第72話 クッキー
「まだ家にいた方がいいんじゃないの?」
母が車を駅まで走らせながら、助手席のいちかに再三尋ねたことを再び聞いた。
「大丈夫だって」
いちかは笑って首を振る。
退院後、一時的に実家に戻ったいちかは、家族から過剰なほど手厚い看病を受けた。
過労で溺死寸前などという称号を引っ提げて帰ってきたのだから、当然ではあったが、何もしない日々というのは、若い体にはいささか退屈で……
体調も復活し、早々に時間を持て余してしまったいちかは、一週間後には自分の賃貸へと帰ることに決めたのだった。
「そんなに焦らなくても、学校始まるまでゆっくりしていけばいいのにぃ」
信号待ちをしながら、母が言う。
「もう充分だよ。それにやることあるし」
「そう? ならいいけど……心配な子……」
母は眉を寄せて、ポツリと呟いた。
◇
一週間ぶりに帰った自室に荷物を置くと、いちかはそのままの足でセルリアンの仲間一人ひとりの元へ向かった。
連絡がついた人から順に、対面で謝罪していく。
ほとんどの部員は、会うなりいちかの身体を心配してくれたが、エリカだけは、火を吐くように苛烈だった。
「退院おめでと。で、だからなに?」
玄関先で、部屋着の彼女は冷たい怒気を放っていた。
「はい……」
「いちかは帰ってこれても、翠はまだ実家から戻ってきてないよね」
「はい……」
「翠のこと返してくれる? ホント、よくエリカのとこ来れたね……」
玄関の段差から、いちかを見下ろす。
いちかは何も言い返す言葉を持たなかった。
翠にトドメを刺してしまったのは自分に違いなく、それによって壊れてしまったのは翠の二十二年の人生そのものだ。敵対視されても、仕方がない……
「翠がまた弾けるようになるまで、エリカはセルリアンには戻らないから」そう断言した後、エリカは顔を歪めた。「……ま、トラ入れればいいんだから、痛くも痒くもないだろうけど」
「エリカが納得しないなら、ヤマノは出ないよ」
「それどういう意味⁉ エリカのせいでみんな出れないよって脅し⁉」
「そ、そうじゃなくて……!」
いちかは慌てて否定すると、力なく俯いた。
「誰か欠けるくらいだったら、大会なんか出たくないから……本選に出るとか、そんなことよりずっと、みんなの方が大事だって気づいたから……」
しばらく無言が続いた。
また怒られるのだろう、と覚悟していると、
「……遅いんだよバカ。手遅れになってから気づいても」
舌打ちが頭上で聞こえた。
「今さら反省しても、何も変わらない」
「はい……」
「アンタが疫病神だってこと、エリカは絶対忘れない」
「はい……」
再び始まった罵倒をただ恐縮して受け止めていると、不意にため息が落ちてきた。
頭を上げると、腕組みしたエリカが、不機嫌そうな目でいちかを見ていた。
「だから、監視する」
「え……?」いちかは呆気に取られて聞き返してしまう。
「もし翠が帰ってきても、絶対無理させんなって言ってんの。それが条件」
「あっ、うん! 約束する」
「いちかより、圧倒的に翠の方が大事だから。なんかあったら、お前の方やめさせるから」
「うん、勿論」
「……ならいい。勝手にすれば」
エリカの腕組みが、軽いため息と共に解かれた。
「クッキー食う?」エリカが唐突に言った。
「……え?」
「翠にあげるつもりで焼いたんだけど、なかなか戻ってこないから」
「あ、えっと……もらっていいなら」
いちかが答えると、エリカは冷蔵庫を開け、クッキーを二袋渡してきた。
ハート柄の包装紙を赤いリボンで丁寧に結んでいて、商品としても売れそうな愛らしさだ。
「凝ってるね。可愛い」
「そうっしょ。翠用だもん」
エリカは当たり前のように話す。
その慣れた様子が、いちかには少し面白かった。
「なんか、本当に好きだよね、翠さんのこと」
「……好きだけど。悪い?」
その時、彼女の耳がパッと桜のように色づいた。
いちかはようやく自分の思い違いに気づいた。今まで察することができなかった、愚かで鈍感な我が頭を叩きたくなる。
あぁ、またバカだった……
私、ずっと軽く考えていた……
脳内の雄也が「いちかって、本当無垢だよね」と呆れた顔をして笑っていた。




