第1章 事例No.30 黄昏の思想──(昭和二十年)
1.
昭和二十年、九月。
東京は、巨大な灰の墓標だった。
空襲によって焼き尽くされた見渡す限りの焼け野原に、アメリカ軍のジープが撒き散らす排気ガスの臭いと、いまだ燻り続ける生活の残骸の匂いが混じり合っている。
日本の主権は失われ、街には「GHQ」という新たな支配者の影が落とされていた。昨日までの正義が反転し、誰もが生きるために泥を啜る時代。
その日、銀座の焼け跡にひっそりと佇む、半壊した雑居ビルの地下室に、5人の男女が集まっていた。
部屋の明かりは、1つの裸電球のみ。壁は煤で黒く汚れ、湿ったカビの臭いが鼻を突く。
「──全員、揃ったな」
低く、枯れた声を出したのは、長机の奥に座る男。鷲尾朔太郎だった。
元・特高警察幹部。つい数週間前まで、国家の治安を維持するために裏で糸を引いていた男だ。組織が解体され、表舞台から追放されたはずの彼が、なぜここにいるのか。
「お集まりいただき感謝する、と言いたいところだが、ここにあるのは栄誉でもなければ、まともな給与でもない。あるのは、ただの泥泥とした裏仕事だ。……嫌なら、今すぐあの階段を上がって闇市にでも消えてくれ」
鷲尾は鋭い眼光で、並ぶ4人の顔を見回した。誰も動かない。
鷲尾の右隣に立つのは、元陸軍情報将校の相沢修吾。二十代半ばという若さでありながら、その瞳には復員兵特有の、深い絶望と鋭い光が同居している。軍服を脱ぎ、仕立ての悪い国民服を着ているが、その背筋はまだ軍人のそれだった。
「鷲尾さん、前置きはいい」相沢が硬い声で言った。「俺たちは、日本が負けた現実を嫌というほど見てきた。今さら何を恐れる。俺たちがここに呼ばれた『本当の理由』を教えてくれ」
鷲尾は何も言わず、机の上に一通の茶封筒を放り出した。
封筒は薄汚れており、米軍の検閲を免れたものであることは明白だった。中から出てきたのは、ガリ版刷りの数枚の書類。そこには、赤インクで不気味な紋様が押されていた。
「『黄昏会』だ」
鷲尾がその名を口にした瞬間、部屋の空気が一気に冷え込んだ。
「黄昏会……」
呟いたのは、部屋の隅に佇む女性、鷹宮静だった。元宮内省関係者であり、仕立ての良い着物を地味なもんぺに着替えているが、その立ち振る舞いには隠しきれない気品がある。
「あの、戦時中に軍部の一部と結託していた、過激な国粋主義の秘密結社ですか?」
「そうだ」鷲尾は頷く。「彼らはこの敗戦を『国辱』と捉えている。だが、彼らの結論は、お国のために復讐するということではない。……国家そのものを、一度完全に終わらせる(・・・・・・・・)ことだ」
鷲尾は書類の一枚を指で叩いた。そこには、驚くべき計画が記されていた。
「彼らの狙いは二つ。一つは、来週予定されている、天皇陛下の非公式な移動ルートを狙った暗殺計画」
「なっ……!」
相沢が息を呑み、机に両手を突いた。
「馬鹿な……! 陛下を消して、どうするつもりだ! この混乱期にそんなことをすれば、占領軍は日本を完全に解体し、暴動が起き、国は本当の地獄になる!」
「それこそが彼らの望みだ。偽りの平和を迎えるくらいなら、すべてを灰にし、その中から“真の日本”を再生させるという狂信的な思想だ。そして、彼らが狙うもう一つの標的──それが、宮内省の奥深くに眠る、天皇家が代々守り続けてきたとされる『鍵』だ」
鷲尾の言葉に、鷹宮静の身体が微かに強張った。
鷲尾はその変化を見逃さず、静を見つめた。
「静くん。君がここに呼ばれた理由は、陛下の動線を熟知しているからだけではない。……その鍵、『アマテラス』の存在を知る、数少ない生き残りだからだ」
静は深く息を吸い、覚悟を決めたように視線を上げた。
「……はい。それは、明治の御代に作られた、国家の最奥を開くための三本の鍵の一つ。天皇家が秘匿し続けてきたものです。もしそれが黄昏会の手に渡り、国会議事堂の地下にあるという『禁忌の部屋』が開かれれば……この国がこれまで蓄積してきた財産、情報、そして国家の正当性そのものが、すべて内側から崩壊します」
部屋に沈黙が降りた。
暗殺と、国家崩壊の鍵。政府はGHQの監視下にあり、公に動くことはできない。真実が公になれば、占領軍はそれを口実にさらに苛烈な支配を行うだろう。
「つまり、俺たちの出番ってわけだ」
部屋の壁に寄りかかり、煙草の代わりに干し芋を噛み締めていた大柄な男──元警察武闘派の久世重蔵が、ニヤリと下品に笑った。その拳には、戦後の暴動を鎮圧してきた荒々しい傷跡が無数にある。
「思想だの鍵だの難しいこたぁ分からねえが、要するに、その黄昏会の連中を、誰にも知られずに全員ぶちのめせばいいんだな? 陛下が明日も生きて朝を迎えるために」
「言葉が乱暴だな、久世」
机の端で、ノートにペンを走らせていた男──元新聞記者の朝倉文哉が、眼鏡の奥の目を細めた。
「だが、真実だ。僕の仕事は、この一件を『ただのヤクザの身内喧嘩』か『事故』として世間に、そしてGHQに処理することだ。ペンは剣よりも強し、というが、今回は死体隠しのスコップとして使わせてもらうよ」
鷲尾は立ち上がった。電球の光が、彼の顔に深い影を作る。
「本日ただ今をもって、我々は警視庁の記録から完全に消去される。我々は公には存在しない。死んでも骨は残らず、誰も弔わない。……だが、この国の血脈をここで途絶えさせるわけにはいかない」
鷲尾は4人を見据え、静かに告げた。
「相沢、久世、動くぞ。敵の潜伏先は分かっている。上野の地下道だ」
「了解」
相沢の引き締まった声が、地下室に響いた。
日本の命運を懸けた、誰にも知られない戦いの火蓋が、いま切って落とされた。
2.
上野駅周辺は、東京の中でも格段に色濃い混沌が渦巻く場所だった。
爆撃を免れた高架下や駅前には、木切れと泥で固めただけの粗末な闇市が広がり、復員兵、浮浪児、行き場を失った人々がひしめき合っている。
カストリ酒の饐えた匂い、怪しげな進駐軍物資、そして人間の放つ強烈な執念。
その雑踏の中を、頭深くまで戦闘帽を被った相沢修吾と、薄汚れたドカジャンを羽織った久世重蔵が歩いていた。
「ここらの空気は、何度来ても肌に合わねえな」
久世がペッと地面に唾を吐き捨てる。
「戦地から命からがら戻ってきたと思えば、今度は身内で殺し合いか。嫌になるぜ」
「愚痴を言うな、久世。敵の目はどこにあるか分からない」
相沢は前を見据えたまま、低い声で応じた。彼の視線は、雑踏の至る所に立っている、異様に背筋の伸びた男たちを捉えていた。小汚い格好をしてはいるが、目つきが明らかにカタギではない。かつての軍部過激派、あるいは特高にマークされていた右翼思想の残党──「黄昏会」の構成員たちだ。
彼らの目的は、数日後に控えた陛下の行幸ルートの襲撃。そして、それに先んじて宮内省から盗み出されたはずの、皇室の秘宝「アマテラスの鍵」を組織の幹部に引き渡すことだった。
事前にもたらされた朝倉の情報によれば、取引の場所は上野駅の地下防空壕跡。
現在は浮浪者たちの巣窟と化している暗黒街の最奥だ。
「……あそこだ」
相沢が顎で示す。
崩れかけたコンクリートの階段の前に、二人の男が立っていた。懐に手を入れ、明らかに拳銃を隠し持っている。
「よし、相沢。お前は頭脳労働担当だ。荒事は俺が引き受ける」
久世が首の骨をゴキリと鳴らし、何食わぬ顔で男たちに近づいていった。
「おい、あんちゃんたち。いい煙草、入ってるんだが買わねえか?」
「失せろ、浮浪者が」
見張りの一人が不機嫌に久世を突き放そうとした瞬間、久世の巨体が弾けた。
ドス、と鈍い音が響く。久世の強烈な前蹴りが男の腹にめり込み、男は一言も発せずに崩れ落ちた。もう一人が慌てて懐から南部十四年式拳銃を抜こうとするが、すでに相沢が懐に飛び込んでいた。
元陸軍将校の鋭い一撃が男の顎を打ち抜き、脳を揺らす。
「……ふぅ、相変わらずいい腕だな、相沢」
「無駄口を叩くな。行くぞ」
二人は気絶した見張りを物陰に引きずり込むと、容赦なく闇の手が広がる地下道へと足を踏み入れた。
同じ頃、銀座の地下室では、朝倉文哉が数台の電話機とタイプライターを前に、猛烈な勢いで作業を進めていた。
「──ああ、毎朝新聞の社会部か? ああ、僕だ、朝倉だ。……いや、大したネタじゃないんだがね。明日、上野で米兵の脱走兵と地元の愚連隊が派手にやり合うっていう噂がある。そう、ただの治安悪化のニュースさ。一応、頭の片隅に置いといてくれよ」
朝倉は受話器を置くと、ふうと息を吐いて眼鏡を拭いた。
「これで、上野の地下でどれだけ銃声が響こうが、明日の朝刊には『進駐軍と愚連隊の衝突』としか載らない。GHQもメンツがあるから、うかつに踏み込めないさ」
「恐ろしい男ですね、朝倉さんは」
傍らで無線機の周波数を調整していた鷹宮静が、冷徹な手際に微かな苦笑を浮かべる。
「言葉は嘘をつくが、誰もが信じたい嘘ならそれは真実になるんだよ、鷹宮さん」
朝倉はそう言って、再び不敵に笑った。
「それより、鍵の件はどうなんだ? 本当にその『アマテラス』とやらは、そんなに危険なものなのかい?」
静の手が止まる。彼女の脳裏に、かつて宮内省の地下書庫で目撃した、異様な威圧感を放つ黄金の鍵の姿が蘇った。
「あれはただの鍵ではありません。明治の御代、国会議事堂の地下に『ある部屋』が作られました。そこには、万が一、日本が外国に完全に侵略され、国家が滅亡の危機に瀕した際、すべての国家機能を物理的・情報的に破滅させ、敵に何も渡さないための『自爆装置』とも言えるシステムが眠っているのです」
静の言葉に、朝倉の笑みが消えた。
「そのシステムを起動させるには、三本の鍵が必要になります。天皇家、内閣総理大臣、そして日本銀行総裁。それぞれが持つ鍵が揃ったとき、日本の根幹は崩壊する。黄昏会は、敗戦に絶望するあまり、そのシステムを使って日本を一度、物理的に『無』にしようとしているのです」
「……なるほど。狂人の思想だな」
朝倉はタイプライターのキーを激しく叩き始めた。
「だったら、なおさら僕たちの手で闇に葬らなきゃならない。鷲尾さん、そっちはどうです?」
部屋のさらに奥、暗闇の中に座る鷲尾朔太郎は、愛用の拳銃──コルト・ガバメントの弾倉をガチリと装填し、静かに立ち上がった。
「相沢たちから連絡が入った。ネズミの巣を見つけたようだ。……私も出る」
地下道の奥は、悪臭と静寂が支配する世界だった。
懐中電灯の細い光を頼りに進む相沢と久世の前に、突如、開けた空間が現れる。かつての大型防空壕だ。
そこには、十数人の男たちが集まっていた。
中央の机の上には、日の丸の国旗。そしてその上に、禍々しい装飾が施された一本の、古めかしい鍵が置かれていた。
「──ついに揃ったな、同志諸君」
集団の中心に立つ、白髪交じりの厳めしい男が声を張り上げた。元陸軍中佐であり、黄昏会の首領、国枝だった。
「これこそが『アマテラス』。皇室より奪還せし、真の日本を目覚めさせるための第一の鍵だ! 敗戦を受け入れ、占領軍の犬に成り下がった現政府など、もはや日本ではない! 我々がこの手で、すべてを灰に帰し、神国を再生させるのだ!」
「おおおっ!」と男たちが狂信的な声を上げる。
「……狂ってやがるな」
物陰からその様子を見ていた久世が、忌々しげに呟いた。
「久世、合図と同時に国枝を叩く。鍵の回収が最優先だ」
相沢が静かに銃を構えた。
「おいおい、あんな大勢を相手にか? 死ぬなよ、相沢」
「死なないさ。俺たちはまだ、明日を迎えていない」
相沢の指が引き金にかかる。
だがその時、地下道の奥から、もう一つの足音が響いてきた。
──カツン、カツンと、硬い革靴の音が、狂信者たちの声を遮るように冷たく響き渡る。
「誰だ!?」
国枝の部下たちが一斉に銃を構えた。
暗闇から現れたのは、仕立ての悪い背広を着た、片目を眼帯で覆った初老の男。
国安の指揮官、鷲尾朔太郎だった。
「相変わらず安っぽいお題目だな、国枝中佐」
鷲尾は、十数本の銃口を向けられながらも、一切の動揺を見せずに冷たく言い放った。
「鷲尾……! 特高の生き残りが、なぜここにいる!」
国枝が目を剥く。
「お前たちの言う『神国』とやらのために、これ以上この国を汚させるわけにはいかない。そこにある鍵を置いてもらおう。それは、お前たちのような亡霊が触れていいものではない」
「笑わせるな! 貴様ひとりで何ができる!」
国枝が叫んだ瞬間、鷲尾の背後の闇から、相沢と久世が飛び出した。
「国安、作戦開始だ!!」
相沢の銃声が地下道に轟き、激しい銃撃戦の幕が上がった。
3.
「撃て! 叩き潰せ!」
国枝の怒号が防空壕のコンクリート壁に反響し、無数の銃撃が鷲尾の足元を弾いた。
激しい硝煙の臭いが一瞬で立ち込める。
だが、鷲尾は眉ひとつ動かさず、至近の柱の影へと滑り込みながら、愛銃のガバメントを突き出した。
鋭い銃声が二発。国枝の側近だった男二人が、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちる。特高警察の修羅場をくぐり抜けてきた鷲尾の射撃精度は、いまだ衰えていなかった。
「オラァッ! どいつもこいつも、戦はもう終わってんだよ!」
その銃撃戦の渦中に、文字通り「殴り込み」をかけたのは久世重蔵だった。
手にした九九式短小銃を、銃としてではなく棍棒のように振り回し、過激派の男たちの顎や肋骨を容赦なく叩き折っていく。返り血を浴びながら狂ったように笑う久世の姿は、敵にとって死神そのものだった。
「国枝中佐! 早く鍵を持って退避を!」
「黙れ! 私は逃げん!」
混乱の中、国枝は机の上の「アマテラスの鍵」を掴み、懐へとねじ込んだ。
その動きを、相沢修吾の鋭い目が逃さない。
「国枝ッ!」
相沢は障害物を飛び越え、国枝へと突進した。
すかさず二人の過激派が相沢の行く手を阻むように銃を構える。
「退けぇッ!」
相沢は陸軍仕込みの徒手格闘術で、一人の腕を掴んでへし折り、その身体を盾にしながらもう一人の胸元へ拳銃の弾丸を叩き込んだ。かつて戦場で嫌というほど繰り返した「殺戮」の技術。それを今、祖国の闇で、祖国の人間相手に使っている。その矛盾に胸が焼けそうになりながらも、相沢の足は止まらない。
「国を守るだと……!? お前たちがやろうとしていることは、ただの腹いせだ! 敗戦の現実から目を背けているだけだ!」
相沢の叫びに、国枝が顔を歪めて拳銃を向けた。
「若造が、何を知る! 多くの同胞が死んだのだ! 陛下を現人神と仰ぎ、この国のために散った若者たちの無念を、このまま『人間宣言』などという欺瞞で終わらせてたまるか! すべてを灰にすることこそが、彼らへの最大の弔いだ!」
「違うッ!」
相沢の銃口と、国枝の銃口が、至近距離で互いを捉えた。
──引き金が引かれるよりも早く、乾いた一発の銃声が地下道に響き渡った。
国枝の右肩が激しく弾け、手にした拳銃が地面に転がる。
背後を振り返ると、硝煙の立ち上る銃口を向けた鷲尾が、冷酷な瞳で立っていた。
「国枝。お前の言う弔いのために、これ以上若者の血を流させるな」
鷲尾の言葉は、静かだが、絶対的な重みを持っていた。
「くっ……、まだだ……! まだ終わらん……!」
国枝は左手で懐の鍵を握りしめ、防空壕の奥へと続く狭い連絡通路へと逃げ込もうとした。その先は、宮内省の地下へと繋がる古い隠し通路だ。
「逃がすか!」
相沢が後を追おうとした、その時。
ドォン!!!
激しい爆発音が地下道を揺らし、国枝が逃げ込んだ通路の天井が崩落した。
大量の土砂とコンクリート片が崩れ落ち、通路を完全に塞いでしまう。
「な……ッ!?」
相沢が足を止める。
「仕掛け爆弾か……!? 自ら退路を断ちやがった!」
久世が周囲の残党を片付けながら叫ぶ。
「いや、違う。国枝の顔を見てみろ」
鷲尾が土砂の向こうを指差した。
崩れた隙間から微かに見えた国枝の顔は、驚愕に染まっていた。つまり、この爆発は国枝の予期せぬもの──外部からのものだった。
防空壕の崩落は止まらない。上野駅の地下全体が鳴動を始めている。
「潮時だな。相沢、久世、撤退するぞ」
鷲尾が冷徹に告げた。
「しかし、鍵が……!」
「国枝はあの奥に閉じ込められた。生きて出られるルートはない。アマテラスの鍵は、ひとまず歴史の闇に埋まった。……行くぞ!」
相沢は悔しさに歯を食いしばりながらも、崩落する地下道から脱出するために走り出した。
翌朝。
東京には、いつもと変わらない、しかし少しだけ静かな朝が訪れた。
朝刊の一面には、朝倉文哉の目論見通り、小さな記事が載っていた。
『上野駅周辺にて、進駐軍の不発弾が自然爆発。周辺の治安乱れ、ヤクザ者の抗争も重なるも、警察により鎮圧』
そこには、天皇暗殺計画の文字も、「黄昏会」の名も、ましてや国家を揺るがす「鍵」の存在も、一切書かれていない。
銀座の地下室。
鷹宮静は、無線機の前で深く安堵の息を漏らした。
本日予定されていた陛下の非公式な移動は、何事もなく無事に終了したという報せが入ったからだ。
「──お疲れ様。誰も褒めてはくれないが、大金星だ」
朝倉がコーヒーの代わりの代用茶を差し出しながら、皮肉げに微笑む。
そこへ、服を泥と硝煙で汚した鷲尾、相沢、久世の三人が戻ってきた。
「おかえりなさい。……鍵は、どうなりましたか?」
静の問いに、相沢は静かに首を振った。
「国枝と共に、地下道の崩落の奥に消えました。回収は不可能です」
「……それでいい」
鷲尾が椅子に深く腰掛け、眼帯の奥の目を閉じた。
「あの鍵は、元々この世にあってはならないものだ。黄昏会の残党も、これで組織としては壊滅した。……我々の最初の任務は、ひとまず完了だ」
相沢は、窓から差し込む朝日の光を見つめていた。
焦土と化した東京の街が、黄金色の光に照らされていく。
「国を守るとは、何なんでしょうか」
相沢がぽつりと呟いた。
「俺たちは昨日、同胞を殺した。真実を隠し、嘘のニュースを流した。これが、俺たちの守りたかった日本なのか……」
鷲尾は目を開け、若い相沢をじっと見つめた。
「相沢。国とは、洗練された理念や、美しい歴史のことではない。いま、あの焼け野原で必死に泥を啜りながら、今日を生きようとしている人間たちのことだ。……彼らが、何事もなく明日を迎える。そのために泥を被るのが、我々『国安』の存在意義だ」
鷲尾の言葉に、相沢はゆっくりと拳を握りしめた。
その答えが正しいのかは、まだ分からない。だが、自分たちが動かなければ、この美しい朝は来なかったことだけは確かだった。
「──だが、気になるな」
朝倉がタイプライターの手を止め、怪訝な顔をした。
「国枝が逃げ込んだ通路の爆破。あれは本当に、偶然の崩落だったのかい?」
鷲尾の表情が、微かに険しくなる。
「……何者かが、国枝を口封じのために爆殺し、鍵ごと地下に埋めた可能性はある」
「黄昏会のバックに、まだ別の『誰か』がいると?」
久世が顔をしかめる。
「分からん。だが、アマテラスの鍵が消えた以上、奴らもこれ以上は動けないはずだ」
鷲尾は立ち上がり、全員を見回した。
「諸君。我々の名前は歴史に残らない。だが、この国の闇がある限り、我々の仕事は終わらない。……次の事例に備えよ」
昭和二十年、夏。
日本の敗戦という最大の危機の裏で、「国安事例No.30」は終結した。
だが、歴史の歯車は止まらない。
消えた「アマテラスの鍵」、そして国枝を爆殺した謎の影──その因縁は、19年後の1964年、オリンピックに沸く東京へと引き継がれることになる。




