四話
荷物を満載した馬車を、馬が重そうに牽いていた。きっとこの街を逃げ出すところなのだろうと、少年は思った。今や街にはペストが根を下ろしていた。領主である伯爵夫婦を筆頭に、金持ちから順に財を抱えて逃げ出して行った。市民層とて足の速さでは特権階級にそう負けはしなかった。
街に残るのは、見捨てられた病人に逃げ出す金も当てもない貧乏人、この混乱に乗じて一儲けを企む闇医者に香具師、住人の絶えた家を狙う泥棒くらいのものだ。治安など風前の灯火であり、混沌が幅を効かせ始めている。どこかで、何かが燃える臭いがした。
「この馬鹿息子が!」
その叫び声で少年は窓から顔を引っ込めた。まだ残っている金持ちがいた。それは彼の主人であるイタリア人の仕立屋夫婦だ。今の声は主人の方だ、と彼は思った。その怒声が自分に向けられたものではないことを確認して、彼は安堵の息を吐く。
だが、油断は禁物だ。問題児の彼らの息子が何かやらかした日には、理不尽にも夫婦の怒りは罪のない使用人、彼のような幼い使用人であっても例外ではない、に容赦なく向けられるのだ。そんな日に更にヘマでもやらかしていれば、気を失うまで殴られてしまう。既に使用人を何人も殺しているなんて噂すらあるのだ。そのせいで誰も彼もが逃げ出し、今この家にいるのは、他に行く場所もない孤児の彼だけであった。
「本当に馬鹿息子だな、お前は!」
主人の怒鳴り声は続く。
「よりにもよって今、病気になるとは。本当に使えない息子だ、ロムアルド」
「あなた、どうしましょう」
甲高い不快な声は、夫人。
「出発は明日なんですのよ。病人、それもペスト患者だなんて連れて行ったら、お金が掛かって仕方がないわ。それに私、感染なんてまっぴらごめんですよ。今までこんなに清く正しく生きてきたって言うのに、最後にペストに罹って苦しみながら死ぬだなんて、そんな酷い話はありませんよ」
「全くお前の言う通りだ」。夫が同意した。「儂も真っ当に生きてきたのだ。ペストなんてものに殺されて堪るか。おい!」
主人が自分のことを呼んでいるのだと理解した少年は、転がるようにして彼の前に出た。以前、ほんの少し遅かっただけで「やる気がない」と見なされて、一晩中地下食料庫に逆さ吊りにされたことがあるのだ。あんな思いは二度としたくなかった。
「お前、いくつだ」
主人の問いは唐突だった。だが必死に少年は答える。
「十歳になったと思います」
「思う? ふん、そうか、お前は捨て子だったな。どこの馬の骨とも知れぬ。だが、まぁ良い」
夫婦に揃ってまじまじと観察された少年は、身を縮めた。また逆さ吊りにされるのだろうか。それとも今度は水路に投げ込むのか。だが話は彼の想像もせぬ方向へと、転がっていく。
「まぁ、ウチの馬鹿ロムアルドよりは少し小さいが、そう変わらんな」
夫の方が足下の何かを蹴り上げた。少年が視線を向ければ、それは彼らの子供であるロムアルドだ。いつもは気が強く暴れん坊で、手の付けられない少年が、今や床で力なく喘いでいた。
「そうねぇ」、と機嫌良く答えたのは夫人。
「確かにロムアルドと比べて少し幼いし、背も低いけれど。どうせ余所の大きな街に行くのだもの。息子が少しくらい小さくなっていたって、誰が気付くもんですか」
夫人の骨張った手が肩に置かれて、少年は動揺した。夫人の色褪せた瞳が彼を覗き込んだ。
「綺麗な瞳ね。私と同じ緑色だわ。汚い頭も顔も、洗えば少しは見られるようになるでしょう。馬鹿で阿呆で暴れん坊で、どうしようもなかったロムアルドに比べれば、ずっと良いかもしれないわね。これもきっと、神様の思し召しよ」
「なら決まりだな。儂が立派な仕立屋に育ててやろう。なに、まだ学び始めるのに遅すぎる歳でもない」
少年には夫婦の会話の意味が分からない。彼の望みはただ一つ。頭上で交わされる言葉をやり過ごして、早く彼らの元から去ることだけだ。肩に置かれたままの夫人の手の平から伝わってくる熱と湿り気が、気持ち悪くて仕方がない。
深く満足げに頷いた主人が、大きな暖炉の火掻き棒を取り出した。どうして今、と少年は思う。今は夏なのに。暖炉が必要になるのは冬だ。
目を丸くする少年の前で、火掻き棒は高く振り上げられ、そして綺麗な弧を描いて振り下ろされた。その先には呻くロムアルド。少年が事態を把握するよりも先に、生暖かい赤と黄色の混ざった液体がほほに飛んできた。彼の前にいたのは、もはやロムアルドではなく、ロムアルドだった物体であった。
主人は、今は無生物となったそれを実に嫌そうに持ち上げると、少年が使っている使用人部屋へと運び込んだ。そして彼のベッドにそれを寝かせる。予備のシーツを引きずり出すと、顔以外が見えないようにすっぽりと包んだ。
その間に夫人が少年の顔を拭き、髪を洗い、まだ新しいロムアルドの服を着せた。
未だに理解も出来ずに、ただただ呆然とする少年を放置して、事態は進行していく。旦那がどこからか若い牧師を連れてきた。夫人は悲しそうに彼に首を振って、そして言う。
「牧師様、わざわざ来て頂きましたのに、間に合いませんでしたわ。死は避けられぬこと。それでも旅立つ前の最後に、牧師様に導いていただこうと思いましたのに」
牧師は夫人に慰めの言葉を掛けた。
「まずはご愁傷様を言わせてください。わたしも可能な限り急いでは来たのですが、間に合わなかったこと、心から申し訳なく思います」
「いいえ、良いのです。それもまた彼の運命だったのでしょう」
実に神妙な声で応じたのは、旦那の方だ。奇妙な劇の幕が上がっていた。知らないのは牧師だけだ。いや、彼もまた歴とした演者の一人か。
「亡くなったのは?」この牧師の問いに答えたのは夫人だった。「我が家の使用人です。歳も私どもの息子ロムアルドに近く、仲も良かったものですから、息子も酷くショックを受けておりますわ。息子のために、いえ、何よりも死んだ彼のために祈ってやってくださいませ」
牧師が膝を折り、祈りの言葉を唱え始めた。
少年はこの劇の意味を、ようやっと理解し始めていた。死んだのはロムアルドではなく、彼自身なのだ。今ここに立っているのは孤児で哀れな使用人ではなく、仕立屋夫婦に溺愛される暴れん坊の息子ロムアルド。彼の知らぬ間に劇は進行し、役が入れ替わったのだ。それは現実という舞台上で公演され続ける喜劇。もしくは悲劇。
一通りの悔やみの言葉を並べ立てた牧師は、出て行った。その手に旦那、いやもう父親か、が金を握らせるのをロムアルドは見た。牧師の死者への言葉には淀みがなかった。それは今まで何度も何度も繰り返されたからだろう。摩耗して重みを失った祈りに、一体何の価値があるのか。
「ほら、ロムアルド」と父親が言った。「さっさと準備をしろ。明日にはこのくそったれの街から出るんだからな」
「あの」。ロムアルドは恐る恐る口を開いた。「彼は?」
ロムアルドが指差す先には屍体。それはロムアルドだったもの。使用人の少年だったもの。
「そんなもの」と父親は鼻白んだ。「放っておけ。使用人の死体など、どうなろうが知ったことじゃない」
「そうよ、お父様の仰る通りだわ」とは母親。「汚いし感染するかもしれないから、近づいちゃ駄目よ。さ、早く準備をなさい」
母親に背中を押されて、ロムアルドは素直に二人の言葉に従った。彼ら二人に捨てられれば、彼など餓死する他はない。だからこの滑稽な現実を、演じ続けなければならないのだ。舞台から降りられるのは、死者のみだ。そして、彼はまだ生きていた。




