第十話 疑惑③
たしかにその女性はサクラだったが、迅の記憶にあるサクラとは少し雰囲気が変わっていた。
「うん。やっぱりハヤトくんだった……。久しぶり。元気だった?」
「あ、うん、元気だけど……それより、どうしたの? なにかあった? その……、ずいぶんとやつれてない?」
久しぶりの再会に感動を覚えるよりも、〝痩せた〟というより〝やつれた〟と表現したほうがしっくりきてしまう印象に、迅は困惑と心配の目を向ける。
サクラは元々華奢だったが、こんなふうに貧弱なイメージはなかったはずだ。
「そんなに変わったかなぁ。ハヤト君はあの時のままって感じに見える」
「うん。オレはなにも変わってないけど。それより本当にどうしたの? 旦那さんとなにかあった?」
喜びと安堵の混じった、今にも泣きそうな微笑みを浮かべるサクラへ、迅はすぐに駆け寄り、そっと腰に手を添えると揺れる瞳を覗き込む。
元々夫婦関係に悩んでいたサクラだが、一年の間に関係が悪化して気を病んでしまったのだろうか。
「主人とはなにも」
「じゃあ、仕事の方? この前職場に行ったら辞めた、って聞いて」
緩く首を横に振るサクラの返事に、迅は矢継ぎ早に確認する。
あの頃、仕事に思い悩んでいる様子はなかったが、問題がなさそうだったからこそ、退職に追い込まれるほどのなにがあったのだろうと心配になる。
「……会いにきてくれたんだ……」
「うん。ちょうど近くを通ったから顔でも見ていこうかな、って」
驚いたように目を見開いたサクラは感動したような呟きを洩らし、迅は穏やかな微笑みを向ける。
思わず次から次に質問してしまったが、答えを急かすつもりはない。
「本当に大丈夫?」
「ハヤトくん……」
「え?」
そっと頬に手を添えて顔を上げさせれば、サクラの瞳には涙が滲んだ。
「会いたかった……!」
「え……? えっ?」
抱きつかれ、胸元に顔を寄せてくるサクラの頭を困惑の目で見下ろした。
「まさかわたしの中で、ハヤトくんの存在がこんなに大きくなっているなんて思ってもいなかった……」
ぎゅう、と迅の身体を抱き締めながら吐き出される苦しげな想いに、迅は驚きで目を見張る。
いつもしっかりとした自分を持ち、まさに穏やかな大人の女性だったサクラが、こんなふうに感情的な姿を見せるなど信じられなかった。しかも、迅のことで。
「ハヤトくんがいなくなったあと、わたし、本当にどうにかなりそうで……っ」
会いたい気持ちが強くなりすぎて、情緒は不安定になり、気持ちを誤魔化すために甘いものを取り過ぎたり、逆に食べられなくなって急激に体重が落ちたりと、しばらくの間はとにかくおかしくなっていたらしい。
その結果が今のやつれた姿だとしたら、そこまで苦しめてしまったことに胸が痛んだ。
「別に、ハヤトくんの彼女になりたいとか、そういうことじゃないの。ただ、話を聞いて、傍にいてほしくて……っ」
「うん……、わかってる」
記憶の中のサクラよりも細くなった身体を抱き締め返し、迅は静かにサクラの言葉に耳を傾ける。
腕の中のサクラは、想像以上に小さく頼りなかった。
「実はわたしも、ハヤトくんの職場を訪ねたの。そしたら、辞めた、って聞いたから……」
「うん。ごめん」
「ハヤトくんの身になにがあったのかわからなくて、だから、わたし……っ」
サクラが、家庭を壊してまで迅とどうこうなりたいなどと思っていないことはわかっている。
ただ、時々会って。話をして。それだけで心が落ち着く相手。
近すぎない距離で傍にいてほしいと望む人。
そんな存在でいられたことが嬉しくて、そして、申し訳ないと思った。
「サクラ」
「……っ」
肩に手を置いて少しだけ身体を離そうとすると、びくりっ、と震えたサクラが不安そうな顔で迅を見上げてくる。
そんな顔をしないでほしい。
迷惑だと思ったわけでも、距離を取ろうと思ったわけでもない。
迅はゆっくりと身体を離し、サクラへ穏やかに微笑んでみせる。
「とりあえず落ち着いて。座って話そう?」
「うん……」
迅が言葉通りのことしか思っていないことが伝わったのか、サクラはほっとした様子で頷いた。
サクラの肩を抱いてソファへ誘導し、そのまま並んで腰を下ろす。
「本当に久しぶりだね。一年ぶりくらい? とにかく会えて嬉しい」
「うん」
改めて再会を喜べば、冷静さを取り戻してきたらしいサクラははにかんだ笑顔を見せ、迅のほうへ身を寄せてくる。
「ちゃんと話を聞くから。言いたいこと全部。聞きたいことも全部。ここにいるから。自分のペースで話して?」
「ハヤトくん……」
迅を見上げる瞳が揺れ動く。
全部、受け止めるつもりだった。
離れていた時間に空いてしまった穴をきちんと埋めるために。
そうしてサクラは静かに、ゆっくりと話し出す。
「……わたしね。実は今、本店の内勤スタッフとして働いているの」
「本店、って……、まさかシークレット・ラバーズの?」
「うん」
「なんでまた……、どうして?」
サクラの転職先を聞いた迅は目を見開いた。
「わたし、ハヤトくんになにがあったのか、どうしても知りたくて」
最後にサクラと会った際、辞めることは伝えても、理由については「話せない」を貫き通していた。
それらしき理由を作って納得してもらうことは可能だったはずなのに、それをしなかったのは、迅が迅であるがゆえだ。
――サクラに、嘘はつきたくなかった。
そのため、迅の突然の退店に不信感を覚えたサクラは、迅の身になにかが起こったのではないかと考え、ちょうど内勤スタッフを募集していたシークレット・ラバーズ本店に潜入調査をすることにしたというから、その行動力には驚いてしまう。
「ハヤトくん、お店を辞める前に百万円を払ってるよね?」
「どうしてそれを……」
「ここまで調べるのにかなり時間がかかっちゃった」
どうやってそこまで辿り着いたのかと驚きと動揺を見せる迅に、サクラはおかしそうに苦笑する。
「そうこうしているうちにforestのことが耳に入ってきて、なんとなく所属セラピストを見てみたらハヤトくんらしい人がいたから……」
迅の退店以来、女風を利用していないというサクラは、セラピストをチェックすることも止めていたらしい。
だが、新規店オープンの話を耳にして、ふとホームページを覗いてみようと思ったのは、forestのコンセプトが気にかかったからかもしれない。forestが目指す癒しは、迅が常々心がけていたことだったから。
そしてそこで、探し求めていた迅らしき人物を見つけた。
「あ。今はジンくん、なんだっけ?」
「どっちでもいいよ」
ふと思い出したように確認をしてくるサクラへ、呼び名はなんでもいいと迅は苦笑する。
ジン、は本名だが、元々〝ハヤト〟も「迅」から考えた源氏名のため、そのあたりにこだわりはない。
「それで、確認しよう、って」
キャスを見た時点で、顔を隠しているとはいえ声で迅だと確信は持ったものの、やはり最終的には会わなければと、予約するタイミングを計っていたらしい。
「もしかして、前にもお店に電話くれたりした?」
「うん。やっぱりハヤトくんだった」
「そっか。あの電話、サクラだったんだ」
以前、迅の予約をしかけて切られてしまった電話を思い出して問いかければ、サクラからは嬉しそうな肯定が返ってきて、迅もまた笑顔を零す。
「会えて嬉しい……」
「オレもだよ。サクラのこと、ずっと気にかかってた」
感動の声を洩らしながら抱きつかれ、サクラの身体を優しく包み込む。
その言葉に嘘はない。職場を覗けば会えると思っていたサクラがいないと知った時、迅が受けた心の衝撃はかなりのものだった。
「ハヤトくん……。ありがとう」
今にも泣きそうになりながらもサクラの目から涙が零れることはなく、サクラはここに迅がいるという現実を噛み締めるように、迅のぬくもりの中で静かな吐息を零す。
そうしてしばしの沈黙が流れ、いつまでもこうしてはいられないと気持ちを切り替えたらしいサクラは、真剣な面持ちをして迅の顔を見上げてくる。
「それで、話は戻るんだけど」
「え、と……。前の店を辞めた理由?」
「うん」
「えぇ、と……」
真っ直ぐ迅を見つめてくる瞳に答えを待たれて言葉に詰まる。
なにか大ごとが起きたのではないかと考えていたサクラを前にして、違反行為をしてしまったからという自業自得な理由は言い難い。
だが。
「妙なお金の動きがあるの」
「え?」
神妙な表情で告げられて、迅は瞳を瞬かせる。
「わたし程度じゃ表面上の動きしかわからないけど、素人目から見ても変、だと思う」
ドクン……ッ、と。心臓が嫌な鼓動を打った。
サクラは、いったいなにを言っているのだろうか。
――『俗に言う、〝美人局〟的な行為が何件かあったみたいなのよ』
同時に、ミサトの言葉が頭を過ぎった。
「たぶん、ハヤトくん以外のセラピストも、金額に大小あれどお金を払って退店してる」
それは、偶然か。不運が重なっただけなのか。
たまたまあのタイミングで一斉になにかの調査が入っただけ、ということもあるかもしれない。
「証拠はなにもない。ただのわたしの勘」
冷静すぎるほど冷静に語るサクラの声が妙に響く。
「ハヤトくん」
真剣な瞳を真っ直ぐ向けられ、迅はごくりと嫌な息を呑む。
「どう思う?」
なにが起こっているかなど、迅にわかるはずもない。
ドクドクと脈動する心臓の音が冷たく響き、いつまでも静まりそうになかった。




