第一話 本番行為①
「百万円払うか、払ってクビか、今すぐ選べ」
室内に、最後通告を突きつける無情の声が冷たく響いた。
選択を迫られた新藤 迅は、背中に冷たい汗が流れていくのを感じながら、こくりと小さく息を呑んだ。
目の前には、一切感情の見えない男達――迅が所属する事務所のオーナーと店長――が、言い訳も一刻の猶予も許すことなく答えを強要してくる。
正直、クビになったところで生活に困るわけでもない。
だが、迅には、この世界でまだ知りたいことがあった。やり残していることもある。
迅の頭の中では一瞬にして怒涛の思考が巡り、数秒後、迅が出した答えは。
「……百万円払います」
たいした稼ぎにもなっていない副業――女性向け風俗のセラピストを続けることだった。
*****
極々平凡な家に生まれ、極々平凡な人生を送ってきた迅は、特にこの仕事に就きたいという考えもなく就職活動を行い、大学卒業後、美容関連の薬剤を取り扱う中小規模の製薬会社で働いていた。
身長百七十五センチ。体重六十四キロ。週一のジム通いが趣味の一つであるため、引き締まった身体をしている。容姿は、といえば、人の目を惹くようなイケメンではないものの、知り合いからは「よく見れば整った顔をしているね」と言われるくらいには悪くはなかった。
平凡な会社員を続けること八年。だが、そんな迅にもたった一つだけ、誰にも言えない「裏の顔」があった。
今年三十歳を迎えた迅が、半年ほど前から始めた「秘密の副業」。それこそが、今回大失態を犯した、女性向け風俗のセラピスト業、だった。
それは、遡ること三日前――……。
「ねぇ……? 挿れて……?」
ラブホテルの一室で、一糸纏わない裸の女性に潤んだ瞳で見上げられ、迅は一瞬硬直した。
女性向け風俗の業務内容は女性に性的なサービスを行うことだが、「本番」と呼ばれる挿入行為は固く禁止されている。
女性がこのサービスを使いはじめたのは一年以上前からだと聞いている。迅のことを「指名」するのはこれで四度目のことだが、もちろん今まで禁止事項である本番行為をしたことはない。
だからといって、二十代後半のまだ若い身体で、迅に性欲がないわけではない。
「お願い……」
「いや、でも……」
「最後までしてほしいの」
「マリ……」
甘い声で強請られ、理性と性欲の狭間で揺れる迅は無言になる。
本番行為が禁じられていることを、女性――「マリ」が知らないはずはない。
最初に会った時に、迅からもきちんと説明していた。
わかっていて、それでも迅を誘っているのだ。
「わたしとはしたくない?」
「そんな、ことは……」
「だったら、お願い……」
答えに迷って口ごもる迅へ、マリはなおも潤んだ上目遣いを向けてくる。
セラピストが提供するサービス内容と業界ルールを考えた時には、なにがあっても拒否しなければならないことはわかっている。
それでも迅がすぐに答えを出せないことには理由がある。
「嫌?」
マリの顔が悲しそうに歪み、迅はきゅっと唇を噛み締める。
女性がお金を払って性的サービスを受けること。そこには、男性のそれとは似ているようでまったく異なる事情が多く存在していることを迅は理解していた。
迅が今まで呼ばれて会った女性たちで、単純に性欲を解消するため、という理由でこのサービスを利用している女性は極稀だった。
ほとんどの女性たちは、肉体的な欲よりも、精神的な「癒し」を求めて利用しているように思える。自分の容姿に自信がなく、男性から異性として見られない、というコンプレックスを抱いている女性も多い。
つまり、自分に性的魅力がないことに劣等感を抱き、言ってしまえば欲望の対象として見てもらえないことで自信を喪失し、自己否定へと繋がっていく。
そういった劣等意識から女性たちを解放してあげることが、この仕事の一番の本質だと迅は考えている。
「ハヤトくん……」
ハヤト、というのは、俗に言う迅の「源氏名」――安直に、本名の「迅」に「人」という一文字を加えた呼び名――だ。
悲しげな瞳で名前を呼ばれ、迅はゆっくりと息を吸いこんだ。
今日の「お客様」であるマリは三十代後半で、恋愛経験や性的経験はそこそこあると言っていたものの、結婚はしていない。太っているか痩せているかで言えば「ぽっちゃり」体型で、容姿も整っているかと言えば、合コンなどでは引き立て役に使われそうな見た目と特徴的な低い声、そして悩みごとの多い悲観的な性格をしていた。
規則と感情の狭間で、迅の気持ちは揺れ動く。
もしここで彼女の求めを断ったなら、マリは自分に魅力がなかったからだと、自分自身を責めて落ち込んでしまうのではないだろうか。
ルールだから。違反行為だからと諭しても、マリにとってはそれは都合のいい言い訳にしかすぎず、女として見てもらえなかったと自己嫌悪に陥ってしまうのではないだろうか。
これまで三度会って話した経験から、マリの自信のなさを感じ取り、迅はそんなふうに考えていた。
「嫌じゃ、ないよ」
「え……?」
「嫌なわけない」
苦笑混じりの微笑みを向ければ、マリの瞳はどこか安堵したように揺らめいた。
その反応に、自分が出した結論は間違っていないのだと思った。
迅は元々どんな女性に対しても尊敬の気持ちを抱くことができる性格のため、生理的に受け付けないというタイプが存在していなかった。
迅にとっては、マリは年上ではあるものの、まったく嫌悪する相手ではなかった。
「マリは充分魅力的な女性だよ」
泣きそうな笑顔を見せるマリを見つめ、最終結論を出す前に、もう一度だけ問いかける。
「……いいの?」
女性向け風俗は、女性が主役の、女性が心地よくなるためのサービスを受ける場所であって、性的サービスを提供する施術側が快楽を得るものでは決してない。
迅としても、
本番行為をしたからと、自分の快楽だけを追うような自分本位な真似をするつもりはまったくないが、それでも後ろめたさはあった。
「うん……」
「わかった。じゃあ、ちょっと待ってて」
こくり、とマリが頷いたのを確認し、迅は身体を起こすと枕元に置いてあったホテル備え付けの避妊具に手を伸ばす。
袋を破き、丁寧に装着する。
「それじゃあ、挿れるよ」
優しく声をかければ嬉しそうに笑ったマリが迅の背中へ腕を伸ばしてきて、迅はそのままマリの求めに応じたのだった。




