五話
アーデルハイトは、セラピオンの棺が穴の底に下ろされるのを静かに見つめていた。
空に月はない。ただ揺れるのは蝋燭の炎。それは人工的な物だ。
遠くからはオオカミの声。長く尾を引くその響きは、憤っているようでもあり、悲しんでいるようでもある。
棺に土がかけられ始めた。蓋に当たる、土塊の音。
アーデルハイトは思わず瞳を閉じた。彼女が思い出すのは、あの日の絶望感。
あれから恐らくは、長い長い時間が経ったのだろう。その間、彼女は日々を過ごし、そしてそれらを忘れていった。それなのに今になって、あの記憶だけを思い出すとは。
アーデルハイトは唇を噛む。いくら念じても、その記憶は鮮やかになるばかりで、決して彼女の脳から出て行ってはくれない。
あの日、彼女が目覚めれば、辺りは暗闇であった。そこは狭い空間。小柄な彼女が横になるだけのスペースしかない。
決して厚いとは言えない木の板の向こうから、彼女は圧倒的な質感を感じとっていた。今にもその重たい塊が、この空間を押しつぶすのではないか。
その恐怖に少女は叫んだ。泣いた。喚いた。
けれども、それを聞くのは彼女一人だけ。己が独りぼっちなのだと理解した瞬間に、彼女を襲ったのは底抜けの虚無感。このまま死ぬのだ、そう少女は思った。
けれど、彼女に救いの手は差し伸べられたのだ。絶望に押し黙った彼女の耳に届いたのは、土を掘り返す音。
彼女は最初、嗤った。自分の耳が狂ったのだと思ったのだ。だが確かに音は存在していた。徐々に大きく近くなる。
ついには彼女の棺に辿り着いた。耳障りな音を立てて、彼女を閉じ込める木の蓋が破られる。
あの光景は、とアーデルハイトは思い出す。恐らくは、彼女が見た最も美しい光景であった。それは黒と白の記憶。
閉鎖された空間から解放された彼女の目を射たのは、白銀の月光。
眩しさと安堵感と、緊張と緩和の狭間で、ただ呆然とする彼女の前には黒い影。
強い月光が、男の細部を彼女の目から隠していた。ただ少女が見たのは、その輪郭のみ。
男の肩が揺れた。たぶん笑ったのだと少女は思った。
それから手が伸ばされた。彼女に向かって。真っ黒な男の、その手だけが月光に白く輝く。
「彼は」、ツァハリーアスの声が、アーデルハイトを現在に呼び戻した。彼女の位置からでは、彼の背中しか見えない。「彼も腐るのだろうか」
「当然だろう」。答えたのはヴィクターだ。「良き人間だと彼は自分のことを言っていたじゃないか。彼は腐る。地面に還る。大地に受け入れられる。腐らないのは、大地に拒絶されるのは、悪しき存在だけだ」
お医者様の仰ることは正しい。そうアーデルハイトは思った。
牧師は死んだのだ。その屍体は己の死因を告白しはしたが、しかし蘇りはしないだろう。彼は善良な人間だから。
その体は土の下で、あの狭く暗い棺の中で腐り、そしていつの日か全ての形を失い土となる。
けれど、とアーデルハイトは想像した。
もしも彼が蘇ったならば、どんな表情をするのだろうか。満月の夜に私が、鍬を手に彼の墓を掘り起こすのだ。そして蓋を打ち破り、白銀の月の下で彼に手を差し伸べる。
その時、彼はどんな表情をするのだろうか。どんな気持ちになるのだろうか。
そして私は、私は、あの日、手を差し伸べられた私は、何を感じたのだろうか。どんな表情で男を見上げたのだろうか。
アーデルハイトは手の中の蝋燭を見つめた。揺れる光。それは月とは違う。
月光は揺るがない。それは人の力ではなく、もっと強大で悪意に満ちた者の創造物だ。暖かみのない、ただただ冷たいだけのもの。
あの男もきっと、アーデルハイトは思う。悪意の化身だったのだろう。
無慈悲な月光の下で、彼女は男の手で掘り出された。彼女は大地から取り出され、土に還ることを拒絶されたのだ。
そして彼女は吸血鬼になった。生と死の狭間の、中途半端な存在に。
彼女の記憶に残る男は、ただの黒い影だ。少女は思い出す。差し伸べられた手の白さを。
私は、とアーデルハイトは小さく呻いた。私は、あの手に縋ったのだ。思い出せるのは男の輪郭だけ。それなのに、彼女は男を恋しく思う。彼女に向けられた手を、彼自身を。彼は彼女を置いて、いなくなってしまったのに。
「アーデルハイト、どうかしたかい?」
柔らかな声が落ちてきた。少女が顔を上げると、すぐ傍にツァハリーアスが立っていた。新緑の瞳が蝋燭に照らされて、揺れた。
それは命の色だ。春に萌える草の色だ。吸血鬼の青すぎる瞳とは、違う。
「いいえ」。そう答える自分の声を、アーデルハイトは遠くに感じていた。牧師の埋葬は既に終わっていた。参列者たちは列をなして街へと戻り始めている。
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
そう言う伯爵こそ、顔色が悪いとアーデルハイトは思う。
大丈夫ではないのは、彼の方だ。ずっと封印してきた忌まわしい記憶と再会したのは、まだ今日の話なのだから、その衝撃から立ち直れるはずもない。
それなのに、彼は自分なんかに優しく声を掛けてくれる。先の夕食でも肉への嫌悪を全く隠せていなかったのに。
「さぁ、帰ろう」
ツァハリーアスの言葉に、アーデルハイトは内心首を傾げた。帰る。それは果たして、どこに?
参列者たちは街へと歩いている。けれど彼女がいるべき場所は、街ではない。
街は人間のための場所なのだから。彼女は人間ではない。ならば、棺の中こそが彼女の居場所なのだろうか。
いや、それも違う。彼女は死人でもない。大地に受け入れられる腐敗する肉塊ではないのだ。
オオカミの唸る声がアーデルハイトの耳に届いた。
彼らは生来の能力で理解しているのだ。彼女が化け物だとの事実を。高く低く、長く尾を引く鳴き声は、彼女を拒絶するもの。
「アーデルハイト?」
ツァハリーアスが少女を呼んだ。だがその優しい声音も、今の彼女には嫌で堪らない。
アーデルハイト。その名すら仮のものでしかないのだ。
少女は考える。それは伯爵が私にくれたものだ。この綺麗なドレスも、快適な部屋も、全ては彼がくれたもの。
……私には、受け取る資格などなかったのに。名前も居場所も何もない。私が持つのは、少女は嘆息した。ただこの忌まわしい肉体と、黒と白の記憶のみ。既に失われた過去の、抜け殻だけ。
「ほら」。柔らかな微笑みと共に、ツァハリーアスが彼女に差し出したのは、白い手。けれども今日は空に月はない。彼の手を照らすのは、暖かな蝋燭。
アーデルハイトとツァハリーアスが呼ぶ娘は、立ち竦んだ。
かつて月光を背に彼女に手を差し伸べた男は、一体どこに行ってしまったのだろう。
今でも思い出せるほど強く、彼女は彼を愛したのに。
けれども、それも仕方がないことなのだ。そう彼女は思う。彼が去って行ったのは、きっと自分のせいなのだ。
だって私は、少女は呟く。化け物なのだから。
アーデルハイトと呼ばれる少女が顔を上げた。長い金色の髪が流れ落ちる。
ツァハリーアスはその様子を見つめた。柔らかな手は、まだ差し伸べられたままだ。
彼女は笑った。化け物の彼女に出来る限り優しく、綺麗に微笑もうと努力した。
そして静かに首を振る。もうこれ以上は受け取れないのだ。彼の手は取れない。
きっと貴方は後悔する。かつて彼女はそう言い放った。後悔することになるのは、誰でもない、彼女の方だったのに。
そして今の彼女は、彼に後悔などさせたくはないのだ。彼の優しさは、と彼女は思う。私などのために、使われるべきではない。
ツァハリーアスに背を向けて、少女は駆け出した。先行く人々の列に向かって走る。
「アーデルハイト?」
不思議そうなツァハリーアスの声と、オオカミの鳴き声が、彼女の背中を追いかけて来た。




