三話
二人の視線に晒されながら、ロムアルドは荒い息を鎮めようと必死に何度も深呼吸をした。それからようやっと、声を絞り出した。
「お医者様が、お医者様が」
「ヴィクターが?」
喘ぐようなロムアルドの声が告げたのは、衝撃的な内容。
「死んでいる。いや、殺されている」
瞬時にツァハリーアスの脳裏に甦ったのは、セラピオンの胸に穿たれた鋭い穴だ。それは蝋燭の赤みを帯びた光に、深い虚無をさらけ出していた。マリーアも、同じように傷つけられて、死んだ。
呆然と座り込んだままのツァハリーアスの袖を、アーデルハイトが引いた。立つように促しているのだ。
「行きましょう」。その声が普段と変わらないことに安堵を覚える自分自身を、ツァハリーアスは認めた。「今ならまだ、間に合うのかもしれないわ」
さぁ、と少女に声を掛けられたロムアルドが、辛うじてと言った態で立ち上がった。何度も頭を振ると、青い顔で案内に立つ。そのまま駆け出した二人の男の後を、アーデルハイトは慎重に、日光を避けながら追った。
ツァハリーアスは思わず邸の広さに舌打ちをした。今や一刻も早くヴィクターの元に辿り着きたいのに、延々と小部屋が続くのだ。いくつもの薄暗い部屋たちを抜けた先、ヴィクターの部屋のすぐ手前で突如飛び込んで来たのは太陽光。大きな鏡が部屋の奥から、光を反射させていた。その眩い光の中に見えるのは、見慣れたヴィクターの靴、そこから伸びる脚。動かない。
ツァハリーアスは光を越えて、部屋に飛び込んだ。彼の後ろの小さな吸血鬼は、太陽に怯えて後ずさる。
彼が見たのは、血の海。その上では医者が仰向けに倒れていた。血の源は胸だ。駆け寄ったツァハリーアスは乱暴に己の袖をちぎり取ると、傷口を押さえた。微かにヴィクターが呻く。その声は、彼がまだ死んではいないことを示していた。
僅かな安心と責任感を供に、「早く医者を呼べ」とツァハリーアスは指示をしようとした。だがそれが音になる前に、アーデルハイトが彼を呼んだ。「伯爵」。緊迫したその声音は、彼女にはあまりにも似合わない。
振り向きかけたツァハリーアスの首筋に、何かが当たる。冷たい感触と、鉄錆に似た臭いを彼は知らされた。それは未だ乾かぬ血が付着したままの大きなハサミだ。本来は布を裁つためのそれが、今や人間の肉を刺す凶器として、ツァハリーアスの首筋でその存在感を誇っていた。
「ロムアルドくん?」
発した言葉はあまりにも間抜けだと、ツァハリーアスは思った。彼もそう思ったのだろう。すぐ後ろから、嗤い声が聞こえる。それでも彼は「はい」と、普段と変わらぬ好青年らしい返事をした。その差が、怖い。
「……牧師様も女中さんも、死因は鋭く大きな刃物による刺し傷なのですってね」
暗がりから、アーデルハイトの声が届いた。光に慣れた目には、闇は深い。ツァハリーアスに辛うじて認識出来るのは、彼女の輝く金髪だけだ。
「彼ら二人を殺したのも、お医者様を傷つけたのも、そのハサミと貴方なのかしら?」
「お嬢様は」、答えるロムアルドの声は朗らかだ。「お美しいだけではなく、賢くていらっしゃる」
ロムアルドがにっこりと微笑んだ。ツァハリーアスに分かるのは、その気配だけだが。
「どうして?」
普段と変わらぬ冷たさを取り戻した少女の声が問うた。その冷めた音だけが、ツァハリーアスにこれが現実であることを教えてくれる。今すぐにでもパニックに陥りそうな彼に、冷静さを与えてくれる。
「どうして、ですか」
ロムアルドの声が少し、色を変えた。ツァハリーアスには、それが寂しさのせいに思えた。
「本当に貴方は覚えておられないのですね、僕のことを。いえ、それでこそ良いのです。それでこそ貴女だ。だからこそ、お伝えしておきます。これは全て、貴女の為なんですよ、お嬢様」
「それはつまり」、アーデルハイトの声が沈む。それはあまりにも僅かな変化でしかなかったが、今のツァハリーアスには分かる。「私のせいだと言いたいの? 牧師さんと女中さんが殺されたのも、お医者様が刺されたのも、今伯爵が危険な目に遭っているのも、全て私の」
「違う」。ロムアルドが鋭く否定した。「違います。これは貴女のせいではない。貴女の為、なのです」
「貴方が何を言っているのか、分からないわ」
「分からなくても構いませんよ。理解されるのが望みではないのですから。貴女の為とは言え、全ては僕が勝手にやったことですからね」
ロムアルドはその緑の瞳を細めて、アーデルハイトを見つめた。
太陽を恐れ影に隠れる少女は、彼の記憶する彼女とは違った。けれども、彼女は彼女だ。一度も、いや、一瞬たりとも忘れたことのない、美しい白衣の娘。何も変わってはいない。変わったのは彼女本人ではなく、彼女の周囲なのだ。だから、とロムアルドは考えたのだ。周囲に存在し、彼女に影響を与えるものは全て殺してしまおう。そうすれば、彼女はあの日と同じ、美しく完璧な存在へと戻れるだろう。
ロムアルドは思い出す。それは、白と黒の記憶。十五年前の記憶。




