第3章 事例No.89 神の名を持つ鍵──(現代)
1.
現代の東京。
夜の首都高速道路を、ヘッドライトの光の束が高速で切り裂いていく。かつて昭和三十九年に作られた高架は、今や最先端の電子監視ネットワークによって網羅され、一見すると完璧な秩序が保たれているかのように見えた。
だが、その秩序は、あまりにも唐突に、暴力的に破壊された。
──港区、日本銀行総裁の私邸。
深夜二時、静寂に包まれていた邸宅のセキュリティシステムが一斉にダウンした。直後、漆黒の戦闘服に身を包み、高度な軍事訓練を受けた謎の武装集団が突入する。
迎え撃つ警護員(SP)たちは、敵の圧倒的な連携と電磁パルス(EMP)を用いた電子兵器の前に、満足な反撃すら許されず無力化されていった。
彼らの目的は、金銭でも政治的亡命でもない。
総理大臣すら立ち入りを知らされない、総裁私邸の最奥の地下金庫。そこに鎮守の如く収められていた、奇妙な幾何学模様が刻まれた一本の鍵──。
神の名を持つ最後の鍵、「ツクヨミ」。
「──ツクヨミの回収、完了。これより最終フェーズへ移行する」
無線から流れる冷徹な声と共に、漆黒の集団は夜霧の中へと消え去った。作戦開始から、わずか三分二十秒の出来事だった。
警視庁庁舎、地下四階。
およそ一般の警察官には存在すら知られていない、電子ロックと生体認証の向こうにある「国家安全保証課(国安)」の作戦室。
「国家非常レベル“準最高”が発令された。ただちに状況を説明する」
デスクの前に立ち、腕を組んでモニターを見つめるのは、公安部所属の情報分析官・天野司だった。端正な顔立ちには一切の感情が浮かんでおらず、その瞳は冷徹な鏡のように青白い光を反射している。
「二時間前、日銀総裁私邸が襲撃され、秘匿されていた『ツクヨミの鍵』が強奪された。犯行グループは『コギト』。海外の民間軍事会社(PMC)を隠れ蓑にした、極進的な国際テロ組織だ」
「ツクヨミだと? ついに最後の鍵が動きやがったか」
機動捜査隊から引き抜かれた現場の突撃隊長、神田竜二が拳の骨をゴキゴキと鳴らしながら、不敵に笑った。その体躯からは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた野獣のような威圧感が漂っている。
「情報が早すぎるな」皮肉めいた笑みを浮かべたのは、サイバー犯罪対策課の鬼才、黒瀬圭吾だ。何台ものモニターに指を走らせ、ハッキングの痕跡を解析している。「日銀総裁のプライベート暗号回線を正確に遮断してる。身内に手引きした奴がなきゃ、こんな芸当、できっこないね」
「身内、というよりは──『宿命』でしょうね」
部屋の隅で、静かに銃のメンテナンスをしていた外事課の嶺大和が、柔らかい物腰のまま、しかし冷たい声で言った。「僕が海外の治安機関から得た情報では、この『コギト』の創設者一族のルーツは日本にある。……彼らの先祖の名は『国枝』。かつて昭和二十年、そして三十九年に、我が国安が葬ったはずの、あの右翼結社『黄昏会』の末裔です」
その言葉に、作戦室の空気が一瞬で凍りついた。
百年の時間を超えて、亡霊の血脈が再びこの国を掴みにかかっている。
「……槇村、現場に残された微物の解析結果は?」天野が尋ねる。
科捜研の天才女性研究員、槇村紗希が顕微鏡から顔を上げた。「襲撃現場から、特殊な液状化合物の痕跡を検出したわ。これは昭和三十九年の東京五輪テロ未遂事件の時に、当時の犯行グループが使おうとした旧日本軍の液体爆薬──その組成を現代版にアップデートしたものよ。間違いない、彼らは過去の計画を『完成』させようとしてる」
「計画の完成だと?」神田が眉をひそめる。
天野は、デスクに三冊のファイルを並べた。
『事例No.30』『事例No.49』、そして今回の『No.89』。
「明治の御代、国会議事堂の最地下に『禁断の部屋』が作られた。もし日本が外国に完全に侵略され、国家滅亡の危機に瀕した際、日本のすべてのインフラ、情報網、財政データを物理的・電子的に一瞬で消滅させ、敵に何も渡さないための『国家自爆システム』。……それを起動させるには、三本の鍵が必要になる」
天野はモニターを指差した。
「天皇家が持ち、昭和二十年に一度地下に埋まった『アマテラス』。
総理大臣が持ち、昭和三十九年に濁流に消えた『スサノオ』。
そして、今回盗まれた日銀総裁の『ツクヨミ』」
「待てよ」警護課SPの精鋭、無口な八重樫灯が、初めて重い口を開いた。「アマテラスとスサノオは、過去の事件で紛失しているはずだ。ツクヨミ一本で、システムは起動できるのか?」
「いや、紛失していない」
天野は冷酷に言い放った。「コギト──いや、黄昏会の亡霊どもは、この数十年の間に、上野の地下道からも、赤坂の水路からも、執念で残りの二本を回収していたんだよ。奴らの手元には、すでに三本の鍵が揃っている」
全員の息が止まる。
「奴らの狙いは、今夜、国会議事堂の地下へ侵入し、システムを起動させることだ。もしそれが発動すれば、現在の日本の電子政府ネットワーク、日銀の金融データ、すべてが『無』になる。現代のこの高度情報社会でそれが起きれば、日本は明日、完全に崩壊する」
天野は立ち上がり、全員を見据えた。
「これは、明治から続く我が『国安』の、百年にわたる因縁の最終決戦だ。かつての先輩たちが命を懸けて繋いだバトンを、ここで途絶えさせるわけにはいかない。──これより、ツクヨミ奪還、および国会議事堂防衛作戦を開始する。一匹も逃がすな」
「了解!!」
現代の国安スペシャリストたちの鋭い声が、地下の作戦室に響き渡った。夜の首都を舞台に、最後の戦いが幕を開ける。
2.
午前三時十五分、国会議事堂。
夜の帳に包まれた白亜の殿堂は、不気味なほどの静寂を保っていた。しかしその周囲数キロメートルの電脳世界では、すでに目に見えない苛烈な戦争が始まっていた。
「国安各員へ、こちら黒瀬」
議事堂から数キロ離れた移動指揮車内で、黒瀬圭吾は十数枚のモニターに囲まれ、猛烈な速度でキーボードを叩いていた。眼鏡の奥の目が、青いコードの羅列を捉える。
「敵のハッカー、かなり手慣れてる。議事堂周辺の防犯カメラと警備センサーが完全にループ映像に書き換えられてるわ。……でもね、僕の作ったバックドアを舐めてもらっちゃ困る。三分で制御を奪い返す。神田さん、八重樫、カメラの死角から突入して」
『おうよ、待たせやがって!』
議事堂の北門。影のように潜んでいた神田竜二が、黒瀬の合図と同時に不敵な笑みを浮かべて飛び出した。神田の肉体は重厚だが、その足音は驚くほど軽い。
北門の警備員室には、すでに気絶させられた本物の警備員と、すり替わった「コギト」の武装工作員が二人。
「だれだッ──」
工作員が銃を構えるより早く、神田の強烈なアッパーカットが顎を捉えた。肉の潰れる鈍い音。もう一人がナイフを抜こうとするが、神田はその腕を掴んでねじ上げ、そのまま壁に叩きつけた。
「格闘戦のイロハから教えてやるよ、亡霊さんよ!」
神田が前線を切り開く。その後方を、一言も発さずに追うのは八重樫灯だった。彼女の手には、消音器付きの拳銃。神田の死角から現れた三人目の敵に対し、八重樫は歩みを止めることすらなく、正確にその膝と手首を撃ち抜いて無力化した。SPとして培われた、無駄の一切ない看破と制圧の技術。
一方、中央ロビー。
天野司、嶺大和、槇村紗希の三人は、議事堂の「さらに下」へと続く隠し階段の前にいた。
「この先ですね」
嶺がいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、だが手にした銃の安全装置を外しながら言った。
「外事課のルートで調べましたが、コギトの現リーダー、国枝漣は、昭和三十九年に白石真澄さんに撃たれた国枝正臣の孫にあたります。三世代にわたる怨念……もはや呪いですね」
「呪いだろうと何だろうと、サイエンスで解き明かせないものはないわ」
槇村が手にした特殊スペクトルスキャナーを壁にかざす。「壁の奥から微かな電磁波を感知。明治時代に作られた物理的な機構と、現代の電子起爆装置が強引にハッキングで結合されてる。……天野、急がないとシステムが完全同期しちゃう」
天野は無表情のまま、懐のスマートフォンに表示された、昭和二十年、昭和三十九年の極秘事件ファイルを一瞥した。鷲尾、相沢、三崎、白石──先輩たちが守り、流し、紡いできた歴史のバトンが、いま自分の手の中にある。
「行くぞ。百年の因縁に、俺たちの世代で終止符を打つ」
天野を先頭に、三人は暗く冷たい、議事堂の最地下へと続く階段を駆け下りた。
地下六階。現代の建築基準法や、公表されている議事堂の図面には決して存在しない、広大なコンクリートの空間。
中央には、明治期に作られたと思われる、真鍮と鉄でできた巨大な球体の機械が鎮座していた。それを取り囲むように、最新のサーバーラックが並び、不気味な電子音を響かせている。
その球体の中心には、三つの鍵穴があった。
すでに二つの鍵穴には、黄金の輝きを放つ「アマテラス」、そして禍々しい装飾の「スサノオ」が差し込まれている。
「──ついに、この時が来た」
球体の前で、最後の鍵「ツクヨミ」を手にし、狂おしい目で見つめる男がいた。
コギトの首領、国枝漣。二十代後半の、冷徹なインテリジェンスを感じさせる若者だ。彼の背後には、自動小銃を構えた数人の精鋭工作員が控えている。
「我が一族が百年、日陰を歩みながら待ち望んだ瞬間だ。日本よ、偽りの繁栄を貪り、過去の英霊を忘却した愚かな国よ。お前たちは今夜、自らが作り出した『自爆装置』によって、すべての情報を失い、真の『無』へと還るのだ!」
国枝がツクヨミの鍵を、最後の鍵穴へと差し込もうとした、その瞬間。
「そこまでだ、国枝」
暗闇から、天野司の声が冷酷に響き渡った。
国枝が振り返る。同時に、左右のキャットウォークから、神田と八重樫も合流し、コギトの集団を完全に包囲した。黒瀬のバックドアによって、地下室の照明が一斉に点灯し、敵の視界を奪う。
「国安……! まだ存在していたか、歴史の泥犬どもが!」
国枝漣が歯を剥き出しにして叫んだ。
「お前たちの言う『真の日本』が何なのかは知らない」
天野は真っ直ぐに銃口を国枝に向け、淡々と言い放った。
「だが、俺たちが守るのは、お前たちが憎む『偽りの繁栄』だ。明日も、明後日も、この街の人々が何事もなく朝を迎える。その日常のために、俺たちはここにいる。……鍵を渡せ」
「黙れ! 撃てッ!!」
国枝の悲鳴のような号令と共に、明治の遺産と令和の電脳が交錯する最地下で、最終決戦の銃声が轟いた。
3.
最地下の空間が、銃声と硝煙で満たされる。
「神田、八重樫、前線を押し上げろ! 槇村はシステムの強制停止を!」
天野の鋭い指示が飛ぶ。
「オラァッ! 亡霊ども、まとめてあの世へ送り返してやるよ!」
神田がサーバーラックを遮蔽物にしながら突進し、工作員の自動小銃の銃身を力任せに叩き落とす。間髪入れずに放たれた重い拳が、男の防弾ベストごと胸骨を砕いた。
その神田の背後を狙う敵の動線を、八重樫の銃弾が寸分の狂いもなく遮断する。正確無比なツー・タップ(二連射)が、闇に潜む工作員たちの眉間を次々と撃ち抜いていく。
「黒瀬、まだか!」
天野が背後で銃を構えながら、インカムに叫ぶ。
『やってる、やってるってば! でも明治の物理カラクリと現代の量子暗号がハイブリッドで絡んでて、めちゃくちゃ硬い! 槇村さん、そっちのサーバーのメインバスに直接『論理爆弾』を流し込んで!』
移動指揮車の中で、黒瀬は指がちぎれんばかりの速度でタイピングを続けていた。画面には、起動まで残り「2分」を示す警告灯が明滅している。
「分かった、今繋ぐわ!」
槇村は弾丸がかすめる中、サーバーラックの裏側に飛び込み、光ファイバーの束を強引に引きちぎって自作の携帯端末を直結した。「……通信同期、開始! 黒瀬、いけッ!」
『おっしゃあ、クラック成功! 亡霊さん、現代のハッカーを舐めないことだね!』
電子サーバー群が一斉に不協和音を立てて火花を散らし、国枝漣の足元で稼働していた量子リンクがエラーログで真っ赤に染まった。明治の機械球体へと電力を供給していた回路が、内側から焼き切られていく。
「な……システムが……停止していくだと……!?」
国枝漣が絶望に顔を歪める。
「終わりだ、国枝」
天野が煙る硝煙を突き抜け、真っ直ぐに国枝へと歩み寄る。
「まだだ! まだ、物理トリガーが残っている!!」
国枝は狂ったように叫ぶと、手にした「ツクヨミの鍵」を、最後の鍵穴へと力任せにねじ込み、強引に回そうとした。デジタルが死んでも、明治の物理機構さえ噛み合えば、システムは強制起動する。
ガチリ、と重々しい金属音が響いた。
「日本よ、灰に還れ──!」
──だが、何も起きなかった。
「……な、ぜだ……? 鍵は、三本とも揃っているはずだ……!」
国枝が驚愕し、何度も鍵を回そうとするが、真鍮の球体は沈黙したままだ。
天野は国枝の数歩手前で足を止め、冷徹な目で彼を見つめた。
「国枝。お前の祖父(正臣)は、昭和三十九年に『スサノオの鍵』を赤坂の濁流に落としたと言っていたな」
「……それがどうした! 我々はその水路を何十年も捜索し、ついにその鍵を回収したのだ!」
「お前たちが拾い上げたそれは、ただのレプリカだ」
天野の言葉に、国枝の身体が凍りついた。
「昭和三十九年の事件の際、国安の先達である白石真澄は、最初から本物の『スサノオの鍵』を政府から預かり、別の場所に秘匿していた。お前の祖父が奪ったのは、最初から敵を誘い出すための『偽物』だったんだよ」
天野は静かに、自らの懐から一本の、古めかしいが鈍い輝きを放つ鍵を取り出した。これこそが、国安の責任者から責任者へと、半世紀以上もの間、歴史の裏側で厳重に受け継がれてきた本物の「スサノオの鍵」だった。
「お前たちは、百年の間、我が国安が流した『嘘の歴史』に踊らされていたに過ぎない」
「嘘、だと……? ならば、我が一族の百年の怨念は……我々が捧げてきた血は、すべて、無駄だったというのか……っ!」
国枝漣は崩れ落ちるように膝をつき、血を吐き出すような悲鳴を上げた。
「無駄ではないさ」
それまで静かに状況を見守っていた嶺大和が、銃口を向けたまま、どこか哀れむような目を向けた。
「あなた方の執念があったからこそ、僕たちはこうして、自分たちの守るべき『日常』の価値を、もう一度思い知ることができたんですから」
天野は国枝の手から「ツクヨミの鍵」を取り上げ、そして球体に差し込まれていた「アマテラス」と「スサノオ」を静かに引き抜いた。
「国枝漣、国家安全保証法違反、およびテロ首謀容疑で拘束する。……歴史にお前の名が載ることはない」
国安の面々に取り押さえられる国枝の姿を見届けながら、天野は深く息を吐き出した。
明治、昭和、そして現代。
三つの時代を奔流のように駆け抜けた、神の名を持つ鍵を巡る因縁が、いま、完全に霧散した瞬間だった。
翌朝。午前六時三十分。
何事もなかったかのように、国会議事堂の背後から鮮やかな朝日が昇っていく。
永田町の街路には、早朝の澄んだ空気が満ち、始発の地下鉄へと向かう通勤客の足音がポツポツと響き始めていた。
新聞の一面を飾るのは、政治のありふれたスキャンダルや、今日の天気予報だけだ。
警視庁庁舎の屋上。
朝日に照らされながら、現代の国安メンバーが並んで立っていた。
神田は清々しそうに背伸びをし、黒瀬は缶コーヒーをすすり、槇村と八重樫は静かに街を見下ろしている。
「終わったな」嶺が微笑む。
天野は手元にあるタブレットの画面を見つめていた。そこには、『事例No.89:解決済』の文字。そしてその上に連なる、大先輩たちの不鮮明なモノクロ写真。
彼らは誰も、歴史の表舞台に名を残していない。勲章もなければ、大衆からの感謝もない。
「天野、これからどうする?」神田が訊ねた。
天野はタブレットの電源を落とし、それを懐に収めると、相変わらずの無表情の中に、ほんの微かな誇りを滲ませて応じた。
「いつも通りだ。次の事例に備える」
国の闇に寄り添い、人々の光を守る。
誰に知られずとも、彼らの戦いは、この美しい朝が続く限り、これからも歴史の裏側で静かに続いていく。
完




