五話
見上げても、夜空には月は見えなかった。
セラピオンはカンテラの明かりだけを頼りに、夜道を進む。彼を導くように降り注いでいた月光は、ない。
漆黒の空は変わらないと分かってはいても、セラピオンは足を止めては何度も何度も空を見た。
月のない晩は不安だ。そう思う己の気持ちを彼は嗤う。そんなものは気の持ち方次第だ。
彼を導いているのは神の御手であり、月などではないのだから。
それにあと数時間もすれば太陽が地平線から顔を出し、全ての闇は払われる。太陽は、偉大な生そのものだ。
彼は辿り着いたペスト患者のための墓穴の前で、辺りを窺った。闇夜に浮かび上がる悪魔の白は見えない。ほっと息を吐く。
それが失望のためなのか、安堵のためなのかは、セラピオン本人にも分からなかったが。
慎重に穴の縁に膝を突いた。間違って転落しては堪らない。
覗き込むが、当然のごとく死者の姿は見えない。伯爵の命により、屍体の上に掛ける土の厚さまで細かく規定されているのだ。セラピオンの目に映るのは、ただの穴だけ。
だがその下には数多の死者が埋められている。彼の顔が悲しみに歪んだ。深く頭を垂れる。
その姿は、昨夜のアーデルハイトとよく似ていた。それに気が付いたセラピオンは嫌悪に顔を顰め、立ち上がった。
カンテラを掲げ、辺りに白を探す。彼がこの場所に再びやって来たのは、あの白衣の女に会う為なのだから。
あの娘が伯爵の邸に住まっている以上、街では手出しなど出来ない。それは彼女の保護者を気取る伯爵が許さないだろう。
だが、この場所ならば彼には何も出来ない。相手は恐ろしい女ではあるが、見た目はただの小娘だ。男である自分に腕力で敵うはずもない。それがセラピオンの考えであった。
だが彼の当ては外れた。奇妙な美しさを持つ小さな娘が現れる気配は、これっぽっちもない。
闇夜の下には、ただただ静寂だけが満ちる。昨日はあんなにも遠く近くから聞こえていたオオカミの声も、今はない。
かさり、と落ち葉を踏む音が後ろから聞こえた気がして、セラピオンは慌てて振り返った。カンテラがその姿を照らすのと同時に、彼が感じたのは胸への強い衝撃。
セラピオンが最期に見たのは、カンテラの暖かな光に輝く、金の髪であった。




