こんこん
その日、森の地面はぬかるんでいた。前日の大雨のせいだった。
この時期、領地ではこういった大雨が降ることが度々あった。畑には、事前に雨に備えた対策が取られている。領民たちは、荒天の日は家に引っ込んで静かに過ごした。
だから、どんなに強い横殴りの雨が降ろうと、領地の心配をする必要はほとんどなかった。
私が一番気にかかったのは、あの、古木だった。
古木は、誰よりも雨風に慣れているだろう。だが、だから大丈夫、とは思えなかった。
あの木は老いすぎている。これまで何百年耐え凌いでいたとしても、いつ、最後の一滴に打ち付けられ、折れてしまうかもわからない。幾度となくその幹に触れ、語りかけていた私には、そう思えて仕方がなかった。
早朝に森へ足を踏み入れた私は、足元を取られないよう気をつけながら、できるだけ速足で古木のもとへと向かった。
辿り着いた時、古木の根元には、私の腕の三倍はありそうな枝が落ちていた。中がスカスカだった。どう見ても、古木が落とした枝だった。
私は木に駆け寄る。太い幹は無事だったが、息も絶え絶えといった様子だった。
何故そう感じるのだろう――。
私は、木に近づき両手の掌を幹にあてた。
いつにも増して、湿り気が強い。それは木の汗のようでもあり、涙のようでもあった。
木は、必死に生きていた。水を、養分を吸い上げようとしているのだろう。それは、私の知識に基づく想像だった。
だが、木が魔力をまとい、懸命に生きようとしていることだけは、確かに、肌で感じた。植物の魔力を感じることは、これが初めてだったが、錯覚だとはとても思えない、はっきりとした感覚だった。
その魔力はひどく不安定だった。ぐっと強く流れたかと思えば、どこかで詰まり、目的地を見失しなったように霧散する。
「大丈夫、私が導いてあげる……」
私は、両の掌はそのままに、額を樹肌にあてた。目を閉じて、その幹を流れる魔力に集中する。
どうしてそうしようと思ったのかはわからない。ただ、できる、と思った。
魔力は、私の思うがままにすっと流れ、上っていき、きず口に広がっていった。そうしてじわじわと癒すと更に上を目指し上っていく――。
長い時間が過ぎ、私は額を離した。
古木はいつものように静かに私を見下ろしてた。
私はじっとりと汗をかいていた。鬱蒼とした森の向こう側で、陽が高く昇っているのが見えた。
不思議な感覚だった。
この木は長い年月を経て、魔力を帯びたのだろうか、とも考えた。
でも、そういうわけではなかった。目を閉じて感覚を研ぎ澄ますと、あらゆるところから魔力が湧き出て、木の中を、草の中を、流れていることを感じる。
人の持つ魔力と比べれば、はるかに微かで、淡いものだ。
私に魔力がないからこそ感じられたものか、あるいは、未練がましく魔力を追い求めた結果なのか――。
その日は久しぶりに、ぐっすりと眠れた。心が軽かった。
私は、あの日からずっと、ずっと暗い回廊を進んでいるような気持だった。
明かりは腐り落ち、手探りで進むしかなかった。
だが、今日、恐る恐る伸ばした手の先に、コツンとドアノブが触れた。
そのドアが開くかはわからない。それでも隙間からうっすらと漏れた光が眩しくて目が離せなかった。