三話
マリーアは大きく溜め息を吐いた。
「お嬢様は今日もあまりお召し上がりになられませんでしたね。こんな子供以下の食事量で、よくもまぁ生きていられるものです。私、心配ですわ」
話しかけられたアーデルハイトは、僅かに肩を竦めた。
「心配なんてしてくれなくて良いのよ。私、あんまりたくさんは食べられないの」
「謝るならば私にではなくて、伯爵様になさいませ」
彼女の健康状態を窺うようにアーデルハイトの顔を覗き込んでいたマリーアは、もう一度小さな息を吐くと、櫛を手に取った。アーデルハイトの見事な髪を梳いていく。
「ねぇ」、と口を開いたのはアーデルハイト。「貴女は私なんかの世話をするのは嫌ではないの?」
「勘違いなさらないでくださいね」。言いながらマリーアは彼女に寝間着を着せてやり、後ろの大きなリボンを結ぶ。「私がお仕えしているのは伯爵様なのですよ。伯爵様は素晴らしいお方ですし、私もお慕い申し上げておりますわ。その伯爵様から命じられたからこそ、あなたのお世話をさせていただいているのです。不満などあるはずもございません」
「そうなの。伯爵は人気者なのね。得体の知れない私なんかにも良くしてくださるのだもの、貴女たちにはより親切なのでしょう」
「けれど」、とマリーアは表情を曇らせた。「伯爵様のことを悪く言う人もいるんですよ」
アーデルハイトは驚いたように、マリーアを振り返った。その大きな瞳がさらに大きく開かれている。
「どうして?」
「それは十五年前のせいです。当時、この街にペストが酷い流行を見せておりました。その頃の伯爵様、今の伯爵様であるツァハリーアス様の父君ですけれど、は街を守る責任がおありなのに、奥様と身の回りの世話をする使用人だけをつれて、真っ先に逃げ出したのですわ」
マリーアは唇を噛んだ。彼女の家族もまたペストに倒れたのだ。
足りない食料、横行する略奪。まだ幼かった彼女はただただ怯え、家の奥で母が父が妹が弟が死んでいくのを見守ることしか出来なかった。
もしも為政者が有能であったなら、いや、少なくとも職務を放棄さえしなければ、彼女の家族はもう少し人間的な死を迎えられたかもしれないのに。
「ツァハリーアス様はご両親の行為を非難したとの噂もございますが、本当のところは私などには分かりません」
「そうだったの」
アーデルハイトが俯けば、鮮やかな金髪が肩から胸へと流れた。
白い手がマリーアの肩の近くに伸ばされ、そしてそのまま引っ込められてしまった。マリーアは笑む。この人形の如き少女は慰めようとしてくれているのだ。けれどもその方法が分からなくて、困惑している。
「もう昔の話です」
「昔の話だとしても」、アーデルハイトはマリーアを真っ直ぐに見た。「忘れられない人がいるのでしょう? だから伯爵が今も責められる。当時の伯爵は彼の父親であって、その責任は父親が引き受けるべきなのに」
「その通りですわね、お嬢様。けれども、一市民から見れば伯爵様なんて雲の上の方ですもの。代替わりしようがしなかろうが、伯爵は伯爵という一つの人格なのです。私のように邸で働けば、その誤解も解けるのでしょうけれど」
「貴女も伯爵のことを憎んでいたの?」
アーデルハイトのストレートな問いに、マリーアは素直に頷いた。
昔の話ですけれど、と言う彼女は酷く寂しそうだとアーデルハイトは思う。自分に人間の感情の機微などが読み取れるとも思えなかったが。
「楽なのですよ、他人のせいにするのは。どうしようもなく弱いのです、人間は。今だってまた妙な噂が流行っておりますしね」
「妙な噂?」
「ええ。お嬢様はご存じでしょうか、最近自殺した娘がいることを。自殺の原因は、結婚を反対されたからだそうです。彼女は慣例に則って、街と森の狭間の荒れ地に埋葬されましたが、その後、彼女とその恋人の縁者が次々と謎の病気で死んでいるのですって。それは死してなお恨みの癒えぬ娘が吸血鬼となって復讐しているに違いない、と。まぁそんな噂なのです」
「吸血鬼」。アーデルハイトはすうっと瞳を細めた。「貴女は吸血鬼を信じる?」
「そうおっしゃるお嬢様は、吸血鬼をご覧になったことがおありですか」
質問を質問で返されたアーデルハイトは、特に気を悪くした様子もなく、首を傾げた。
暫くの逡巡の後、首を振った。マリーアは「私もです」と笑う。
「私は馬鹿ですから、この目で見たことしか信じられません。そして私は吸血鬼なんて見たことがないんです。だから、信じません」
もうこんな暗い話は終わりにしましょう。そう一方的に宣言したマリーアは、テーブルの上に置きっぱなしになっていた箱を開いた。
中から顔を出すのは、色とりどりの布地。それはロムアルドが仕立てる予定になっている、アーデルハイトのドレスのための布見本だ。
「ほら、これなんてとてもお似合いになるのでは。あらでも、こっちも綺麗ですね」
濃い赤色の布を取り出したマリーアは、アーデルハイトの肩にそれを掛けた。次には淡い青の布を。
「どれもこれも素敵ですね。素敵と言えば」、とマリーアは意味ありげにアーデルハイトにウインクをした。「あのロムアルドって名前の仕立屋さんも素敵ですよね」
はしゃぐマリーアを、アーデルハイトは羨ましいと感じた。
その眩しさにアーデルハイトは彼女を直視出来ない。彼女は生きているのだわ、とアーデルハイトは思う。私と違って、彼女は生きている。こんなに元気で明るくて、過去に捕らわれずに明日を、未来を見ている。
それはとてもとても美しくて、そして、美味しそう、だ。
……美味しそう? アーデルハイトは、己の胸にわき上がった感情に動揺する。
そんな彼女の内情など知らぬマリーアは、変わらず楽しげにいくつもの布地を引き出しては笑っていた。
もう遅いから失礼します。マリーアがそう言って立ち去ったのがいつだったのか、アーデルハイトは知らない。
彼女の去って行った扉を見ながら、無意識のうちにアーデルハイトは己とマリーアを比較していた。
最大の差異は、とアーデルハイトは考える。太陽への恐怖心だ。太陽が怖い。こんな生き物は他にいるのだろうか。全ての生物は、日光の恵みの下で生活しているのではないのか。
アーデルハイトは厳重に閉ざしたカーテンに手を掛ける。
彼女とて分かってはいるのだ、今は夜だから太陽は存在しないと。それでも外を覗くのは恐怖だ。もしも日光が差し込んだら。
そう想像するだけで、足が震える。
恐怖を押し殺して、アーデルハイトはカーテンを開けた。
部屋に侵入するのは月の光。ほっと息を吐くのと引き替えに、その真っ白な光がアーデルハイトに入り込んだ。何かを、何かを思い出せそうだ。そうアーデルハイトは感じる。
それは記憶だ。白と、黒の。月を背景に浮かび上がるのは。
彼女の思考を嘲笑うように、ばさり、と黒い何かが窓のすぐ向こう側に落ちてきた。いや、着地したと言うべきか。
アーデルハイトの注意が己の内部から、目の前の現実に引き戻される。彼女の前にいたのは、カラスであった。
その羽の一部には白い筋が。だがカラスが羽を閉じれば、真っ白な筋は丸みを帯びたブチと化した。
白いブチのあるカラス。いつか伯爵が言っていた白いカラスとは彼、もしくは彼女、のことだったのだとアーデルハイトは知った。
確かに目の前のカラスは、一部に白い羽根を持っていた。いや、これは果たしてカラスなのだろうか。確かに大きさも姿もカラスと同じだが、けれどもカラスとは全身真っ黒な鳥のはずだ。
もっと良く見てみたいとアーデルハイトが窓を開けても、黒に白の鳥は微動だにしなかった。いや、出来なかったのかもしれない。
窓を開けたアーデルハイトは直ぐに顔を顰めた。彼女が嗅ぎ取ったのは、血の匂い。この鳥の血だ。目を凝らせば、その体にはいくつもの傷があった。そのどれもが嘴で突かれたように、小さく深い傷口を見せている。
「貴方を傷つけたのは仲間のカラスなの? もっとも、貴方自身がカラスなのかどうか、私には分からないけれど」
アーデルハイトの問いには当然、答えはない。
「やっぱり」、とアーデルハイトは小さく呟いた。「他と違う存在は受け入れられないのかしらね。貴方が白いのは、貴方のせいではないのでしょうけれど」
白いカラスらしき鳥は、ただ静かに黒い眼でアーデルハイトを見上げていた。




