第八章 止まぬ雨 6
――白琳が死んだって……!翡翠もあの状態で、私どうしたら……!
常であれば、そう、駿に訴えていたかもしれない。だが、駿の表情が瑠璃からその言葉を奪う。黒の瞳から感情が読めない。
茶の天馬を連れた駿がゆっくりと瑠璃の元に近づいてくる。どくんどくんと、大きく聞こえる胸の音は嫌なものだった。いつもの駿と違う。瑠璃の目の前で足を止めた駿が静かに口を開いた。
「……たしかに、桃華ちゃんの言うとおりだったね」
聞こえた声は、独り言のような小さい音だった。困ったように笑う駿の顔は見慣れたものだ。だが、知っているその表情を見せたのは一瞬ですぐに消え、感情を読めない無表情に変わる。やはり、いつもと違う。そのせいで言葉が出なかった。
「実は、頼みがあってね」
口調はいつもと同じで柔らかいのに、自身の、嫌な胸の音は消えない。ひやりとした汗が背を流れるのを確かに感じながら、瑠璃は駿の声に耳を傾けた。雨であってもよく通る声だった。
「俺と一緒に来てほしい」
「……行くってどこへ?」
「瑛達の元へ」
「……瑛達?」
時が止まったかのように、言葉が出てこない。瑛達と言えば、他でもない、翡翠を恵の皇位から遠ざけた人物ではないのか。どうして、駿の口からそんな人物の名が出るのか。瑠璃が再び声を発したのは、降り続ける雨の音をしばらく聞いてからだった。
「俺は今、瑛達と一緒にいる。一緒に来てほしい」
淡々と言われた言葉に、瑠璃の手に力が籠もる。駿は一体何を考えているのだろう。嘉を裏切ったのだろうか。分からない。
そう、脳裏で言い終えた後で、瑠璃の手から力が抜ける。
――そうか、私何も知らないんだ。駿のこと
今までずっと、自分は駿の綺麗な部分だけ見ていたのかもしれない。
煌李宮で開かれた武術大会。武官がそれぞれの技を競い合う、その大会は、李京ではちょっとしたお祭りだった。老若男女が集まり、圧倒的な才と、力のぶつかり合いに、集まった者たち歓声を上げる。その中で、一際大きな声があがったのは、駿が剣を振るった時だった。剣に詳しいわけではない瑠璃が見ても、強いのだとひとめで分かった。合わせた相手の剣が折れてしまうのではないかというほどに力強い。周囲の大気が震えているようだと思った。
それでいて、駿の動きは重々しくはなかった。
たまたま聞こえた、まだ十代でこれだもんなぁという、独り言は、感嘆の意が込められていた。確かに、実年齢より大人びて見える。きっとそれは、圧倒的な剣の実力によるものだ。
勝負を終えると、駿と戦った相手も、苦笑いをしていた。駿の方はといえば、穏やかに笑んでいる。静かに風が吹き、髪を柔らかく揺らしている。それが絵になる青年だった。歓声に女の声が多いのはその為だろう。
後から、その駿が、翡翠と白琳の共通の友人であることを知った。最初は、翡翠や白琳と一緒に会っていたが、いつからか二人きりでも会うようになった。
作り過ぎた菓子を翡翠や白琳に届ける際に、駿にも届けるようになり、自然と会話も増えていった。ある日、いつものように、作りすぎた菓子を駿の元に届けに行くと、机に書類を残したまま昼寝をしていた。
剣を振るう時は、絵に描いたような武官であるのに、寝ている時の駿は、年相応かそれより幼く見えた。起こすのが悪く思えて、そっと菓子だけを置いて帰った。
それを白琳に話すと、そんな風に気が抜けている姿を簡単に見せる人物ではないと驚いていた。翡翠も同じように言っていて、胸がどきりとした。次第にそういった相手だと意識し、想いを伝えたのは、瑠璃が先だった。駿は一瞬驚いた表情をしていたけれど、すぐに笑みを見せた。
陽光の下、この上なく優しい笑みを向けられ、嬉しさで胸がいっぱいになった。
だが、もうあの頃に戻れそうにないと瑠璃は思った。何も知らなかったあの頃には。降り続ける雨を無視し、瑠璃は駿を見つめる。やはり、駿の考えが読めない。
今まで、武官の駿と付き合うということの意味が分かっていなかった。自身の速い鼓動に混ざって、香蘭の声が聞こえる。駿の言葉に耳を傾けるなという声をねじ伏せ、瑠璃はそっと口を開く。
「……いいわ」
自分に何かできることはないのかと、ずっと探していたが、ようやく機会が巡ってきた。目の前の駿は何も言わない。言葉が見つからないというように口を噤んでいる。沈黙を切り裂くように、瑠璃は言葉を続ける。
「瑛達の所にいくわ。けど、駿……私たち終わりにしましょう」
「……そうだね」
自分で言い出したことなのに、返ってきた言葉に痛みを感じた。じりじりとした痛みは、痛み以上に苦しい。けれど、そんな自分の感情に構っている場合ではない。
白琳が危ない。何の力も持たない自分に何かできることがあるのなら、苦い想いなんて些細な問題だ。
「瑠璃……君の命は保証する」
「強いものね、駿は」
いつもの声が出たこことに瑠璃は安堵する。天馬に乗るように促され、跨がり、手綱を手に取ると、後ろからから駿に支えられる。互いの息遣いすらもはっきりと分かるほどに近い。なのに、こんなにも遠い。
「行くよ」
静かな駿の声と共に、天馬が飛翔し、空を駆けようとしたその時だった。
「瑠璃……!」
怒号のような低い声が聞こえた。咄嗟に振り返れば、肩で息をする翡翠が立ちすくんでいた。そんな翡翠に構わず駿が天馬を走らせれば、翡翠も自身の馬を呼ぶ。雨が強くなった。痛いほどの雨の中で、翡翠が強引に馬に跨がるが、飛翔する前に、馬から落ちた。
全身を泥で汚した翡翠が、もがくように身体を起こすが、すぐに膝をついた。後からついてきた紅貴が翡翠の背を支えていた。
駿が馬を反転させ、真上から、翡翠を見つめている。瑠璃からは駿の表情は見えないが、駿の鼓動は聞こえる。不自然に速い。
「……恵の皇なら、瑠璃を助けるなんて簡単だろう」
淡々と発せられた駿の言葉に、瑠璃は自身の手に力が籠もるのを感じた。雨がまた強くなった。
駿が再び、馬を走らせあっという間に、翡翠らの姿が見えなくなる。島を抜ければ嘘みたいに空は晴れている。同じ空を眺めている駿が、何か言いかける。だが、音にはならなかった。
『紅貴、来い。外だ』
聖焔の言葉に、紅貴は、急いで外に向かう。妖獣使いとしての力を解放した自身の肉体が疲労を訴えていたが、聖焔の声に、胸騒ぎを覚えた。外に出ると、翡翠が天馬を飛翔させようとしているところだった。だが、駆ける前に、翡翠が力なく地に落ちた。
翡翠に駆け寄りながら空を眺めれば、駿と、そして瑠璃がいる。駿の言葉で状況を把握する。瑠璃が、駿に連れ去られようとしていた。
どうしたら良いんだと声に出しそうになるが、紅貴は言葉を呑み込み、狐の名を呼んだ。行けと、命じれば暖かい気配が確かに瑠璃の元に向かっていくのを感じた。
なおも、天馬に乗ろうともがく翡翠の背を紅貴が支えれば、翡翠が左手を激しく地に打ち付けた。辺りに泥が跳ね、翡翠の天馬にもかかる。あの気難しい天馬が、申し訳なさそうに翡翠に顔を寄せている。
「お前は悪くないよ」
翡翠の代わりに答え、紅貴は言葉を続ける。
「梓穏を追わせた。だから、駿と瑠璃の行き先は必ず分かる」
言い終えると、萩がやってきた。慌てて追いかけたのか、息があがっていた。
「一旦中に。何があったか説明します」
紅貴が言うと、萩は静かに頷いた。立てるかと、翡翠にたずねると頷くのが見えた。翡翠の腕を引き上げ、自身の肩にまわさせる。ずしりとした重さは、衣が雨を吸っているだけが理由だとは思えなかった。
風も雨もますます強くなっている。ただの雨なら、どんなに良いだろう。雨が降り始めてからすでに何度もわき起こった強い思いで、手が震えそうになった。それでもそれをなんとか押し殺し、一歩ずつ、屋敷に進んでいく。
そうして、あと数歩で屋敷の内部に辿り着くという所で、突如濁った咳が聞こえた。鉄の匂いが鼻を掠め、紅貴は一度足を止めた。
「おい、翡翠……!」
萩が、翡翠の背を撫で、翡翠の咳が止まるまでの時間が永遠に思えた。一瞬浮かびかけた最悪の未来に、紅貴は舌打ちをする。冗談じゃない。やがて、聞こえた「悪い」という言葉が弱々しく聞こえ、怒りにも似た感情が行き場を失う。
熱は感じるが、かかる体重が重くなったのは、意識を失ったからだろう。
――白琳
名を呟いた後で、紅貴は再び舌打ちをした。その声が助けを呼ぶ種のものだったと、すぐに気づいたのだ。ふう、とため息をつき、紅貴は再び歩き始めた。泣き言を言っている余裕などない。最悪の未来など、認めない。
煌李宮に付いた桃華は、幾人かの官吏の名を挙げ、会議の招集を願い出た。桃華の登場で、一気に慌ただしくなる煌李宮内部の様子を見ながら、腰に手を当てた。本来なら、こうしたことが得意なのは、翡翠や駿だ。剣を振るっている方が、気が楽だし、自分にはずっと向いている。だが、当の二人が、今はまるで使い物にならないのだ。いつか、事態が収束したら、おいしいお菓子をおごってもらうんだからと、冗談めいたことを考えながら、中庭に面した外を眺めた。
暖かな日差しが差し、池の水面が反射してきらきらと輝いている。恵の光景とは対照的だった。その光景に、ふいに泣きたくなったが、桃華は首を振った。そうして次の瞬間には、自身の表情が変わっていることを自覚していた。
「お菓子だけじゃなくて、お酒も追加ね」
声に出して言い、桃華は歩き出す。感傷に浸っている時間なんて今の自分にはない。そもそも、そんな柄でもないのだから。




