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病院を後にすると、ゆっくりした足取りでバスや電車を乗り継ぎ、家へと帰る。
真紀に会えると思えば足も軽くなるが、逆に真紀のいない家に帰ると思うと足が重くなる。
玄関を開けると締め切った部屋の匂いが鼻につく。
コンビニで買って来た弁当の容器が、無造作にゴミ袋に押し込まれているためだろうか。
それとも、汚れたコップがいくつも流しの中で、そのままになっているためだろうか。
俺は疲れきった体を部屋の中に入れると、流しの中から比較的きれいそうなコップを水で流し、テーブルに置いた。
冷蔵庫から焼酎を取り出すと、ウーロン茶で割る。
食事は、今日も変わらずコンビニの弁当だ。
テレビを点け、流れる映像をぼんやりと見ながらコップに口をつけた。
テレビでは、何の番組なのか、桜が写っていた。夜桜がライトアップされている、それがきれいだと話している。
俺は、弁当に箸をつけながら病院で見た桜を思い出していた。
病室を出るときに見た、窓一杯の桜。
あんなに見事な桜が咲いていたというのに、去年はまるで気がつかなかったのだ。
究極の状態にいると、人間てやつは何も見えなくなるものらしい。
それにしても、確かに見事な桜だった。
弁当の上で箸が止まった。
―――あの桜は、どうしてあんなに明るかったんだろう……。
カーテンを閉めようとした時に感じた違和感だった。
真っ暗な中に白く光る桜。ライトアップされているわけでもなかった。それなのに、どうしてあれほどきれいに見えたのか。
俺はじっと考えた。
そうか、街灯の明かりだ!
なるほど、街灯がライトの役目を果たしていたのか。
それにしても、まるでライトアップされているように見えたな。
そんなことを考えていたときだった。不意に、真紀の声が聞こえてきたように思えた。
その声は元気で明るい頃の真紀の声だった。
「夜桜見に行こうね! 約束だよ!」
―――夜桜。
そういえば、約束を破ったら禁酒だったな。
俺はコップを眺めた。
禁酒は、困る。
俺は苦笑いを浮かべながら、真紀の言葉を再度思い返していた。
するとどうしても真紀に桜を見せたくてたまらなくなってきた。
「よし! 行こう!」
俺は箸をテーブルに投げ捨てるように置くと、テレビのスイッチを切り部屋を飛び出した。
時計は十時を回っている。この時間ではバスは終わってしまっている。
俺は目的の駅までたどり着くと、タクシーで病院へと向かった。
面会時間を過ぎてから、真紀に会いに行くのは初めての事だ。
明日の仕事を思ったら、こんな無茶はできないのだが、今日は特別だ。
以前、真紀に言われたことがある。
「章ちゃんは仕事の鬼だね。仕事と妻とどっちが大事なの!」
もちろん、真紀だ。
だから、今日は特別だよ。
タクシーが病院へ着くと走って病室へと向かう。ナースセンターの前を通るが、タイミングよくナースが不在だった。
俺は、病室のドアを開けると真紀のそばへと寄った。
「真紀、また来たよ。今夜は特別だ。どうしてかって? それはね、真紀と夜桜を見ようと思ってさ」
真っ暗な室内。
明かりをつけぬまま、俺はカーテンを開けた。
すると、さっきよりもはるかに美しく光を放つ桜の花たちが、部屋中に広がるような気がした。
「真紀、きれいだろ。街灯に照らされてるだけなんだろうけど、まるでライトアップされているみたいにきれいだね。もしかしたら、それ以上にきれいかもしれない」
俺は、真紀の手を握り締め、じっと窓へと目を向けていた。
いつまでも、いつまでも、まるで時が止まったように黙ったまま、桜を見つめていた。
「そういえば、今日はエイプリールフールだね。あぁ、さっきも話したよね。……せっかく嘘をついてもいい日なのに、何一つ嘘を言わなかったな。子供の頃は、嘘をつかずに終わるエイプリールフールがもったいなかった。大人になると、そんな日があることすら忘れてしまうね。…………でも、せっかく思い出したんだ。ひとつくらいは嘘をついてもバチは当たらないかな…………」
俺は、しばらく黙っていた。
いざ嘘をつこうと思うと、嘘と言うのが出てこないのだ。
今朝の女子高生のように、実は、自分はアラブの大王だったとでも言おうか。そんなことを言ったところで笑い話にもならないだろう。
どんな嘘を言ったものだろうか。
桜を眺めているうちに思いついた嘘。
「そうだな……『明日、目を覚ましたら、真紀は元気になってるんだ。そして、俺に笑いかけてくれるんだよ』」
頭の中で、何かが『カチッ』と音を立てたような気がした。
「どうだい? 真紀、騙されてみてよ。騙されて、目を覚ましてよ」
あり得ない嘘。
あるはずのない嘘。
そのまま、真紀の手をさすりながら夢の世界に落ちていった。
「章ちゃん、起きて。風邪引くよ、章ちゃん」
遠くで真紀が呼んでいるような気がした。
きっと、夕べあんな嘘をついたから、夢を見ているんだろう。
「章ちゃん、起きて」
俺はうっすらと目を開けた。
不自然な姿勢で寝ていたせいか、体が痛んだ。
どうやら、ベッドに上体を伏せたまま寝てしまったようだ。
俺はゆっくりと体を起こすと、目をこすった。
「フフッ、章ちゃんたら、本当に寝坊助なんだから」
その声に顔を向けると、そこにはベッドの上で上体を起こして座っている真紀がいた。
「ま……き?」
「なに?」
「真紀……目が覚めたのか!」
「だって、章ちゃんが言ったんじゃない。『明日、目を覚ましたら、真紀は元気になってるんだ。そして、俺に笑いかけてくれるんだよ』って。だから、起きたの」
確かに言った。
言ったが、あれは希望的な嘘だ。こんな奇跡が起るはずがない。
「ずっと、章ちゃんのこと見てたよ。二年間、ずっと。毎日毎日。章ちゃんが来てくれるのを楽しみにしてたの。起きたかったけど、どうしてか起きられなかったの。ごめんね」
ああ、神様。
エイプリールフールのキセキは、
本当にあったのですね。
俺は始めて、神に感謝した。
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いかがでしたでしょうか?
楽しんでもらえたら嬉しいです^^




