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黒/白  作者: えむ
第六章
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32/48

二話


 ツァハリーアスはその日、もう八年も前のことだ、息をせききってこの教会の階段を駆け上がった。

 着ていたのは、今日と同じような黒衣。それは葬儀の色だ。


 ホールに転がり込んだ彼を迎えたのは、参列者たちの責めるような冷たい視線であった。

 だが彼には理由が分からない。彼は留学先のフランスから大急ぎで戻ってきたのだった。親しい友人にも、世話になった教師にも一言も言葉を残さずに、その時間すら惜しんで馬車に飛び乗って戻ってきたのだ。

 それはひとえに彼の両親のため。そのために彼の一族が代々治める、彼には後悔の念の残るこの地に戻ってきたのだ。己の両親に最後の別れを言うために。

 無理矢理に葬儀を十日も延期させて。


 奇妙な冷たさの込められた視線の中を、ツァハリーアスは棺に歩み寄った。

 無駄に豪華で煌びやかな棺。あの両親に相応しいと彼は思う。

 二人は二人とも外見ばかりを気にする人間であった。外見さえ素晴らしければ、中身も素晴らしくなるのだと、信じているようだった。

 そんなのは欺瞞でしかないのに、彼らには分からなかったのだ。


 汗が玉となって彼の首筋を滑り、襟元に吸い取られていく。その湿った布の感触が、ただただ気持ち悪い。

 彼は己の両親に別れを告げるために、そっと棺の中を覗き込んだ。

 黒いビロードの貼られた棺の中に、彼の両親はそれぞれ静かに収まっていた。死因は事故だと聞いていたツァハリーアスは、安堵の息を漏らした。

 彼ら二人が乗った馬車の馬が突如暴れ出し、側の崖から谷に転落したと知らされていたツァハリーアスは、恐れていたのだ。彼らの屍体がバラバラな、見るも無惨な有様になってはいないかと。


 だがそれは彼の杞憂に終わったようであった。

 二人とも生前と大して変わらぬ姿で、棺の中に収まっていた。彼らはあれほど外見を気にしていたのだから、綺麗なままで葬られた方が良いに決まっている。


 ツァハリーアスは静かに母親の顔を見た。

 よく似ていると言われた彼女の顔は、死してから日数が経過しても、大きく変わってはいなかった。母は息子の目から見ても美しい人であった。

 そんな彼女に似ていると言われることは、ツァハリーアスに恥ずかしいような嬉しいような、奇妙な気分をもたらした。

 だが母は決して彼に愛情を注いではくれなかったのだ。

 それでも彼は、母の姿を遠くから見つめるだけで満足であった。彼にとって母親は敬愛すべき、そして彼が成長した後は軽蔑すべき、美しい人であった。


 ツァハリーアスの胸中に、様々な思いが渦巻いた。

 他の親子のように、もう少し親密な関係を結べたら良かったのに。そう彼は思う。

 彼はずっと両親から距離を感じていた。けれども、それはもう埋めようがない。なにせ、彼の両親は死んでしまったのだから。


 今更言っても仕方がないことだ。

 ツァハリーアスは最後の別れを告げようとして、母親の瞳が薄く開かれたままなのに気が付いた。閉じてやろうと手を伸ばしかけ、そして彼は驚愕した。


 母親の瞳の中で、何かが動いた。

 長旅の肉体的な疲労と、両親を失ったことから来る精神的な衝撃のせいで、幻を見たのかとツァハリーアスは思った。

 だが見直しても見直しても、まだそれは、いる。


 棺に入れる時に糸くずでも入ったのだろうか。

 そう納得しようと彼が思ったその瞬間、それは再度動いた。白い糸のような外観のそれは、生き物しか持ち得ぬしなやかさで、身を捩った。くねりくねり、と体を揺らす。

 ゾッとした。だがそれは瞳だけではなかった。

 よく見れば、母の白い頬にも、いる。額にも、顎にも。


 ツァハリーアスの皮膚を怖気が走る。体の奥底から、嫌悪が全身に染み出した。一匹――そうだ、それは匹で数えられる「虫」であった――だけではない、数え切れないほど、いる。


 更に一匹が、彼の母親の美しかった頬を食い破って、ツァハリーアスの前に姿を現した。

 それは彼を嘲笑うかのように、白い身を嫌らしくくねらせながら頬を滑り落ち、黒のビロードの上に落ちた。

 太く短い捻れたレース糸の如きそれは、頭をもたげて彼を見る。

 黒の上に白。

 その腹は、彼の母親の肉ではち切れんばかりであった。

 ツァハリーアスの耳元を、黒い羽を持つ生き物が、音を立てて飛び始めた。


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