四話
「告発する屍体、ねぇ」
卵入りのビールスープをパンに塗りながら、ヴィクターが言った。
「犯人に触れられた屍体は傷口から血液を流しその罪を告発する、だっけか。時代錯誤も甚だしいね。あの牧師の屍体が血を流したってのは、確かな話なのか?」
「ええ」。あっさりと頷いたのはアーデルハイト。その手に握られたフォークが炙り肉を刺す。
「確かよ。皆が牧師さんに最後の別れを告げて出棺しようとした時に、事件は起きたんですって。参列者から若い男が六人進み出て、牧師の棺を担ごうとしたら、突然。と言っても、私はその瞬間を見た訳じゃないのだけれど」
「ふぅん。と言うことは牧師が血を流した時に近くにいたのは、一人じゃないのか。それじゃあ一体、牧師は誰を告発したかったのやら。生きている時も難儀な男だったが、死んでもまだ面倒を掛けるのか。なぁ、その後で、近くにいた一人一人に牧師の体を触らせてはみなかったのか?」
「やったわよ」。口に含んだ肉を飲み下してから、少女が口を開いた。「でも駄目だったわ。一回血が流れ始めると止まらなくて。誰が触れても反応は一緒よ」
「嫌な男だな、本当に。告発するならするで、きっちりやって欲しいね」
「ねぇ、私思うのだけれど、牧師さんは告発ではなくて、告白したかったんじゃないかしら。誰に殺された、ではなくて、誰かに殺されたという事実をこそ、言いたかったのかもしれないわ」
「君たち」。深い深い溜め息と共に、ツァハリーアスが咎めた。「もっと食事に相応しい話題なんて、いくらでもあるだろう? 食欲が失せてしまうよ」
そう言う彼が突っついているのは野菜だけ。注意深く肉を除去しては、野菜だけを摂取している。
「伯爵が野菜しか食べないのは、今日に始まったことではないでしょう?」
アーデルハイトの率直すぎる意見を、ツァハリーアスは「まぁそうだけどさ」と消極的に認めた。
「お前は変わったよ」
そんな彼を揶揄するのはヴィクター。
「大学生の頃は肉好きだったし、この手の話題にも耐性があったと思うがね。いつかなんて医学部の人体解剖に参加したい、無理なら潜り込むとまで言って、困らせてくれたくせに」
「まぁ、そうなの?」
驚くアーデルハイトに、ヴィクターは笑んだ。
「そうなんだよ。今の彼しか知らないお嬢さんには、意外だろうがね。でもまぁ」、彼の笑顔が微妙に色を変えた。「人間は変わるものだ。お前が変わったように、俺だって変わったさ。お前が知っている俺は、出世のために結婚するような男じゃなかっただろう? あの頃の俺は己の知識と能力に自信を持っていて、その力だけで未来を切り開いていけると信じていたよ。心の底からね」
ヴィクターは頭を振った。
「若いってのは良いね。どうしてあんなに自信があったのか、今となっては理解出来ない。歳を取るってのは辛いことだ」
「私は」、ツァハリーアスが勝手に載せた塩漬け発酵キャベツを皿の端に寄せる作業をしながら、アーデルハイトが言った。「貴方たちが羨ましいわ」
「おや、どうして。君はまだこんなにも若いのに。若者は若者らしく、精々盛大な夢を抱くと良い。その内に嫌でも現実を知ることになるんだからね」
ま、何はともあれ、そう言いながらヴィクターがテーブルを叩いた。
「問題は山積しているよ、ツァハリーアス。牧師の死因が他殺だと明らかになってしまった。それに伴って、俺とお前の隠蔽工作もね。住民たちがそれをどう捉えるか、だ。ただでさえ君の評価は地に落ちているってのにさ」
「頭の痛い問題だね。僕としては、彼がちゃんと教会内の墓地に埋葬されるようにとの善意から嘘をついたつもりだけれど、嘘は嘘だからね。最悪、住民たちは僕を犯人だと考えるかもしれないな」
「でも」。口を挟んだのはアーデルハイト。「牧師さんが血を流した時に、伯爵はその場にいなかったのよ?」
「告発する屍体だなんて」。ツァハリーアスは言う。「幻想だ」
「まぁね。実際に告発してくれれば有り難いことこの上ないが、そう世の中は便利に出来てはいないからなぁ。牧師が血を流した原因は、必ずある。それにしたって、あの牧師は失血死だぞ。それなのにまだ、盛大に垂れ流せるほどの血液が残っていたとはね。妙なこともあるものだ」
「それで、牧師さんはどうなるの?」アーデルハイトが首を傾げた。「あの騒ぎで葬儀は中断されてしまったわ。でも、早く埋葬しないと」。思わずなのだろう、彼女はツァハリーアスを見た。
「それならもう連絡が来ているよ」
彼女が何を危惧しているのかを理解したツァハリーアスは、執事に命じて流暢な文字の躍る紙を持って来させた。それはセラピオンの埋葬時間を知らせる手紙。
「葬儀のやり直しはしないんだそうだ。そのまま埋めることにしたみたいだよ」
「埋める。どこに?」問うたのはヴィクターであった。「教会の敷地内に葬られる権利を持つのは、正しく死んだ者だけだ。自殺、他殺ともに『正しい死』とは認められないだろう」
「その通りだね」、と答えたのはツァハリーアス。「彼は街の外、ペストによる死者のために作られた共同墓地の近くに埋葬される」
「何だか皮肉ね」。アーデルハイトが、彼の埋葬を知らせる文字を指でなぞりながら、言った。「あんなに自分のことを正しい人間だと言い張っていたのに、異端者として埋められてしまうだなんて」
「どう生きるかは自分で決められても、どう死ぬかは決められないからね。そもそも正しい死と、正しくない死があること自体が変なんだよ」
「それもそうね」。アーデルハイトはツァハリーアスの言葉に同意した。「それで牧師さんの埋葬は、あぁ、今夜なのね」
アーデルハイトの白い指が、時間を記している箇所を正確に示したのを見て、ツァハリーアスは内心驚いていた。
現在でも識字率は決して高くはない。それもこの知らせはラテン語で記されていると言うのに、それでも彼女は読めたらしい。
やはりこの娘は、とツァハリーアスは確信を深める。どこかの裕福な貴族階級の出なのだ。
「よりにもよって今日か」。ヴィクターがフォークを弄びながら言った。「とっとと埋めて、とっとと問題も抹消したいって意図が丸見えだな。本当に牧師も報われないことだ。俺は彼が嫌いだ。けれど、彼のあの信念を貫こうとする姿は嫌いではなかったよ。単に俺とは価値観が違うだけだ」
「私は」、アーデルハイトが目を細めた。「彼のこと好きだったわ。あんなに無邪気に己の正しさを信じられるだなんて、羨ましくて仕方がなかった。私は、私が持ち得ぬものを有する人を尊敬するわ」
「ふぅん」、ヴィクターが意味深長な笑みを浮かべた。
「君は綺麗な人だね、お嬢さん。普通はね、己の持ち得ぬものを持つ相手のことは、嫌い抜くものなんだよ」




