第14話 名前を捨てない将軍
「見つけ次第、拘束します」
北門の見張り台で、リディアは外された名札を握っていた。
名札には、カイル・ベッカーと刻まれている。
机には湯気の残る麦茶。椅子は倒れていない。血もない。
ただ、門の鍵を管理する男だけが消えていた。
「争った跡は?」
「ありません」
リディアは窓、階段、門の閂を順に確かめた。
「自分で見張り台を出た可能性が高いです」
ハインツが記録板を開く。
「カイルは二十九歳。北門の時刻と鍵を管理しています。病気の母と弟の三人暮らし。家へ兵を向かわせましたが、二人ともいません」
「門の鍵は?」
「すべてあります」
レオンは名札を受け取った。
木の表面は、何度も指で確かめたように滑らかだった。
「鍵がなくても、見張りの交代時刻は知ってる」
「はい。敵へ渡れば、門を襲う時刻を選べます」
「まだ渡したと決まったわけじゃない」
「決まってからでは遅いです」
リディアの指が剣帯の金具へ触れた。
「事情は拘束後に聞きます」
「裏切っていなかったら?」
「そのときは、私が謝罪と処分を受けます」
ためらいのない答えだった。
自分を差し出せば、判断の誤りを埋められると思っている。
レオンが言葉を探したとき、階段の下で靴音が止まった。
兵に挟まれたカイルが上がってくる。
上着の裾には泥。いつも左右をそろえていた靴紐は、片方だけ長く垂れている。
カイルはレオンを見るなり、ひざをついた。
「申し開きはありません」
「立って」
「北門を離れました。交代の決まりも破りました」
「どうして?」
カイルの口が動き、閉じた。
リディアが一歩近づく。
「誰へ何を渡しました」
「母と弟を、連れていかれました」
普段なら時刻、順路、担当を一息で言える男が、家族の話だけ主語を失った。
「昨日の夜、家へ戻ると二人がいませんでした。机に紙がありました。北門の交代時刻を書け、と」
「書いたのですね」
「はい」
「何を」
「今夜、鐘が三つ鳴ったあと、見張りが二人へ減ると。門の鍵は私が持ち出すと」
リディアがカイルの腕を取った。
「拘束します」
「待って」
レオンの声に、リディアの手が止まる。
「殿下。この男は時刻を渡しました」
「うん」
「今夜、人が死ぬかもしれません」
「分かってる」
「では、なぜ止めるのです」
リディアの敬語から、柔らかい響きが消えていた。
「家族の居場所を先に聞く」
「枷をつけても聞けます」
「枷をつけるなとは言ってない」
レオンはカイルの前にしゃがみ、名札を床へ置いた。
「カイル。答えたくなければ、分からないと言っていい。家に、普段と違う物はあった?」
カイルは名札を見つめた。
「弟の薬袋がありませんでした」
「ほかには?」
「母の古い靴が、一足だけ残っていました」
「それは変なのか」
「母は新しい靴では長く歩けません。連れ出されたとしても、町の外までは無理です」
「どこまでなら?」
「北の古い染め場です。あそこなら荷車を隠せます」
リディアが窓へ向き直った。
「ここから四半刻。裏に川へ下りる道があります」
「助けられる?」
「見張りの人数が分かりません」
リディアは推測を混ぜなかった。
「先行二人で人質を確認します。別の二人を後ろへ置きます。敵が逃げても追いません。家族の救出を優先します」
「頼む」
リディアが兵を選び、階段へ向かう。
カイルが顔を上げた。
「逃げた敵を追わないのですか」
リディアの足が止まった。
「あなたは、追ってほしいのですか」
「町を裏切った私の家族より、敵を捕らえる方が」
「順番を決めるのは、あなたではありません」
リディアは振り返らなかった。
「先に二人を連れ戻します。あなたを裁くのは、そのあとです」
階段を下りる足音が遠ざかった。
カイルは床へ目を落とす。
「事情があれば、裏切りは許されるのですか」
「許すとは言ってない」
レオンは名札を彼の前へ押した。
「町を守る話と、君の家族を助ける話を分ける」
「分けられるのですか」
「分けないと、君を罰するために二人を見殺しにすることになる」
カイルの肩が震えた。
見張り台の入口で、枷の音がした。
ガレスが兵に連れられて入ってくる。
彼はカイルより先に、門、階段、北の道を見た。
「連絡役が見つかったと聞きました」
ハインツが証言を読み上げる。
ガレスは途中で遮らず、最後に一つだけ尋ねた。
「次の連絡場所は?」
「古い記録室です」
「連絡を止めれば、敵は計画が知られたと気づきます」
「だから?」
「偽の情報を渡します」
カイルが息をのんだ。
「私を、もう一度行かせるのですか」
「家族を救出できた場合だけです」
ガレスは彼を見た。
「救出できなければ、あなたはまた敵の言うとおりに動く。責めているのではありません。人質を残した作戦は、作戦にならないと言っています」
「何を伝える」
ハインツが問う。
「南の食料庫へ兵が移った。夜半には北門の見張りが二人になる。それだけです」
「捕虜が門務官を使う案など認められません」
「認めないでください」
ハインツの眉が動く。
「では、なぜ口にした」
「選ぶのは、あなた方だからです」
ガレスは地図から手を離した。
「私に命令権はない。案を捨てるなら、連絡場所を見張って相手を捕らえる。ただし、敵は襲撃時刻を変えるでしょう」
「失敗すれば?」
「私の案だと記録してください」
「採用するのは我々です」
「なら、採用した名も並べてください」
二人の視線がぶつかった。
ハインツは咳払いを一つした。
「……選択肢として記録します」
待つ間、カイルは倒れていた椅子を起こした。
次に靴紐を結び直す。右、左、もう一度右。
だが、指が震えて結び目がそろわない。
北の道から兵が走ってきたのは、その直後だった。
「救出しました! 二人とも生きています。母親は足を痛めていますが、話せます」
カイルの膝から力が抜けた。
床へ両手をつき、声にならない息を吐く。
少し遅れて、リディアが戻った。剣に血はついていない。
「敵は二人。一人を捕らえ、一人は川へ逃げました。家族は兵舎へ移し、治療師を呼んでいます」
報告を終えると、カイルの前へ立つ。
「あなたがしたことは消えません」
「はい」
「家族を救ったことも、罪を消すためではありません」
「分かっています」
リディアは一度目を閉じた。父を反逆者と呼ぶ声を閉め出すような、短い沈黙だった。
「そのうえで聞きます。偽の情報を運べますか」
カイルはレオンを見た。
「命令ですか」
「違う」
「断れば?」
「拘束して、別の案を使う」
「私の罪は?」
「あとで調べる。今の選択で消しもしないし、重くもしない」
逃げ道を示されたのに、カイルは立ち上がった。
「行かせてください」
乱れた靴紐を、今度は一度だけ結ぶ。
「私が渡した時刻を、そのまま人殺しの道具にしたくありません」
「分かった」
ガレスが偽の文面を整えた。
北門の警備が減った。
南の食料庫へ兵が移った。
門の鍵は持ち出せない。
それ以上は書かない。
ハインツが記録板を見た。
「敵へ渡す紙に、作成者の名は載せません。こちらの記録はどうします」
「ガレス・ヴォルクと書いてください」
「敵国では、その名は反逆者でしょう。仮の名を使うこともできます」
「使いません」
ガレスは服の内側から革片を取り出した。
「名を変えれば、過去を捨てられると?」
ハインツは答えなかった。
レオンが革片を見る。
「どうして、そこまで名前を残す?」
「戦場では、人が数に変わります」
ガレスの親指が、刻まれた名を一つずつなぞった。
「三人死亡。二十人行方不明。百人帰還。それだけなら、命令した者は『仕方がなかった』と言える」
空欄の前で指が止まる。
「名があれば、その言葉の前で一度止まれます」
ガレスが帰そうとしているのは、兵の数ではない。
この革に刻まれるかもしれない、一人ずつなのだ。
「自分の名も刻むのか」
「死ぬまでは刻みません」
ガレスは記録板をハインツへ返した。
「だから、生きている間は命令の下へ書いてください。私はガレス・ヴォルクのまま責任を負います」
レオンはうなずいた。
「ガレスの案。採用を決めたのは俺とハインツ。カイルは自分で運ぶと決めた。全部、分けて残して」
「承知しました」
カイルは古い記録室へ向かった。
今度は一人ではない。
見えない距離から、リディアと兵が退路を守った。
置いた紙は消え、代わりに小さな木札が残された。
「夜半。北門」
ハインツが刻まれた時刻を読む。
敵は偽の情報を信じたように見えた。
その直後、見張り台の床下から石をこする音がした。
一度。
少し間を置き、もう一度。
リディアが床へ耳をつける。
「人の足音です」
「下に道が?」
カイルの顔から血の気が引いた。
「古い水路があります。何十年も前に塞がれたはずです」
木札が告げた襲撃は、夜半の北門。
だが日が沈む前から、別の敵が町の下を進んでいた。




