
「おかえり、ノエル。今日もお仕事、お疲れ様」
そう言うと、ノエルは軽く頷いて、壁際で鎧を外し始めた。
金属が擦れる音。肩当て外れ、重そうな装備が床に置かれる。
(……ああ。それ、絶対、肩、凝るやつだ……)
私は、無意識にドレスから溢れる谷間に視線を落とした。
(……来た)
セクシードレスの裾を指で整える。
やりすぎていない。はず。
(誘惑リベンジ、スタート)
できるだけ自然に。できるだけ、いつも通りに。
……いや、無理だ。心臓がうるさい。
「ねえ」
私は、少しだけ声のトーンを落として言った。
「ご飯にする? お風呂にする?」
「それとも、私?」
言った瞬間、頭が沸騰しそうになった。
(な、なに言ってるの私!? 声、震えてない!? 顔、赤くない!?)
必死で平静を装っているつもりでも、内側は完全にパニックだった。
「……え……」
ノエルは一瞬、言葉を失ったように固まった。
視線が泳いで、喉が小さく鳴る。私と、干してある洗濯物と、また私。
数秒。たぶん実際は一瞬。
でも、体感はやけに長い。
「……で、では。“ルリ様”で! お願いします」
その敬語が、やけに真面目で。だからこそ、破壊力があった。
(……っ!!)
頭が、一瞬で真っ白になる。
(え、今!? 聞き間違いじゃないよね……?)
「そ、その……」
ノエルは耳まで赤くしながら、慌てて言葉を継ぐ。
「じ、じゃあ、いきなり何かするわけじゃなくて……」
(落ち着け私!!)
「肩、凝ってるから、揉んでほしいなって……」
自分で言っておいて、破壊力が高すぎる。
「……肩、ですか」
ノエルは一瞬、安堵したように見えた。
「承知しました」
そう言って、私の背後に回った。
(……え、ほんとに来た)
肩に、手が置かれる。
思ったより、ずっと近い。
「……こちらで、よろしいでしょうか」
「う、うん……」
指が、ゆっくりと動く。
力加減は控えめなのに、意識がそこに集中してしまう。
(……やば……)
“私”を選んだって事実が、まだ頭の中で反響している。
顔が一気に熱くなる。でも、私の表情はノエルからは見えない。
(……見えなくてよかった……)
「この辺りでしょうか?」
「う、うん……」
声が、少し上ずった。自分でも分かる。
(落ち着け! 肩揉み、ただの肩揉み……。これはノエル誘惑の序章でしかない)
ノエルの手は、真面目だ。変に滑らせることもないし、迷いもない。
ただ、凝っているところを、丁寧に探している。
「……思ったより、硬いですね」
「でしょ?」
私は、視線を前に固定したまま、ぽつりと言った。
「胸、大きいと、どうしても肩が凝るんだよ」
その瞬間、ノエルの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……そ、そうなのですね、……不勉強で」
声が、わずかに硬い。
(……効いてる?)
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
その拍子に、ドレスの布が、わずかに動く。
「だから……」
「今、こうやって揉んでもらえるの、助かってる」
事実を言っているだけなのに、妙に空気が静かになる。
ノエルは、またゆっくりと揉み始めた。
でも、さっきより少しだけ、ぎこちない。
(今の、完全に……)
私は、思わず小さく笑ってしまった。
(私、主導権握ってる?)
見えないのをいいことに、真っ赤な顔のまま、そっと目を閉じた。
肩に置かれたノエルの指が、ゆっくりと動いた。
「……この辺」
一度、指が止まる。
「ん?」
思わず聞き返すと、ノエルは少しだけ首を傾げた。
「硬いですが、張り方が違います。脂肪の下で、僧帽筋が引っ張られている感じです」
指先が、位置を確かめるように、わずかにずれる。
「ここからが、凝ってるところ」
「分かるの?」
「触れば」
あっさりとした返事だった。
「怪我人を診ることが多いので、筋肉と、そうでない部分は、だいたい」
そう言って、また何事もなかったように揉み始める。
私は、その指の確かさに、思わず息を吐いた。
肩揉みは、思っていたよりも長く続いた。
ノエルの手は、最後まで丁寧で、真面目で、余計なことは一切しない。
力加減も的確で、凝っているところをちゃんと分かっている。
「どうでしょうか?」
「うん。すごく楽……」
私は、いつの間にか完全に身を委ねていた。
肩の重さが抜けて、頭の奥までじんわりと緩んでいく。
(……気持ちいい……)
目を閉じたまま、ソファに深く腰掛ける。
ノエルの存在は近いのに、安心感のほうが勝ってしまっていた。
「今日は、このくらいに……」
肩から手が離れる。
その瞬間、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に、内心で驚く。
「……助かった。ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
ノエルは、いつもの距離感に戻っていた。
一歩引いて、敬語で、穏やかに。
(……あれ?)
そのまま流れるように食事をして、夜の支度をして、何事もなかったかのように部屋の灯りを落とす段になって、ふと私は思い出した。
「……そういえば」
「はい?」
ノエルが振り返る。
「昨日は、私がベッドを使ったでしょ?」
「え、ええ」
「だから今日は、ノエルがベッドだよね」
「いえっ!? ル、ルリ様をソファーで寝かせるわけにはっ!」
「ノエル、毎日ソファーで寝るの? 腰痛めたら仕事に支障出るよね?」
「そ、それは……」
私は、わざと軽く言った。
「だからさ」
「……?」
「ベッド、ふたりで使おう?」
一瞬、空気が止まった。
「――っ!?」
ノエルの顔が、みるみる赤くなる。
言葉を探しているのが、はっきり分かる。
でも、ベッドを拒む言葉は見つからない。
……
「……で、では……失礼します……」
ノエルはそう言って、できるだけ端に寄る。
背中が壁につくくらい、ぎりぎりまで。
(……いや、そんなに端に行かなくても……)
私はというと、布団に入った瞬間から、全身が強張っていた。
仰向け。手はお腹の上。足はきちんと揃えている。
(……近い……)
距離は、確かに保たれている。
でも、同じベッドという事実だけで、情報量が多すぎた。
寝返りを打つたびに、マットレスがわずかに沈む感覚。
(……これ、寝れる気がしない……)
目を閉じても、意識が逆に研ぎ澄まされる。
呼吸の音。
衣擦れ。
沈黙。
私は、そっと隣をうかがった。
……静かだ。
ノエルは、仰向けに近い姿勢で眠っている。
呼吸は深く、規則正しい。
胸が、ゆっくりと上下しているのが、暗闇でも分かる。
(……寝てる)
それも、ぐっすり。
(……え?)
耳を澄ませても、乱れはない。
緊張した気配も、浅い呼吸もない。
完全に、仕事終わりの健全な睡眠。
(……さっきまで起きてたよね?)
(……同じベッドだよね?)
さっきまで、私だけが感じていた重さ。
距離。
布団越しの体温。
それら全部が、どうやら私の一人相撲だったらしい。
(……うそでしょ!?)
セクシードレスを着て、発情した私がすぐ隣にいるのに!!
(……落ち着け、私……)
天井を見つめたまま、ぼんやりと今日のことを思い返す。
(でも、“私”選んでもらったな……)
(……肩、揉んでもらったな……)
胸の奥が、少しだけ温かい。
……そして。
(……あ)
思考が、ぴたりと止まった。
(……私、役割、交代する予定じゃなかった?)
記憶が巻き戻る。
私の肩揉みのあとで、「今度はノエルの番ね」って言う。
後ろに回って、胸が当たる距離で、ノエルを労いつつ肩を揉む。
(……完全に……忘れてた……)
布団の中で、私はごろりと横を向いた。
(……何してるの、私……)
あれだけ準備して、あれだけドキドキして、“触れてもらう”までは達成したのに。
(肝心の“押し付ける”工程。……完全に、抜け落ちてた)
私だけが気持ちよくなって満足してしまった。
頭を抱えたい衝動を、布団の中でこらえる。
天井に向かって、静かに息を吐く。
(……これは、失敗だよね)
ノエルは、何も知らない。
いつも通り、誠実で、優しくて。
(……誘惑って、体力いるんだな……)
そう思ったら、妙に納得してしまって、少しだけ可笑しくなる。
布団の中で、私は小さく身を丸めた。
(……次は……)
(……ちゃんと……最後まで……)
そう心に誓いながら。
誘惑失敗の反省会を、一人で静かに続けたまま、
私はそのまま、眠りに落ちた。




