無知の箱庭 1
ブックマーク、評価ありがとう存じます。
至らない話ですがお付き合いいただけたら光栄です。
どうぞよろしくお願い致します。
どうせ死ぬのなら、どうして生まれてくるのだろう……。
死んだ後の世界は存在するのだろうか、するとしたらそれは一体どんなもので、例えば地獄と天国が存在するのならばどういう判断基準でどちらに行くのかはっきりとした数値で教えてほしい、蜘蛛を一匹助けたぐらいで天国へ行くチャンスを与えられるなんてそんなの笑ってしまう。
考えれば考えるほど死にたくないと思った。
死にたくない死にたくない。もがいてもがいて、縋りついてでも死にたくない。そう人一人の重さにも耐えきれずに切れてしまう蜘蛛の糸に縋りついてでも。
死も生も、目には見えない何かが支配して起こっている。
死にたくない死にたくない、だからできるだけ長く生きたい。永遠に生きたい。
それなら、自分も目に見えない何かに近づけばいい。
「クラシックはいいね~、圧倒的な力がある」
時凍星港は整った形をした瞳を薄く閉じて、様々な楽器から溢れ出す音の洪水に体を委ねた。
星港の右隣、一つ空席を空けて制服姿のまゆこが薄暗いホールの中で非常に気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「まゆたんはこの圧倒的な力に飲み込まれちゃってるみたいだね~」
星港は隣の空席に話しかけた。
勿論、空席から返答が返ってくることはない。少なくとも、傍目には。
星港はチラリと空席を見た。彼の目にはその空席に座る男性が見えていた。男性というのが適切であるかは不明だが、人間で分類するなら男性の姿かたちをとっていた。
もしも、ここにいる全ての人間の目に彼の姿が見えたのならば、この素晴らしい音楽なんてそっちのけにして最大級の賛辞を受けるであろう容姿を持っていた。それは神様に特別に愛されたか、特別に嫌われたかのどちらかでなければ説明がつかないほど美しい。
その美しい彼は音楽をこの場にいる誰よりも堪能していた。
音楽以外の全てを排除して興味を示しそうにない彼を見て星港はニヤリと笑った。悪魔も自分の容姿より劣る音楽を素晴らしいと思う心があるのかと大変興味深かった。
「悪魔と契約、か……」
星港の声は音楽に紛れてしまうほど小さな声だが、悪魔には届いているだろう。
「契約相手はどういう基準で選ぶわけ?やっぱり魂が美味しそうだとか?」
悪魔からの返答はない。
「どうしてまゆたんを選んだの?まゆたんとたかとーが出会ったのは偶然じゃないのかな?だとすれば、オレやなでしこちんとたかとーが出会ったことも偶然じゃなくなりそうだね」
この場には不釣り合いに口を開く星港だが前後の観客たちも咎めはしなかった。この会場にいる星港とまゆこ以外の全員が音楽に魅せられているようだった。
「永遠の命も君は与えてくれるの?」
その言葉を星港が呟くと悪魔は少しだけ口の端を動かした。やっと星港の言葉が悪魔の興味を引いたようだ。
「永遠の命を望んだ者の次の願いは皆同じだった」
「へぇー、それは興味深い。なに?」
「死だ」
「勿体無いね、君は無能な人間にばかりそんな素晴らしいプレゼントをしたんだね」
悪魔は薄く笑うだけで何も答えない。
本物の悪魔はこんなふうに笑うのかと星港は興味深くその笑顔を観察した。
何の起伏もない滑らかな笑顔だ。遥か高みから見下ろされているのを自覚しながらも、それで気分が悪くはならない、気持ちがいいほどすがすがしい絶対的な敗北だ。
星港は人生で初めて『敵わない』という感情を存分に味わった。
「偶然なんてものがこの世にどれだけあるんだろうと考えさせられるよ」
星港は悪魔がまゆこを選んだのに理由なんてなかったのではないかと思った。本当は誰でもよかった、別に星港でも、高遠でも、撫子でも、他の誰でも。誰かを選んでその周りに駒を集める。そしてその駒たちが動く姿を自分は上から眺める。それは、星港がしたいことだ。
「世界はあなたを楽しませるために回っているのかと思ってしまうな」
諦めたように星港は呟いてまゆこと悪魔の傍から離れていった。
「オレの所に来て欲しかったなって、ちょっとだけ思ってみたりして」
去り際に星港が残した言葉に、悪魔は契約を結んだ少女の傍らで笑っていた。
自分が吸い寄せられたのは、悪意や打算のない純粋で無知な好奇心。
悪魔は少女の祖母のことをよく知っていた。あれはなかなか骨のある人間だった、人間にしては。たかが数十年しか寿命のない人間にしてはよく物事の本質を理解していた。
この少女も祖母の言葉を守りさえすればこんな風に恐怖にさらされることをなかっただろうにと悪魔は嘲笑う。悪魔も神も妖怪や幽霊といわれる存在も、見えなければそれは少女に何の影響も与えられなくなる。まさに『触らぬ神に祟りなし』だ。
でも少女は恐怖から、悪魔を求めた。弱い自分を守ってくれる存在を求めた。
契約内容は彼女の力でもどうしようもできない時に必ず助けること、生かすこと。悪魔との契約というのに、幼稚で稚拙な内容だ。
そのかわり彼女には、望む、望まざる、そんなの関係ないとふざけるほどとびきり楽しい人生を送ってもらう……。悪魔の退屈潰しの為に。
本当に退屈潰しだ。
この音楽も、この少女も。
悪魔が瞬きをするほどの短い時間しか楽しませてくれることはないだろう、人の一生は永遠に近い時間を持っている悪魔にとっては一瞬だ。
間抜け顔で眠る少女を悪魔はそっと見た。
無知とは、世界で一番美しい……。




