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黒/白  作者: えむ
第三章
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四話


 鳥の羽音が聞こえた気がして、ツァハリーアスは手元の本から視線を上げた。

 窓の外を覗いても、そこにはただただ庭が広がるばかりで、鳥の気配はどこにもない。単なる気のせいだったのか、それとももう鳥は飛び立ってしまったのか。


 窓辺に立ち尽くせば、冷気が足下をくすぐった。夏はすっかり終わったのだな、とツァハリーアスは思う。

 あの不思議な娘を拾ってから、一ヶ月以上が経ったのだ。季節は夏の終わりから、秋、そして冬へと移り変わろうとしている。


「伯爵様」

 ツァハリーアスが振り返れば、燭台を掲げた女中と、その後ろでロムアルドが深く一礼をしていた。その手には大きな紙箱。

「おや、ロムアルド君。また新しいドレスが出来上がったのかい。なかなか仕事が早いね」


 ツァハリーアスの言葉に、ロムアルドは盛大な照れ笑いを浮かべた。その若々しい、とは言えツァハリーアスと比べてそう若いわけでもないのだろうが、姿にツァハリーアスは素直に好意を抱いた。

「前に納品してもらったドレス、アーデルハイトはとても気に入ったみたいだよ。彼女の白い肌や金色の髪に、あの臙脂色はよく似合うね」


「お褒めいただき光栄です。けれども、あの色を勧めてくれたのは、ここの女中のマリーアさんですよ。こちらのドレスも細かい調整をしたいので是非一度、お嬢様本人に着てみていただきたいのですが」。と、ここでロムアルドは小さく溜め息を吐いてみせた。「とは言え、夕日が地平線で未だに頑張っていますから、お会い出来ませんよね」

 女中が慣れた手つきで部屋の燭台に蝋燭を灯して回る。夜はすぐそこだ。


「君に時間があって、かつ、彼女が起きるのを待つと言うのなら、止める理由はないかな」

「ありがとうございます。実は、お嬢様が起きてこられるまでに、伯爵様に一つお話がございます」


 ほんの僅かに下がったロムアルドの声のトーンに、ツァハリーアスは先に椅子を勧めた。礼を言ってから座ったロムアルドは、「良いお話ではないのですが」と話を始めた。

「以前にお預かりしたお嬢様のオーバードレスですが、あれはとても古い、そう少なくとも百年は前の物だとのことです。それ故に、現在の流行とは大きく違いますから、布地としての価値は、残念ながら」


「そうかい。あんなに見事な刺繍なのに」

「えぇ。刺繍は確かに見事ですが、もはやあのような重たい刺繍は流行しないのです。刺繍に使われている銀糸と、ドレスに縫い付けられていた真珠もかつては高価な物だったのでしょうが、若干の痛みが致命的でして」

「それは、うん、確かに残念だな」


 ツァハリーアスは机に置いたままの本の背表紙を、何気なく見た。皮の表紙に綴られたタイトルは金。月光の下で見たアーデルハイトの刺繍は銀色であった。

 あんなに美しい物なのに、少しの痛みのせいでその価値を失ってしまうとは。それはツァハリーアスには理不尽なように思えた。

 あの刺繍も真珠のきらめきも、とてもとても優美で実にアーデルハイトに似合っていたのに。


 「貴方はきっと後悔する」。あの夜、まだ名無しであった少女の発言が、ツァハリーアスの脳裏に甦った。

 真っ直ぐに見上げてくる少女の、魅惑的で恐ろしい灰色の瞳。白いドレス。真珠。刺繍。けれども、それはほんの少しだけほつれていた。布の端から垂れる細く白い糸が風に微かに揺れる様は、まるで。


「伯爵様?」

 不思議そうなロムアルドの声で、ツァハリーアスは己が考え事に没頭していたことを知った。どうかなさいましたか、と問うてくるロムアルドに首を振って、いやなんでもないと答える。

 そう、なんでもないのだ。白く細く、のたうつ糸なんて、なんでもない。


 「ただ」、とツァハリーアスは普段通りの声を出そうと努力した。「あのドレスに価値がないと知ったら、アーデルハイトは『ドレスに換金価値がないのなら、出て行く』とでも言い出しそうだなぁ。だから、君」。

 ツァハリーアスに話を振られたロムアルドは、姿勢を正した。「彼女には何も言わないでくれよ。彼女の身寄りなり何なりが分かるまでは、この邸にいてもらわなくちゃ、僕が安心出来ないからね。そうそう、あのドレスはアーデルハイトの身寄りを教えてはくれなかったのかい?」


「今はまだ何とも申せません。どこにも家紋などは入っておりませんでしたから。けれど、あの布地と刺繍はとても凝ったものでございます。おそらくは量産されてはおりませんでしょう。ですからあのドレスを仕立てたのがどこの誰であったのかが分かれば、依頼主、ひいてはお嬢様の身元も分かるかと」

「それは是非期待したいね。まぁ、特に急いではいないから、のんびりやってくれれば良いよ」

「伯爵様のご期待に沿えるように、頑張らせていただきます」


 「さて、と」。ツァハリーアスは椅子から立ち上がって、外を覗いた。「そろそろアーデルハイトも目を覚ました頃かな。誰か」、アーデルハイトをと続けようとしたツァハリーアスの言葉は結局音にならなかった。

 部屋の外、玄関の方から何やら騒がしい人の声が届いたからだ。それはまるで、使用人と誰かが押し問答を繰り広げているような。


 どうしたものかとツァハリーアスが悩んでいる間に、声は移動を始めた。近づいて来る。

 ついに部屋の前まで到達した使用人と誰かは、けんか腰の声の勢いのまま、部屋へと侵入してきた。

 棒立ちになったままのツァハリーアスを見つけた、背の高い方が嬉しそうに笑った。そして勝利を確信したかのように、叫ぶ。


「ツァハリーアス! お前のこの石頭な使用人に説明してやってくれ。俺が、この家の伯爵様に雇われた医者だってな」




「ヴィクター、君は本当に相変わらずと言うか、元気そうで良かったと言うか、何と言うか、うん、とりあえずお久しぶりと言おうかな」

「ツァハリーアス、お前の性格も相変わらずのようだな。俺は客だぞ。客に無礼を働いた使用人に対する処罰があれで良いのか」

「それは僕の手紙を持って来なかった君も悪いよ。ちゃんと手紙に書いてあっただろう。持ってくればすぐに通すって」

「悪いな、忘れた」


「それに僕は、まさか君が来るとは思っていなかったんだよ。僕が頼んだのは、医者の紹介だったのに、まさか君本人が来るとはね」

「なんだ。せっかく遠路はるばる海まで越えて、悪路に尻を痛めながらもこんな田舎にまで来てやったと言うのに」


「ねぇ、さっきからうるさいのだけれど」

 男二人のむさ苦しい会話に割って入ったのは、涼やかな声であった。

 部屋の入り口で腕を組んでいるのはアーデルハイトだ。その眉の角度が、彼女の不機嫌さを雄弁に物語っている。


「言い争う声で起こされるなんて、なかなかに素敵な寝覚めをありがとう」

「これはアーデルハイト、おはよう。起こしに行こうかと思っていたところだったんだよ。君もコーヒー飲むかい? あぁ、君はホットチョコレート派だったね」


 アーデルハイトの不機嫌には気が付かぬ振りをして、ツァハリーアスが微笑めば、アーデルハイトは「まぁ良いわ。ここは貴方のお家なのだし」と諦めたように吐息を漏らした。

「ほぉ、これが噂のお嬢様か。いやいや、予想外の美少女だな」


 ツァハリーアスの脇からアーデルハイトを覗き込んだのは、大柄な男。

 初めて見る彼の顔をアーデルハイトはただ見上げた。挨拶をするべきかしら、それとも先にさっきの無礼な発言を謝るべきなのかしら。そう彼女がツァハリーアスに問う前に、大男は実に豪快に笑んだ。


「吸血鬼だと言うから、血の吸い過ぎで浮腫んだ小男のような醜女を想像していたよ。こちらの仕立屋くんと良い、お前のところは美男美女ばかりだな」

 彼の大きな手で力強く肩を叩かれたアーデルハイトは、衝撃と驚きに目を丸くした。

「これはまた綺麗な瞳だなぁ。このまま零れてころころ転がってしまいそうだ」


 「ドクター」、咎めたのはロムアルド。「若い女性にその態度は少し、乱暴すぎるのではありませんか」

「あぁ、悪い悪い。こんなだから出世出来ないんだろうな。悪かったね、お嬢さん。俺はヴィクター。ヴィクター・カルロス・ハンター。こう見えても医者なんだ。どうぞお見知りおきを」


 大きな手で強引に握手をさせられたアーデルハイトのまん丸な瞳を見たツァハリーアスは、思わず笑った。

 初めて会う人間の多くを沈黙させる少女の圧倒的な異質感も、このヴィクターの前では効力を失うらしい。吸血鬼なんてのは、と彼は再度考えた。やはりただのお伽噺なのだ。

 少女に椅子を勧めてやりながら、ツァハリーアスは口を開いた。


「さっきロムアルドくんには説明したけれど、このヴィクターとは大学の同級生なんだよ。僕は昔フランスの大学に留学していてね、そのとき知り合ったんだ」

「大学で?」

 アーデルハイトが首を傾げて細い指を顎に沿えた。左に傾いだ首の角度の優美さに加えて、流れる金色の髪の見事さ、そしてその細く頼りなげな指の形。

 全てが見る者の心を捕らえずにはいない。実に絵になる姿だと、ツァハリーアスは心の底から思った。

 今度、腕の良い画家でも雇って絵にさせようか。それだけの価値はある美しさだ。


「なら伯爵もお医者様になりたかったの?」

 「あぁ、違う違う」。否定したのはヴィクターだった。彼の無骨な声が、ツァハリーアスを物思いから引き戻す。「ツァハリーアスとは同じ大学で、更に住んでた場所が近くだっただけで、学部やら学んでいたことやらは全然違うんだ」


「そうなの。でも外国での大学生活だなんて、楽しそうね」

 「うん、とても楽しかった」。今度はツァハリーアスが答えた。「当時は、この生活をずっと続けられれば良いなと、そう思っていたよ。爵位なんて忘れてね」

 その顔に影が落ちるのを、アーデルハイトは見た。それが何を意味しているのかまでは、彼女には分からなかったが。


「俺はびっくりしたね。将来の伯爵様が近くに住んでるなんてさ。どんないけ好かない野郎だろうと思って話してみたら、これが普通で拍子抜けしたっけ。あの頃は俺も若かったなぁ」

 「若かった、か」。ツァハリーアスは苦笑を浮かべながら、コーヒーカップを持ち上げた。「振り返る過去が存在する程度には、僕たちも歳を取ったんだね。ところでヴィクター結婚したって聞いたけど、奥さんを置いてこんな遠くまで来て良かったのかい?」

「止めてくれ。こんな異国の地でまでそんな話は聞きたくない」


 ヴィクターの大きな顔が、盛大に歪んだ。

「ツァハリーアス、良いことを教えてやろう。結婚は人生の修行場だとの牧師の説教は正しい。俺はてっきり出世への階段を手に入れたと思っていたけれど、それは単なる勘違いでしかなかったよ。だいたいあの島国と来たら、満足に屍体解剖も出来やしない。どうしてあんな場所に帰ってしまったんだろうか」


 「あらあら」、アーデルハイトは他人事だとの態度も露わに相づちを打った。彼女の手元には、ようやっと届いたホットチョコレートが。「お医者様も色々と大変なのね」

「お嬢様も独身の間に精一杯若さを謳歌すると良い。人生の先輩からの進言だ。あぁ、そう言えばツァハリーアス、お前もまだ独身だったな。早く結婚しろ。そして同じ苦しみを味わえ」


「本当に君は変わっていないね。君は昔から他人の不幸を喜ぶ男だったよ」

 「当たり前だろう。他人の不幸は蜜の味に決まっている。とは言え、今は俺の腰が一番の不幸だ。悪路を馬車で長時間はやはり辛いな。あの振動が健康に良いだなんて話もあるが、実に疑わしいね」。だから、とヴィクターはコーヒーを飲み干してから続けた。「こちらのお嬢さんの診察は、明日にさせてくれ。夕食と寝床をごちそうにならないと、もうどうにもならないくらいに、体がへばっているんだ」


「診察って、私を?」

 実に不思議そうにアーデルハイトはヴィクターを見た。それからツァハリーアスを。

 ツァハリーアスは気まずさを感じながらも、アーデルハイトに説明するために口を開いた。

「君は太陽が怖いだろう。それは体質の問題ではなくて、治せる病気なのではないかと僕は思ったんだ。だから医者に診てもらおうと思ってね。けれどもこの近辺の医者は、君のことを嫌うセラピオン氏の息が掛かっている。だから、遠くの医者が良いと思ったんだ。それで友人であるヴィクターに、良い医者を紹介して貰おうと手紙を書いたら、何故だかその本人が来たんだよ」


「その言い方だと、俺が来たのは迷惑だったみたいじゃないか。動いている吸血鬼を診察出来る機会なんて、そうそうないんだぞ。地中の棺桶に横たわり、微動だにしないのが殆どなんだから」

 かたん、とアーデルハイトのカップがソーサーに当たって、硬い音を立てた。

 「なるほど、私の診察は伯爵様のご要望なのね。ならば受けましょう。私は伯爵のお世話になっている身なのだし」。けれど、とアーデルハイトの青い瞳がツァハリーアスを見る。「きっと無駄よ。それで貴方やお医者様ががっかりしないと良いのだけれど」


「おいおい、まだやってもいないってのに決めつけないでくれよ」

 ヴィクターはアーデルハイトにその太い指を突き付けた。

 「自分で言うのも何だが、俺は名医なんだぞ。お嬢様を失望させはしないさ。さて」、彼の視線が少女からツァハリーアスへと移る。「俺の診療とここまでの旅が無駄にならないことを祈念して、今日は盛大な夕食が食べたいね。期待しているよ、ヒッポリート伯爵様」


 実に豪快に笑うヴィクターに、ツァハリーアスは強い脱力を覚えていた。



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