アンジュにて
気分を切り替えて清二は町をぶらつくことにした。ふと気付けばまだお腹に何も入れてない事に気付き、先程の「アンジュ」という喫茶店に立ち寄ることにした。
「アンジュ」は羨望町内ではわりかし有名な喫茶店だ。というのも、喫茶店は羨望町には数店しか存在せず、飲食は羨望町では喫茶店でしかできない。味の良し悪しのこともあるだろう。「アンジュ」はそんな羨望町の中でも馴染みの客が比較的多い喫茶店で、清二も利用することが多い。「アンジュ」の売りはメニューの多様性もさることながら、パスタの味も好評であった。馴染みの客に「アンジュ」新作パスタを試してもらい、評判が良ければメニューとして出す。そんな運営が気に入られ、遠方から来る客も多い。
「アンジュ」に向かう途中の道で、清二は先程の女性の事を考えていた。女性のぶつかったときの対応、初対面の者に殴られる理不尽、最近流行りの”小説のようなもの”で書かれているような展開が実際目の前で行われてしまったこと、そのような事を考えるうちに清二のいつもの悪い癖が出る。被害に遭ったのは”小説のようなもの”が流行ったからだとか、人間性の欠如したものが若者の間で流行るから早くから素養の悪い者が生まれるのだとか、話が明後日の方にいってしまっているのである。実際に悪いのは自分と考えていても、それをはっきり自覚して自分の問題に定義しなおせる者は、世の中を探してもそうはいない。人間は必ず己以外にも非があると考えがちな生き物だからだ。だが、清二の場合は典型的な責任転嫁人間なのである。最初は自分の非を詫びていても、それが二転三転し、自分は悪くないという事を主張しだすのだ。当然そのような考え方をしているものが結論に至ったところで解決せず、心のモヤモヤを持ったままになるのは当たり前の話だ。清二も例に漏れず、心のモヤモヤを拭い去ることができないまま、ただ「アンジュ」への歩を進めていった。
「アンジュ」の店の前に着くと、いい匂いが漂ってきた。野菜や肉類を煮込んでいるスープのような匂い、この匂いを嗅ぐたびに清二は家での出来事を思い出す。幼少期、外出から帰ってくると部屋にはいい匂いが充満し、今夜はカレーだという期待を膨らませたなんてのは清二にとってはよくあることだった。母の「できたわよー」という合図とともに食卓へ向かう家族一同、その中でも清二は断トツの速さで食卓へ駆け込み、お気に入りの席を確保するのだった。が、そんな清二の眼前にはビーフシチュー。大好きなカレーではなく、ビーフシチューがそこにはあった。野菜や肉類を煮込んで、その後ルーを入れて完成のこの手の料理は、幼少期の清二を混乱させる悩みの種の一つであった。大のカレー好きな清二は、カレー以外の選択をした”食卓の裁判長長官”に対して、本気で怒鳴った事があるほどである。そんな苦い経験も、昔を思い出す清二の楽しい思い出の一つだった。手軽に食べることができるカレーは現在の清二の一人暮らしを支えてくれる友である。しかし、その年月は清二からカレーを遠ざけてしまった。幼少期の清二にとってカレーは恋人であり、織姫と彦星のような関係であった。しかし、清二の相棒となってしまった途端に、カレーという存在は恋人ではなくなったのである。これは一種の人間の恋愛観にも似ているのではないだろうか。などと考えつつも、清二にとってのカレーは好物であることには変わりないのであった。
「アンジュ」の店のドアを清二が開けると、小気味いい鐘の音が聞こえる。喫茶店にならどこにでもあるドアベルが鳴ったのだ。ドアベルの音に反応し、この喫茶店のマスターらしき男が清二の方を見た。
「いらっしゃ・・・・おお、セイちゃんか、いらっしゃい。」
マスターがそう言うと、清二はマスターの方を向いて軽く会釈する。マスターは慣れた手つきで焙煎豆をコーヒーミルで挽いていた。店の前では食欲のそそるいい匂いがしていたが、店内に入れば先程飲んでいた缶コーヒーとは比べ物にならないほどの薫り高い匂いが漂っていた。店内は明るすぎない程度の照明で構成され、遮光カーテン等で光を調節されていた。昼でも夕方程の明るさであるのは、店のイメージ作りの一環で、マスターが喫茶店の雰囲気を大事にしているのが店内を見渡せば分かった。
清二はマスターの前のカウンター席に腰を下ろす。今まで緊張状態の続いていた彼の肉体は、ここに来てやっと安らぐことができたのである。そんな清二の様子を見て、マスターは一杯のコーヒーを無言と共に彼に差し出す。
「ありがとう、マスター。」
マスターの淹れてくれたコーヒーを軽く一口、口に含む。口の中に苦さと共に程よい甘み、ミルクのまろやかさが広がる。コーヒーの香りは強すぎず、鼻孔を用いて嗅ぐ香りと、口にコーヒーを入れた際の香りとのアプローチの違いを楽しむだけの余裕を与えてくれているそのコーヒーは、先程の飲んだ一般大衆の為に開発された販売機のソレとは一線を画す味わいとなっていた。コーヒーにただ砂糖やミルクを入れれば単純に飲みやすいコーヒーが出来上がるわけではなく、コーヒー豆の種類、濃さ、甘味料の分量まで、人の好みを推し量り淹れてくれるマスターを、清二は単純に尊敬していた。コーヒーの淹れ方や豆の種類についてのウンチクを知る、自分の好みを探る等は、趣味としてコーヒーを淹れている者ならば心得ているだろう。しかし、人の為に最善の選択をする事は並大抵のことでないのは、コーヒーを入れることだけでなく物事の全てに関連して難しい。淹れる事の出来る人間はそうはいないだろう。例えそれが商売だったとしてもだ。清二はコーヒーのカップをテーブルに置き、マスターの方を見た。マスターは髭を生やした所謂ダンディーなタイプの男だ。今年で28になるということらしいが、マスターの放つ雰囲気のせいか若干老けて見えるようである。
「やっぱり缶コーヒーとは全然違うんだねぇ。」
清二の感心しながら言ったが、皿を洗っていたマスターは手を止めて清二の方へ向きかえった。エプロンで手を拭きながら軽く失笑気味であった。
「缶コーヒーと比べてもらいたくないな、一応これで食べてるんだから。」
清二は先程の言葉の誤りを詫び、コーヒーの続きを楽しむことにした。カップの中のコーヒーを飲み干すと、マスターにある質問を投げかけた。
「そうだ、マスター、よく缶コーヒーに焙煎なんて言葉が書いてあるけど、焙煎って具体的にどんなことするんです?」
マスターは清二の言葉に少し困惑していたが、すぐに取り繕って言った。
「んっとな、焙煎ってのはコーヒー豆をローストすることなんだよね。要は容器の中にコーヒー豆を入れて、容器を加熱するんだ。コーヒー豆ってのはもともとこんな黒くなくて、この黒い豆の状態はあくまで焙煎後の姿なんだ。」
そういうと焙煎前の豆と焙煎後の豆をマスターが取り出してきて清二に見せる。清二は珍しい者でも見るかのような目で豆をまじまじと見ていた。
「それにしてもセイちゃん読書家なんていってるから博学かと思ったんだけど、まさかの浅学だったとはね。」
マスターの言葉に少しムッときたが、先程の缶コーヒーに対して自慢げに焙煎だな~なんて言っていた自分を思い出し、すぐに押し黙った。
「そうは言うけどマスター、読書家だって人だ。知らない事は知らないとはっきり主張するだけ、まだ自分はマシだと思うんですよ。」
マスターに反論する清二の体は心なしか少し小さく見えた。
「もっと大きな視野を持てばいいんだよ。そしたら浅学なんかに成らずに済むさ。そういえば、セイちゃん昔の書物ばか読んでるんだってね?最近のモノが嫌いで昔のモノを好む。温故知新なんて言うが、それは新しきを軽視すればよいなんて考え方を言っているわけじゃないんだよ?後ろを見てばっかりじゃ、前は見れない。そういうことさ。」
マスターはなんの気なしに言ったつもりだったが、清二は思うところがあり、心にぐさっと来てしまった。清二自身、今の状況は昔を顧みることばかりしている。それでは駄目だと分かっていても、人間の本質はそんな簡単に変えられるものではない。最近妙に気分が悪いのも若干そのことを気にしてということから来ているのかもしれない。
「分かってるんです、なんとなく気持ちが前を向かないんですよ。新しきものは過去の劣化物にしか見えないし、前を見たところでその先に道があるとも限らないし。どうしても建設的に見えないというか。だから昔に固執してしまうというか。」
清二はどう言葉にしていいか分からず、しどろもどろで言葉をつないでゆく。
「セイちゃん、僕もね、昔そんな風に考えてた時があったのさ。」
マスターは顔をしかめながら話そうとした。マスターが話そうとした話は、遠くもない過去の出来事のことであった。しかし、自分を語ることを嫌うマスターは、すぐに話すのをやめ、顔を下に逸らした。顔を上げ、取り繕った後のマスターの顔は普段と変わりないように見えたが、どこか影があり、遠くを見つめていた。そんなマスターを見て、清二は思っていたことを口にするのをやめる。
「話は飛ぶけどさ、若者なんてのはな、未熟なんだ。色々な面でな。マニュアル人間なんて奴、人の世の中にはいない。みんなそれぞれ思う事があって生きているんだ。一見苦悩のなさそうな奴ほど苦悩があり、苦悩がある奴ほど隠そうとする。そうして生きているうちになんとかなるなんてことは決してないんだ。自分の中に進むという覚悟がある者のみが現状を打破できる。若者の時に固定観念を植え付けることは、自分を殺すことと同義だよ?」
マスターだって若い、それでも清二よりは人生の先輩だ。マスターはマスターなりに言いたいことがあったのだろう。これは実質説教なのだろうが、若いマスターに言われてもいまいち説教のような感じがしないというのが清二の率直な感想であった。
「若者には時間がある。歩くのをやめて広い視野を持てば、そのうち苦悩が晴れるというものだ。歳をとったらできないことだ。今のうちに悩んでおけば、年取った時に挫折も少なくなるもんだ。僕も昔はそうだったしね。」
マスターは昔を語らない。だが苦労したという前提話はよくする。マスター曰く「苦労を話した時点でそれは苦労話ではない」らしい。どういうことなのかはマスターの人生観から推察するしかないのだが、昔を語らないマスターの人生観を伺い知ることなど出来ず、清二は話題を変えることにした。
「それよりさマスター、恵理さんはどっかいってるんです?厨房の方には見えないようだけど。」
「アンジュ」の店内は、カウンター席から厨房が見渡せるようになっており、厨房で料理ができる工程を除くことができる。といってもマスターが客の話し相手になっているので厨房を覗くことはあまりない。恵理とは、「アンジュ」で働いているバイトの子で、厨房で下処理や調理をする他、店の仕事全般を行っている。
「ああ、恵理ちゃんならちょっと近所へお使いに行ってるよ。寝たきりの人の元へ料理を届けてくれてるんだ。」
「へぇ、デリバリーも始めたんですか?」
前に来た時にはそんなサービスをしていなかったので、少し驚きながら清二は聞いた。
「ああ、そんなんじゃないんだ。デリバリーって言っても寝たきりの人だけに特別にってことにしててね。」
毎度マスターの献身的な経営方針には頭が下がる。事業福祉なんて昔の経営方針を今も守るなんて、自分にはとてもできない事だと清二は思った。
「マスターはすごいなぁ。ホントに。今の世の中なんてさ、悪いことした奴だけが大成するなんて思ってたけど、マスターを見てると妄想なんじゃないかと思うぐらいだよ。」
「大成なんてしてないさ。小さな喫茶店のマスターで大成してるなんていったら、僕の友達に笑われちゃうよ。」
価値観の違いを享受する事が大人なのであれば、今のマスターは大人なのだろう。マスターの友達がどう言おうが、今の世の中で自分の店を持つことがどのくらい難しいか、清二のような者でも少しは心得ていた。色々な価値観があるが、今のマスターは清二に尊敬を抱かせるに足る人物として成っていた。
「マスターにとって、尊敬される人物になるってのは、大成することにはいらないの?」
少し考えたところで清二の言わんとしていることがわかったのか、少し照れた。
「ありがとう、分かったよ。じゃあもっと大成できるように頑張る。」
ドアベルが鳴り、ドアが開く。その方を清二が見ると、どうやら恵理が帰ってきたようだ。先程まで料理の入っていたであろう出前箱をテーブルに置くと恵理は一息ついた。
「マスター、出前の方終わりましたー。」
マスターの方を向き直り、恵理が報告を済ませると清二のことに気付いたのか、元気な声で清二に挨拶をした。
「あ、清二さん、いらっしゃーい。今日は羨望町にどんな御用?」
安田恵理は高校卒業後、出店したいという夢をかなえる為、今は資金集めの為にバイトを行っている。馴染みばかりが集まる店なので、紅一点の恵理は、店の看板娘であった。
「いや、それが万年筆のインクを買いに来たんだけどね、ちょっとトラブっちゃってさ。午後5時にこの店で待ち合わせることになってるんだ。」
その話をマスターが聞くと、少し不安そうな顔をした。
「おいおい、頼むから店で野暮起こさないでおくれよ。」
そういう清二は手で落ちつけのジェスチャーをだした。
「わかってるってマスター。っと、今ので思い出した、俺インク買わないといけなかったんだ。」
先程のトラブルで忘れていたインク購入を思い出し、清二は席を立った。
「あ、コーヒーの分はまた後で来た時に払うからツケといてよ。」
その言葉を聞くや否や、マスターは酸っぱい顔で顔を横に振った。
「そんな歳でツケを覚えたらロクな大人にならんよ、僕の奢りだから心配しなさんな。」
マスターが愛想笑いをしながら言う。清二はまた説教をくらいたくないと思い、清二は黙ってコクリと頷いた。
「また寄ってくださいね?トラブルはいけませんよ?」
最後に恵理の注意が入り、清二はコーヒー代分のお叱りを受けて店を出た。
つづく




