【08】 湖にて 1
季節は過ぎて秋になり、暦は十一月に入っていた。
「たまには息抜きをしましょう」
忙しい公務と婚礼式の準備、騎士団の訓練の合間を縫って、テオ殿下が湖の散策に誘ってくれた。
もちろん二つ返事でお誘いにのる。
我が子爵邸で受ける、連日の「詰め込み式公爵夫人教育」のせいで、頭の中がいつパンクしてもおかしくない状態だったのだ。
だって、この凡庸な頭では完全に要領オーバー。
教えてくれる先生方には悪いけど、限界突破ギリギリだった。
気分転換も兼ねての、少しは遊びたい! である。
▲▽▲▽▲
約束の当日はうららかな小春日和。
暖かく柔らかな陽射しが降り注ぐ、まだ早い午後。
高くなった空は透明な水色に澄んでいた。
湖畔の樹木の葉は、鮮やかな赤色や黄色に変わっている。
湖面は凪いでいて、空と紅葉の色を映していた。
秋の匂いのする空気を思いっきり胸に吸い込む。
こんなにゆったりとした気分を味わったのは、かなり久しぶりのことだった。
テオ殿下はブラックキングの手綱を近くの木の枝にかけた。
草の上に大きな布を敷いて、藤篭の蓋を開ける。
中には焼菓子やスコーン、野菜や肉といった具材を挟んだパン、果物、お茶などが用意されていた。
のんびりと日向ぼっこをしながら紅葉を眺め、軽食をつまみ、お茶を楽しんだ。
テオ殿下は、騎士団での出来事を話してくれた。どの話も面白くて、あっという間に引き込まれてしまう。語り口がとても上手い。
笑い過ぎて目じりの涙を押さえることも、たびたびとあった。
あれから――夜会での突然の婚約宣言からは、半年が経とうとしていた。
婚礼式まで、もうあと半年。
あと半年したら、テオ殿下の妻になる。
あまり、実感は湧かないかも。
「詰め込み式公爵夫人教育」の授業を受けているときにだけは、実感するんだけどね……。うむむ。
マッチョには完全に慣れた。と、思う。
トキメキは……まあ、うん。
だけど、テオ殿下とこんなふうに過ごす時間はとても楽しい。
一緒にいると、なんだか安らぐような気持ちになる。
一方的に婚約を宣言されたときには……テオ殿下に対して、こんなにも穏やかな感情を持つことができるなんて思いもしなかった。
ただ……執務室でステラ様と幼いテオ殿下の肖像画を見たときから。
なんだか言いようのない、もやもやとしたものが胸の中にある。
婚礼衣裳の件は話し合いの結果、両方とも着ることになっていた。
だけど、どうしても……肖像画のステラ様のことを、訊くことはできないでいる。
ふいに、湖から吹いてきた風が髪を乱した。
慌てて後ろ髪を手で押さえる。
ふと、近くもなく遠くもない場所に、数名の護衛騎士が立っているのが目に映った。
ノア様はすぐにわかる。
黒髪だからということもあるが……それだけではない。
やっぱり、素敵だなあ。
「ノアのことが……気になりますか?」
!?
弾かれたようにテオ殿下を振り返る。
突然の一言だった。
灰色の真っ直ぐな瞳がわたしを捕らえた。
「ルナ。貴女の視線は、気がつくとノアを追っている」
冷水を浴びせられたように、全身からさあっと血の気が引いていく。
いきなりのことに頭が真っ白になる。
なにも言葉が出てこない。
テオ殿下の灰色の瞳を見ていることができなくて、思わず視線を伏せた。
なにか言い訳を……。
「あ……の……」
だけど、言葉が出ない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
こんな気持ちがばれてしまったら……。
いや、もう、ばれてるの!?
婚約をしているのに。
ほかの男性のことが心にあるだなんて。
テオ殿下を、第三王子様を侮辱したと――王家を愚弄する行為だと取られかねない。
それだけじゃない。
なんの落ち度もないノア様にも迷惑をかけてしまう。
我が子爵家だって、ただでは済まない。
心臓がばくばくと早鐘を打つ。
お父様、お母様……ああ、どうしよう。
なんとか言い訳を繕わなくては――
「あの……」
顔を上げて、口を開きかけたとき。
「いいのですよ」
テオ殿下が穏やかに、でも、哀し気に微笑んだ。
え……?
「私のことを……さぞ厚顔無恥な男だと思っているでしょうね」
……?
「ルナ……貴女との婚約を何度もフィリップス子爵に打診しました。フィリップス子爵からはそのたびに、遠回しに断りの返事をいただきました。それなのに私は、懲りもせずに……夜会で貴女に婚約宣言などをした……」
……。
「立場上、貴女が断れないことをわかっていました。それでも、どうしても貴女を私の手で護りたかった」
護る……。
幸せにしたいじゃなくて?
そういえば前にも……。
「私は愚鈍ではないつもりです。いつからか、貴女の視線がノアを追っていることには気がついていました。しかし、それでも……」
苦しそうに、テオ殿下の眉間がゆがむ。
「私は……ずるい男です」
……。
確かに、婚約宣言なんてされたら断ることはできなかった。
でも……テオ殿下には少なくとも、わたしを想ってくれている気持ちは、あった。
今も、本心を話してくれている。
むしろ……ずるいのは、わたしのほうだ。
わたしは。
まだ、言い訳を考えている。




