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黒/白  作者: えむ
第五章
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三話


「それで、夜中に邸を抜け出して、遙々お墓参りに行っていたんだって?」


 ツァハリーアスのどこか冷たい微笑みに、アーデルハイトは言葉に詰まった。

 無言の時間が暫く続いたが、先に根負けしたのはアーデルハイトだった。


「お医者様から聞いたのね」

「違うよ。彼じゃなくてマリーアだ。でも彼女を責めるのはお門違いだよ、アーデルハイト」

「分かっているわ」


 「そうかい。それで」、トントンとツァハリーアスが机を叩いた。「どうしてそんな危険な場所に行ったんだい。街を抜け出すのは一苦労だったろうに。理由を教えて欲しいな」


 アーデルハイトは目の前のツァハリーアスをじっと見た。立つ彼女に対して、彼は座っている。

 こうして見下ろしてみれば、とアーデルハイトは思った。彼が痩せたのが良く分かる。

 顔色だって決して良くない。忙しいのは知っている。それなのに、要らない心配を掛けてしまった。


「ごめんなさい。私は化け物だから感染しないわ。それにお医者様が予防薬を焚いてくださったから、きっと他の人も感染しないと思う」

 「化け物って、まだそんなことを言っているのかい。君は化け物なんかじゃないよ」。それに、とツァハリーアスは続けた。「どうして、と訊いただろう? 僕が聞きたいのは言い訳でも謝罪でもなくて、理由なんだよ。どうしてそんな危険なことをしようと思ったのかが聞きたいんだ」


 「それは私が」、アーデルハイトが瞳を伏せた。金色の睫毛が淡く輝く。「私が人間ではないから」

「意味が分からないよ、アーデルハイト。何度も言うけれど、君は化け物なんかじゃない」


 いいえ、と少女は首を振った。

「いいえ、私は化け物なのよ。その事実は決して変えられはしないわ。貴方は私にとても優しいけれど、でもそれは貴方が私の『本当』を知らないからよ。言ったでしょう。きっと後悔するって。でも貴方が私を嫌う日が来ても、私は貴方を責めないわ。だってそれは仕方がないことだもの」


 「全く」。ツァハリーアスは盛大に溜め息を吐いた。「君は頑迷だね。僕には君が人間以外の何者にも見えないけれどね。でもヴィクターも自分が人間だと言い切れるか自信がないと言っていたっけ。うん、確かに僕も僕自身が人間だと証明出来ないよ。そもそも人間の定義って、何だろうね」

「伯爵は人間だわ」


 「だから」、ツァハリーアスは笑った。今度は嫌みではなく、心から。「そう言い切れる根拠はどこにあるんだい?」

 「それは、だって」。問われたアーデルハイトは口ごもった。

 「ほらね、言えない」。ツァハリーアスは上機嫌だ。


「君が僕を人間だと断定出来ないように、僕も君を人間じゃないとは断定出来ないよ。僕は僕が人間だと信じているし、君も人間だと信じているよ」

「貴方と私は違うのよ」

 拗ねたようにそっぽを向きながら、それでも自説を曲げないアーデルハイトに、ツァハリーアスはやれやれと肩を竦めた。彼の手が優しく少女の髪を撫でる。


「本当に君は困った子だねぇ」

 アーデルハイトは瞳を閉じた。伝わってくるのは柔らかな体温。手の平の感触。

 それは彼女が最も欲するものであった。誰かに肯定されたい。化け物と知ってもなお、否定しないで受け入れて欲しい。それがアーデルハイトの唯一の願い。

 けれども少女は知っていた。そんなものは望むだけ無駄なのだと。決して叶うことはないのだから。


 「分かっているとは思うけれど」。ポンポンとアーデルハイトの頭を軽く叩きながら、ツァハリーアスが言った。「もう二度と墓穴になんて近づかないんだよ。僕は君に、いや誰にだって、感染して欲しくはない。それと、君が抜け出した経路も後で詳しく聞かせて貰おうかな」


「分かったわ。もう近づかない。どうやって壁と堀を越えたかも教える。だから、あの荒れ地ではオオカミに気をつけるように言ってくださらない? 私が昨日出かけたせいで、きっとまたオオカミが出没するようになるわ」

「オオカミねぇ。ここ一ヶ月以上も目撃情報すらないけれど、それで君の気が済むなら警告しておくよ」

「ごめんなさい、今とても大変なのに仕事を増やして。病気が流行しているせいで、とても忙しいのでしょう」


 「忙しい、か」。ツァハリーアスの表情に僅かに影が落ちた。「確かに感染者の数は増えるばかりだけれど、もう打てる手はあまりないんだ。全く、限界ばかりが見えて、嫌になる」

「でも貴方は貴方なりに、頑張っているのでしょうに」


 「そんなもの」。ツァハリーアスがせせら笑う。それは目の前の少女にではなく、己に向けられた嘲りだ。

「頑張っても成果が出なければ、意味は無いさ。僕はこの地の領主なのに、ちっとも領民を守れやしない。無能だと罵られるのも仕方がないね。僕はこの街の住民たちを守り、導くために生まれたのに。そのためだけに存在しているってのに、このザマだ」


 机の上に積み上がった死亡診断書が、蝋燭にその表面のインクを光らせた。その黒さが、書類の真新しさを語る。

 乱暴に叩かれた机の振動で、一部が崩れて床に落ちた。


 アーデルハイトがそれに手を伸ばした。屈んだ拍子に、彼が作らせた臙脂のドレスを、金髪が流れた。

 実に良く映えるとツァハリーアスは思う。彼が思い出すのは、初めて出会った日の光景。月光の下の彼女は、真っ白であった。

 銀糸のような髪、陶器の如き肌、白いドレス。彼を見つめる瞳だけが灰色で。


 ツァハリーアスに、あの刹那に込み上げた感情が甦った。それは、恐怖と呼ばれるものだ。

 セラピオンは言った。白衣の女は死を告げるのだ、と。その白い白い指が死亡診断書を一枚ずつ拾い上げていく。その枚数分だけ、人が死んだのだ。


 アーデルハイトが彼を見上げた。底抜けに青い、空っぽな瞳。

 その色がツァハリーアスを我に返した。一瞬でも妙な想像に捕らわれたことが、彼には許せない。

 彼女は人間だ。死神でもなければ、吸血鬼でもない。身元すら分からぬ哀れな、守ってやるべき存在だ。

 弱い者を庇護し、導くことこそが領主の仕事だと言うのに、とツァハリーアスは己に強い嫌悪感を抱いた。本当に失格だ。


 はい、とやっと拾い終わった死亡診断書を揃えて、アーデルハイトがツァハリーアスに差し出した。

 ありがとうと言いながら受け取った彼は、触れた彼女の手の冷たさに驚愕する。


 それは生きた人間ではなく、屍体だけが持ち得る冷たさであった。ぞっとした。振り払ったばかりの恐怖が、再度その姿を誇示していた。

 彼女の白すぎる皮膚もまた、屍体そのものだ。

 思わず凝視すれば、白い屍体の肌は突如、波打ち始めた。不均等に収縮する皮膚は、すぐに深い皺と化す。後から後から押し寄せれば、皺は数と深さを増していく。

 生まれた谷間からは、より白く細いレース糸のような物が現れた。ほつれたようなそれは、顔を出すとともに、身を捩り。



「伯爵?」

 澄んだ少女の声が、ツァハリーアスの幻を打ち砕いた。

 顔を上げれば、そこには不思議そうに見つめてくる青い瞳が。彼の視界に映る彼女の皮膚は、子供独特の張りのあるものだ。当然、皺など一つもない。


 はっ、と思わずツァハリーアスは短い息を漏らした。それは、安堵の音をしていた。

 今見たのは何だったのか、と彼は考える。蠢く白い、それ以上を思い出そうとすれば、胃の底から重く不快な吐き気が込み上げて来た。


「顔色が悪いわ」

 白すぎる少女の手が、ツァハリーアスの額に触れた。

 ツァハリーアスは先ほどの恐怖の再現を恐れたが、ひんやりとした少女の手は、今度は恐ろしい幻ではなく、心地よさを彼に与えた。


 こんな風に、とツァハリーアスは思わず考えていた。こんな風に他人に最後に触れられたのは、果たしていつだっただろう。

 子供の頃に寝込んでも、母親は看病などしてはくれなかった。額に手を当てて体温を測るだなんて、絶対にしない。

 友人の見舞いに行った時に、熱を診る為に彼の母親が友人の額に触れている姿を初めて見たのは、覚えているのだが。あの瞬間に込み上げた、強烈な羨ましさの感情をも思い出し、ツァハリーアスはひっそりと微笑んだ。


「駄目ね。お医者様の真似をしてみたけれど、私は人間の体温の平常値すら知らないのだったわ。だから貴方の体温が正常なのか異常なのか、分かるはずもないわね」

 ねぇ、具合が悪いのならお医者様に診てもらいなさいな。

 そう心配そうに話しかけてくる少女を、ツァハリーアスは見上げた。

 彼女は己を吸血鬼だと信じる哀れな存在なのだ。それは彼が守ってやるべき存在だ。それなのに、彼は彼女に恐怖と嫌悪を抱いたのだ。

 例え一瞬であろうとも、それは酷い裏切りだ。


 「ごめんね」。一度は恐れたその手を撫でながら、ツァハリーアスは謝った。

「こんなにも近くにいる君にすら、僕は何も出来ていない」

 彼女の身元を見つけ出すどころか、彼女が抱く強迫観念じみた自己否定すら解いてやれないのだから。こんな小さな少女一人すら救えずに、一体誰を助けられると言うのか。


「謝られる意味が分からないわ。貴方は私への義務なんてないでしょう? だって私は人間じゃないもの」

 「いや」、ツァハリーアスは首を振った。「僕はこの地に住む人間に責任がある。これは前にも言ったね。でも実は家畜にすら義務があるんだよ。僕の領地で生活する者は全て、僕の責任下にある」

「それでも、よ。だって私、ずっと森で暮らしていたんだもの。貴方に責任があるのはこの街だけでしょう」

「森もまた僕の領地だよ」


 「貴方って本当に」、呆れの色も明らかにアーデルハイトが溜め息を吐いた。「どうしてそこまで頑張るのかしら」

「それも前に言った。僕は良い人でありたいんだ。良い領主でありたいんだ。それが僕の生きている理由だからね」


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