三話
「でも」、と声を発したのはアーデルハイトであった。「貴方に悪気はなかったのでしょう?」
そこに含まれる彼女の気遣いの気配を理解してもなお、ツァハリーアスは彼女の方に視線を向けられない。
「考えるべきだったんだ」。深く膝に爪を立てながら、ツァハリーアスは言う。「季節は夏だったんだから。少しでも考える頭があれば、気が付いたはずなんだ。屍体は……腐るんだってことに」
「そうね」。少女の声はいつだって美しい。
「屍体は腐るわ。だってそれはただの肉なんですもの。正しく生き、そして死んだ生命は肉体を離れ、それはただの肉の塊となる。生命を持たぬ肉塊は腐敗し、他の命を持つ肉塊に喰われるのが定めだわ。でも貴方はそんなこと、ちっとも想像しなかったんじゃない?」
アーデルハイトは、とツァハリーアスは想像する。きっと今、自分を真っ直ぐに見ているのだろう。彼女の青い瞳はきっと、きっと、腐らない。あの瞳は肉ではなく、冷たく無機質なガラスで出来ているのだから。
彼はそんな自分の妄想を嗤った。それではまるで、彼女がただの物のようではないか。今も昔も魂を持たぬ、単なる美術品のようだ。
「貴方が」、ツァハリーアスの思考など知らぬアーデルハイトは続ける。「貴方が『腐る』ことに気が付かなかったのは、貴方が貴方のご両親が死んだことを、正しく認識出来ていなかったからではないのかしら。頭では分かっていても、きっと正しく理解はしていなかったのよ。貴方はどこかで両親がまだ生きていると思っていた。だから腐るだなんて想像もしなかったのよ。生きているものは腐ったりしないものね」
つまり、と少女は続けた。
「貴方は悪くないわ。だって、貴方はわざと腐らせたわけじゃないもの」
「君は」、ツァハリーアスは力なく首を振った。その途端に、アーデルハイトの袖のレースが目に入り、苦い物が口に、胸に、込み上げた。「僕を過大評価しているよ」
「過大評価? そうかしら」。びりりと布を裂くような音がした。「私は貴方をちゃんと評価しているつもりよ」
そう言いながらアーデルハイトがツァハリーアスの前に座った。
反射的に目を逸らそうとしたツァハリーアスの頬を、少女の冷たい手が捕らえた。
「安心して。貴方が嫌いなレースは全部取ってしまったから」
「取ったって、君」
「私」、アーデルハイトが笑んだ。笑ったのだろう、おそらくは。
薄暗い中で、ツァハリーアスが見たのは、美しい弧を描く赤い唇。
「貴方の瞳の色が好きよ。緑色。生命の色だわ」
ひんやりとした冷たさが、アーデルハイトの手からツァハリーアスの頬へと染みる。彼女に命はあるのだろうか。ツァハリーアスに先刻の妄想が甦った。
「貴方が腐らせたのは、貴方の両親じゃないわ、伯爵。貴方の両親だった肉塊よ。だから、貴方が罪悪感を抱く必要なんて、ない」
「違う。それは違うよ、アーデルハイト。あれは、あの腐った肉は僕の両親だ。例え屍体になろうとも、ただの肉塊になろうとも、僕の両親であることに変わりは無い。死した後、その魂の抜けた屍体をも人間として扱うことこそが、人間が人間である証なんだ。仲間の屍体を放置する動物との決定的な違いなんだよ。そして僕は、僕は人間でありたかったんだ」
アーデルハイトの青い瞳が大きく見開かれた。その驚きの理由を尋ねようと、ツァハリーアスが口を開きかけたが、それは結局音になることはなかった。
それよりも早く、彼らの耳に大きな悲鳴が聞こえて来たからだ。
小部屋から隣のホールに飛び出した二人が見たのは、棺の前で凍り付く人々であった。アーデルハイトが顔を顰めた。
「血の臭いがする。それも死人の」
過去の記憶に捕らわれて一歩も動けぬツァハリーアスを置いて、アーデルハイトが棺に近づいた。
一度は彼女を追い払った参列者たちだが、今度は彼女の邪魔はしなかった。
カツカツと少女の足音だけが広いホールに響く。アーデルハイトは棺を覗き込み、そして振り返った。
視線の先にはツァハリーアス。
「伯爵」
少女の声は、冷たい氷のようだ。金色の髪が黒衣だらけの周囲から浮いている。
「牧師さんは告白したいそうよ。己の死因が理由も分からぬ頓死なのではなく、他殺だってことをね」




