10
ずっと待っていた。
忘れることができるのならば忘れてしまいたかった。
でも、ずっと待っていた……。
たぶん自分が選ばれないことはわかっていた。
神様にも、高遠にも。
それでも、自分の出来る限りの力でやらなければいけないことがある。
部下からの報告を受けて、撫子は病室のベッドから起き上がる。
怪我の具合はよくないが、動けないほどでもない。
見たこともない、話したこともない高遠の婚約者が『私は愛されるために生まれてきた』という笑顔でベッドから立ち上がる撫子を見下した。
『あなたの知っている高遠と私が知っていると、どっちが多いと思う?』
撫子は彼女にそっと訊ねかけてみた。
彼女は動揺なんて一切せずに、撫子に微笑みかけてくる。
撫子はばつが悪そうに唇を歪めて彼女を消去した。
自信がないなら取り戻せ、不安があるなら吹き飛ばせ。
そう思って撫子は自分を奮い立たせた。
幸運な人の人生には転機に風が吹くらしいが、私の人生に風なんて吹かない。だからずっとコツコツと努力して自分の力だけでここまでやってきたんだから。だから、風なんて吹かなくていい……。風なんか吹かなくても望む結果にを引き寄せる。
あの日、高遠の掌の炎を見た日から、そうやって生きてきた。
窓の外に風に運ばれて桜の花びらが舞っていることに撫子は気づいた。
どこかで桜が咲いているのだろうか。
「心臓に銃弾を打ち込め、よく狙え、はずすな!こいつらにそれ以外は効かん!無駄な弾は使うなよ、特注だからな。銃弾がなくなったら剣で首を切り落とせ!絶対にやつらに咬まれるな、咬まれたやつは人間でいられなくなるぞ!そうなったら私が首を落とすからな」
こうなることを事前に知っていたかのように用意された銀の銃弾で撫子の部下である自衛隊員は吸血鬼化した人間の死体の山を築いていく。
勝者はもう決定した。勝者と言ってもこれだけわけのわからない連中を出して、死人を出して、被害を出し、一般人の日常生活を滅茶苦茶にされてはこれでも今自分と相反する場所にいる者の思う壺なのかもしれない。
それでも少しだけほっとした撫子を治りきっていない腹の傷が苦しめた。腹から血が滲む。
「命乞いするなら吸血鬼にしてやってもいいぞ」
膝から崩れた撫子を狙って吸血鬼化した人間たちが群がり残酷に叫ぶ。彼女の部下達は各々応戦しており、すぐに撫子の元には駆け寄れなかった。
「イノチゴイ?」
撫子は笑った。恐ろしく、魅力的に。眉間の皺が楽しそうに歪む。
「命などいるか!」
死ぬ、覚悟はしていた。人間外の力の相手を、生身の人間のままでする覚悟をした時に。こんなふうに死ぬのは少しマヌケだが。
辛くはない。
悲しくもない。
悔いはない。
未練もない。
自分が出来るだけのことは全てやりつくした結果だから。
それなのに、その声は、そんな私に未練を与えてくれる。苦しめてくれる。生きている限り……。
「撫子!」
高遠の声が聞こえた。いつになく余裕のない声だ。
その瞬間撫子の鼻先まで炎がブワッと現れて撫子に噛み付こうとしていた吸血鬼化した人間を一瞬で炭に変える。
崩れた炭越しに撫子の目には高遠が見えた。
彼以上の人が見つからなかったから、と撫子は口に出す気はなく、高遠に心の中で答えた。
彼ほど非情で、残酷で、自信家で、完璧で、……そのくせ危ういほど弱い……。そんな男は見つからなかった。
守りたいと思った。虚勢を張って生きている子どもの様な彼を、自分が守りたいと思った。
だから力を手に入れた。彼と同じステージで渡り合っていけるだけの力を欲した。力がなければ彼の傍にはいることができない。目に見えなくとも彼が見えるものを信じなくては傍にいられない、だから半信半疑で銀の銃弾を作らせ、こんな馬鹿馬鹿しい対未確認生物部隊を作った。よくわからないもののために、真面目に決議書を作り、決済を回し、自分でも笑えてしまう。
そして自分は、今こうして彼の為に戦っている。幻の幸せがあるように思っている不幸の中心に向って着々と駒を進める彼を止めたくて。いや、止める気はないのかもしれない。自分は彼が転んだ時手を差し出すために彼の傍にいるんだ。誰よりも近くで彼が転ぶのを見つめるために傍にいる。この転んだことなどない男の傍に。この国を守るための自衛隊員でありながら、なんて虚しい、なんて愚かな、それでもそれが撫子のたった一つの望みだった。
「大丈夫か?」と撫子に近づいてきた高遠が声を掛けた。周りを見渡せばこちらの被害は最小限にあらかた片がつきそうだ。
「あいにく、なんとか生きている」
撫子は口の端だけ上げて皮肉たっぷりに言った。
「無事これ名馬だ、死んだら何もならないからな、命を拾えてよかった」
高遠が薄い余裕の微笑みを顔に浮かべて言い、撫子に手を差し出した。
『どっちがだ?』と切なく思いながら撫子は差し出された高遠の手を払い除けるように地面に手をついて自力で立ち上がった。
腹からはまだ血が流れていた。
しっかり一度は自力で立ち上がったが立ち上がった瞬間撫子はふんわり浮くような感覚で崩れ落ちかけた。崩れ落ちる途中大きな温かい手が撫子をしっかり抱きとめた。
火種を消したはずなのに、ポツリと雨が撫子の頬にあたった。
きっと桜はこの雨で散るだろうとぼんやり撫子は思った。
咲かないで、まだ散らしたくない。この気持ちを咲かせたら、散らさなくてはいけない。撫子は切なくそう思った。いや、いっそのこと早く散ってしまえばいい……、自分も高遠も、この世界も。
その時二人の視線の先の古びたビルの屋上からただ事ではない火花が散るのを二人は見た。
息を切らしてまゆこは屋上に続く鉄製の重たい扉を開いた。幼女はここに来るまでの道で偶然会った警察官に保護を頼んで身軽になった。
屋上には柵の上に優雅に腰掛ける星港がいた。
「おや、まゆたん。オレの居場所、悪魔に教えてもらったの?」
星港はまゆこの後ろに張り付いている悪魔を見ながらまゆこを快く迎えた。まゆこがこの屋上にやってきても、自分の身はまだ安全だと確信しているかのように。
「どうせ、簡単には、死なないわよね」
まゆこが真剣な目で星港を見て、右手を一振りして渾身の力で結界を作り出し、それを作り出した勢いのまま星港にぶつける。
「やだー、まゆたんひどーい。こんなの当たったら死んじゃうじゃーん」
まゆこの放った結界を簡単に避けて星港は楽しそうに言った。星港に避けられた結界は鉄製の柵にぶち当たり、それを遠慮なく弾いて見るも無残な姿に変える。
ポツリポツリと二人の間に雨粒が落ちてきた。
「おもしろいね、結界ってその場を守るために張る物かと思っていたけど、こうゆう攻撃的な使い方もできるってわけだ。結界に触れた物を弾いて、弾いた力で結界も消滅ってわけか。ふーん……」
自分の後ろにあった柵をしげしげと眺めながら、今起こったことを正確に把握しようと試みる星港の後姿に「ふざけないでください!」とまゆこは右手を高く上げた。
新しい結界を作り出そうと振り出したまゆこの手をフッとまるで瞬間移動のように動いた星港が後ろから掴んだ。
「ふざけなきゃ、君、死んじゃうよ」
それはゾッとする声だった。地獄の底から聞こえるようで、空の上から聞こえるようで、まゆこの体を突き抜く。
まゆこは恐怖のあまり言葉も動きも体温も失う。
「安心して、オレ、女の子の体を痛めつける趣味はないから」
安心なんてできそうにない笑顔で星港は言う。
「もしかして、震えているの?そんなに怖い、オレのこと……」
悪魔が軽く右手を動かすだけで、ビュッとまゆこの手を掴む星港の手を手首から切り落とした。星港はスッとまゆこから飛び退いたが、それでも一瞬遅かった。
星港の手首はボトリとまゆこの手首から離れて床に落ち、床の上で落ちた手首は端から黒くなって分解されるように粒子状になって消えていく。そして切り落とされた星港の手首はゴプゴプッと奇妙な音を立てながら蠢く。ゆっくりとでも確かに、それは再生されていく。
「まゆたん、傷つけられる覚悟のできてない人間はさ、人を傷つけちゃいけないんだよ」
ボトボトと血を滴らせながら再生する自分の手を眺めつつ、星港はまゆこに声を掛けた。
血生臭く再生されていく手を見てもまゆこは、それについては不思議と気持ち悪さがなかった。自分の日常に起こる範囲以上のことに冷静な判断能力が少し鈍っているのかもしれない。ただ漠然とした恐怖と驚愕と無力な存在である悔しさと悲しさが、体中から溢れてきて、まゆこを責めた。
「まゆたんはさ、強い結界が張りたいの?」
突然優しすぎる笑顔を星港はまゆこに向ける。優しすぎるが故に、その裏に隠された企みに恐ろしくなる。
「そうですけど……」
悪魔の背中に庇われながら、恐る恐るまゆこは答えた。
「第二次世界大戦の際、アメリカは重要文化財を理由に京都に攻撃をしなかったのは知ってる?」
「歴史の教科書では」
「アメリカは京都を攻撃しなかったんじゃない。できなかったんだよ」
「はぁ……」
「強力な結界を見てみたかったら、一度京都に行ってみればいい」
だいたい元通りに再生された右手を試すようにグーパーと星港は動かした。
「ヒント1、『余所者に冷たい』っていうのも、京都に掛けられた結界の一つだよ」
にっこり笑って星港はまゆこに背を向ける。
「あなたが、いい人か、悪い人か、わからないです」
その背中にまゆこは正直な言葉を掛けた。
「ありがとう。褒め言葉だよ、最高のね……」
再生された右手をぴらぴらまゆこに振りながら星港は屋上の扉を開けてまゆこの前から姿を消した。心の中で『悪魔はオレを生かすのか』と囁いた。
「火種をね、作っているんだよ。オレもたかとーも」
バタンと自分の背中で鉄の扉が閉まる音を聞きながら星港は顔を楽しげに冷酷に歪めた。
「偶然に見せかけた必然を重ねてね」
コンクリートの窓のない階段を降りながら星港は楽しげに呟き、同級生の顔を思い浮かべた。
「どっちの思惑通りに火が出来上がるのかな」
カツンカツンカツン、と星港の足音だけが無機質な空間に響く。
「火は見えない間に大きくなる。そして、火は水を呼ぶ。火が大きければ大きいほど水も大量だ。そして火を大きくするには風が必要」
クスクスクスクス、彼は笑う。
「大洪水だ」
優しく囁くように星港は言った。
「高遠、君が望む大洪水の扉が開かれたよ」
そして星港は少しだけ足を止めた。
「まゆたんは落ちこぼれずについてこれるかな?また会えるといいけど……」
「悪魔……」
重い鉄の扉の向こうに星港の足音を聞きながら、まゆこは力が向けたように呟いた。悪魔は微笑を保って今もまゆこの隣にいる。
本当にまゆこは体から力が抜けたようで雨が模様を作り続けているコンクリートの床にへたり込んだ。制服のスカートがふんわり広がる。
「終わった……」
まゆこはそう呟きながら、始まったことを感じていた。何か大きな渦に巻き込まれている。自分はその渦の中ではたして息をすることができるのだろうか?
「大丈夫か?」
星港が閉じた扉から高遠と撫子が顔を出した。
二人とも走ってこの屋上に来たのか息が荒い。まゆこは二人の顔を見てほっとした。星港との戦いと言えないようなやりとりはやはり怖かった。二人が来たなら大丈夫、妙な安心感を覚えた。実際この二人に素手でも口でも妙な力でも勝てるものは少ないだろうから、安心感を覚えるのは当たり前のことなのだが。
まゆこは涙ぐみそうになったが、撫子が腹部から血を流していることに気づき、はっとゆるんだ緊張の糸が戻った。
「撫子さん!おなか!」
「大丈夫だ、血が出ているだけだ」
撫子は何てことないように言った。
「血が出てるってことはケガしてるってことですよ!」
まゆこが眉をひそめたが、階段を駆け上がりこうして今立っているということは、無理をしていても命に別条がないぐらいなのだろうと納得して別のことを高遠に問いかけた。
「すれ違いませんでしたか?」
「誰とだ?」
「セイコウ、サン?」
「あー、いや。あいつがいたのか?なるほど」
「たぶん吸血鬼の親玉?」
「まぁそんなもんだろうな、狼男やフランケンシュタインも仲間に入れているかもしれないが」
高遠がどうでもいいことのように言い捨てた。
「逃げたんですか?」
「さぁどうだろうな?」
「ほっといていいんですか?」
「じゃあそんなところに座ってないでとどめを刺しに行けよ」
「私では敵いません」
「妥当な判断だ」
二人の会話にやっと撫子が口を挟んだ。
「あいつの手先の金髪ヤローなら昨日成田からアメリカに旅立ったそうだぞ」
「なんで撫子さん知っているんですか?」
「部下に調べさせた」
「どうやって?」
「似顔絵と思いつく限りの特徴を書いたメモを渡した、そうすると昨日成田の防犯カメラに映った男の写真を持ってきた、そいつだった。私を傷つける栄誉を与えてしまったからな、その借りはしっかり返したかったのだが」
撫子は淡々とまゆこに語った。入院案内の裏の白紙に腹部の痛みをおして撫子が必死に描いた似顔絵で部下は何とかその男を探し出した。ただ日本から出た後だったが。
高遠は撫子の画力を思い出し、部下と苦労を思うと思わずふきだした。撫子はすっと視線を高遠にやったがそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ今回は一件落着ですか?」
「そうだな」
恐る恐る聞くまゆこに高遠はあっけなく答えた。
「短い間かもしれないがな」
撫子は鼻で笑っていった。
「次は何の大軍を連れてきてくれるのだろうな?どうせ異形のものなら人魚とか雪女とかがいいのだが」
真面目な顔で高遠が言ったが、二人は無視した。
「あ!室長!室長ってコッカコウムインなんですよね!じゃあその部下の私もコッカコウムインですか?」
思い出したようにやっと立ち上がってまゆこは訊ねかけた。
「は?」
「出張費とか出ますかね?」
「は?」
「京都行きたいんです!」
「遊ぶ金は親に出してもらえ」
「違うんですよー」
撫子が屋上の扉に手をかけた。それに続いて高遠とまゆこも階段を降り始めた。
悪魔は静かに微笑んでいた。
どす黒い雲の下で雨が本格的に降り始めた。
以上、皇居の文書室に保存されている『第一期吸血鬼大量発生の件』についての詳細になる。




