二話
ツァハリーアスはその日、もう八年も前のことだ、息をせききってこの教会の階段を駆け上がった。
着ていたのは、今日と同じような黒衣。それは葬儀の色だ。
ホールに転がり込んだ彼を迎えたのは、参列者たちの責めるような冷たい視線であった。
だが彼には理由が分からない。彼は留学先のフランスから大急ぎで戻ってきたのだった。親しい友人にも、世話になった教師にも一言も言葉を残さずに、その時間すら惜しんで馬車に飛び乗って戻ってきたのだ。
それはひとえに彼の両親のため。そのために彼の一族が代々治める、彼には後悔の念の残るこの地に戻ってきたのだ。己の両親に最後の別れを言うために。
無理矢理に葬儀を十日も延期させて。
奇妙な冷たさの込められた視線の中を、ツァハリーアスは棺に歩み寄った。
無駄に豪華で煌びやかな棺。あの両親に相応しいと彼は思う。
二人は二人とも外見ばかりを気にする人間であった。外見さえ素晴らしければ、中身も素晴らしくなるのだと、信じているようだった。
そんなのは欺瞞でしかないのに、彼らには分からなかったのだ。
汗が玉となって彼の首筋を滑り、襟元に吸い取られていく。その湿った布の感触が、ただただ気持ち悪い。
彼は己の両親に別れを告げるために、そっと棺の中を覗き込んだ。
黒いビロードの貼られた棺の中に、彼の両親はそれぞれ静かに収まっていた。死因は事故だと聞いていたツァハリーアスは、安堵の息を漏らした。
彼ら二人が乗った馬車の馬が突如暴れ出し、側の崖から谷に転落したと知らされていたツァハリーアスは、恐れていたのだ。彼らの屍体がバラバラな、見るも無惨な有様になってはいないかと。
だがそれは彼の杞憂に終わったようであった。
二人とも生前と大して変わらぬ姿で、棺の中に収まっていた。彼らはあれほど外見を気にしていたのだから、綺麗なままで葬られた方が良いに決まっている。
ツァハリーアスは静かに母親の顔を見た。
よく似ていると言われた彼女の顔は、死してから日数が経過しても、大きく変わってはいなかった。母は息子の目から見ても美しい人であった。
そんな彼女に似ていると言われることは、ツァハリーアスに恥ずかしいような嬉しいような、奇妙な気分をもたらした。
だが母は決して彼に愛情を注いではくれなかったのだ。
それでも彼は、母の姿を遠くから見つめるだけで満足であった。彼にとって母親は敬愛すべき、そして彼が成長した後は軽蔑すべき、美しい人であった。
ツァハリーアスの胸中に、様々な思いが渦巻いた。
他の親子のように、もう少し親密な関係を結べたら良かったのに。そう彼は思う。
彼はずっと両親から距離を感じていた。けれども、それはもう埋めようがない。なにせ、彼の両親は死んでしまったのだから。
今更言っても仕方がないことだ。
ツァハリーアスは最後の別れを告げようとして、母親の瞳が薄く開かれたままなのに気が付いた。閉じてやろうと手を伸ばしかけ、そして彼は驚愕した。
母親の瞳の中で、何かが動いた。
長旅の肉体的な疲労と、両親を失ったことから来る精神的な衝撃のせいで、幻を見たのかとツァハリーアスは思った。
だが見直しても見直しても、まだそれは、いる。
棺に入れる時に糸くずでも入ったのだろうか。
そう納得しようと彼が思ったその瞬間、それは再度動いた。白い糸のような外観のそれは、生き物しか持ち得ぬしなやかさで、身を捩った。くねりくねり、と体を揺らす。
ゾッとした。だがそれは瞳だけではなかった。
よく見れば、母の白い頬にも、いる。額にも、顎にも。
ツァハリーアスの皮膚を怖気が走る。体の奥底から、嫌悪が全身に染み出した。一匹――そうだ、それは匹で数えられる「虫」であった――だけではない、数え切れないほど、いる。
更に一匹が、彼の母親の美しかった頬を食い破って、ツァハリーアスの前に姿を現した。
それは彼を嘲笑うかのように、白い身を嫌らしくくねらせながら頬を滑り落ち、黒のビロードの上に落ちた。
太く短い捻れたレース糸の如きそれは、頭をもたげて彼を見る。
黒の上に白。
その腹は、彼の母親の肉ではち切れんばかりであった。
ツァハリーアスの耳元を、黒い羽を持つ生き物が、音を立てて飛び始めた。




