澱(1)
感情に対して、良し悪しを判断するのは難しい。それは得てして、別の側面を持ち合わせているものだった。
古木の魔力に触れたあの日から、私の中には、灯のような感情が芽生えていた。
知らず知らずのうちに焦がれていた魔力に再び触れられるようになった喜び。自分の内側には一滴も感じられないそれが、外側には溢れている。
私はそれを操れる。この力が、何かの、もしくは誰かの助けになる。
それは自信とも呼べるものだったが、自己過信、あるいは慢心と捉えることもできた。
その感情は、私の判断力を鈍らせるものだった。
そうでなければ、私は領地の境目を越えるようなことはなかったし、禍々しい魔力に自ら近づくような真似はしなかったはずだ。
はじめにその魔力を感じたのは、あの古木の近くだった。
どこか遠くから漂い流れてきた、知らない魔力。重油を思わせるような――そんなドロドロした魔力だった。
一体、この魔力は何だろう――。
とても人のものとは思えない魔力だった。魔獣のものかもしれない。
実のところ、私はまだ魔獣というものを目にしたことがない。首都の付近には魔獣が出ることはなかった。東部には魔獣が多いと聞くが、アシュリー領近くには、魔獣専門の兵士が駐屯する砦があり、この土地でもまた、魔獣が見られることは稀だった。
書物で得た情報によれば、一口に魔獣といっても、様々な種類がいるらしい。始祖たる魔獣が現れた後、それと類似した特徴を持つ有機体を「魔獣」と呼ぶようになったという。
魔獣の研究が進められつつある現在も、魔獣は文字通り、魔法を操る獣である、という漠然とした定義しかない。そのため、人間も魔獣の一種ではないか、だとか、植物の特徴を持つものを魔獣と称するのは不適当ではないか、といった論争は絶えなかった。
ただ、全ての動植物――私を除いて――が魔力を持つことを知る私にとっては、どの説にもしっくりこないものがあった。
私はまるで吸い寄せられるように、その魔力の源へ向かっていた。
森の奥深くへと、草木を掻き分けて、進んでいく。常に周囲の魔力の動きに注意を払っていた。そして、そうしていれば、いち早く危険を察知し、避けられるだろう、という自信があった。
魔力は、当初の予想よりも遠いところから流れてきていたようだった。長い時間歩き続け、だんだんと濃くなる魔力を感じながら、考えた。人の魔力は色とりどり、植物の魔力は爽やかな草の匂いに似ている、では、この魔力の持ち主はどんな姿をしているのだろう。私の頭には様々な魔獣の姿が思い浮かんでは、消えた。
池のほとりで見つけたその生き物は、しかし、私のどんな想像とも異なる姿をしていた。それは、人間の男の姿だった。
こちらに背を向けているので、顔は伺い知れない。軽くうつむいた後頭部で暗い色の髪が揺れている。
丈の長い上着は、遠目でも仕立ての良さがわかったが、赤黒く汚れていた。固く握った両の拳から、ボタボタとこぼれた血がその服を濡らしているのだ。
はじめは、獲物の血かと思った。でもそうではなかった。男の爪が自身の掌に深々と突き刺さり、傷つけているのだった。
その血が、立ち上る魔力が、悲痛な苦しみを訴えかけているようだった。そう気付くと、胸が締め付けられるような、息苦しさを感じた。
数秒の間木陰から様子を伺っていたが、男は棒立ちのまま動く様子がなかった。
私はそっと、足を踏み出した。尋常ではない様子の男に、声をかけるべきか、どうすべきか。考えながら、二歩、三歩、と歩を進める。
五歩目を踏み出した時だった。それは一瞬の出来事だった。
男が突然振り返ったかと思うと、次の瞬間には、血まみれの左手が目前にあった。私は必死に両手でその手を掴み、魔力を受け止めようと力を込めた。だが、一秒もしないうちにその手は大きく振り払われ、体ごと吹き飛ばされた。左半身を地面に強かに打ち付け、うめき声をあげる。
どうにか右手をついて立ち上がりかけた時、喉元に剣先が突きつけられていることに気が付いた。
冷汗が落ちる。恐る恐る顔を上げると、男の金の目と目があった。
「お前……」
男は、低い声でそれだけ言うと、口を閉じた。見下ろす顔に表情はなく、目だけが爛爛と光っている。
何も問われないことが恐ろしかった。彼は、正気を失っているのだろうか。
「セオ!」
何時間にも感じられる沈黙の後、誰かが駆け寄ってきて、ふっと場の緊張が緩んだ。
助かった、と思う一方で、ぎくりとした。……セオ……?
「何やってるんだ、セオ……。その人は?」
「……」
「おい、セオ……」
再び声をかけられると、男は、ため息を吐き、剣を下した。
「……後ろから襲われた。舌を切って、地下に繋いでおけ。俺は先に戻る」
冷たい声で吐き捨てるように言うと、剣を鞘に戻し、踵を返した。
間違いない、彼はセオドア・マクスウェル卿――金眼の怪物と呼ばれる、その人だろう。




