37
「そう…か」
事件の翌日、マイヤー家の応接室は重い空気で満たされていた。
「申し訳ありません。私がもう少し早くに到着していれば、このようなことは…」
「いいや、気にするな。私たちもあの男の執念を見誤っていたのもいけない」
ミーシャの殊勝な態度に、ノアもため息を吐きながらそう返す。
「こちらに何も問題がなくて何よりだ」
「本当に。彼がヘレン嬢を狙う可能性もありましたから」
「そうだな」
現在、部屋にはノアとミーシャ、ゼニア、エリザベス、そしてドナルドがいる。ジャクリーヌやカレンには聞かせられないと判断され、ヘレンにも彼の末路を知らせる必要もないだろうと判断されたのだ。
「それと、私は第一発見者の一人となっておりますので、ノア様達と共にカロリアンに戻るのは難しそうです」
「だろうな」
「そうね…陛下はサーシャ様のことをとても…気にしておいでだったから…」
あの後、ミーシャはピーターと共にサーシャの部屋へ向かった。表向きは、騒音がしたため、だ。そして部屋の中には、こと切れたサーシャと自ら首を切ったらしいクリストファーが重なり合うようにして絶命していた。
二人はすぐさまそれを国に知らせ、その場で簡単な事情聴取を受けた。本格的なものはこれから行われる予定だ。ちなみにミーシャがマイヤー家に帰れた理由は、執事であったピーターが彼女の身分の保証をしたことと、彼がその場に留まったためである。そうでなければ、ミーシャに一時帰宅などは許されなかっただろう。
「ヘレン嬢には説明を?」
「そうだな…カロリアンに戻ってからにしようと思う。今の彼女には情報過多になるだろう」
ただでさえ家のことやらノアのことからでいっぱいいっぱいのヘレン。その彼女にクリストファーのことまで聞かせれば、パンクしてしまうだろう。
「これからどうすればいいんだ?」
ドナルドはすっかり気弱になり、その場にいる人たちを見ながら問う。当主としてあるまじき姿だが、エリザベスが厳しくしている所為か、自信を無くしてしまっているようだった。
「…アレックスに何も咎めがないというのは業腹ね。ドナルド、この件はジャクリーヌにも伝えなさい。そして、彼がサーシャ様に依頼したために起こったかもしれない事件だとお茶会などで話すように」
「それでは、アレックスの立場が…」
「ドナルド、あなた、まだそのようなことを言っているの? それに、嘘ではないわ。彼がもっと真面目にしていれば、関わることのない人たちだったのよ。彼だけが何も痛みなく逃げおおせるのは、私は気に入らないわ」
「わかり、ました…母上」
すっかり母の言いなりになってしまっているドナルドに、エリザベスはため息をつきそうになった。どうしてこのような息子が今の今まで貴族の当主としてやってこれたのだろうか。そしてどうして自分は安心していたのだろうか。
「そちらはお任せしても?」
「もちろんよ。カレンに対する仕打ちも含めて、彼には大人しくしてもらいましょう」
実家にいるおかげか、カレンの体調はよくなっている。食事もちゃんと摂り、腹にいる子のことを第一に考えられる余裕を持っていた。
エリザベスは、ジャクリーヌと共にカレンのファフニール家での話を聞いていた。そして妻を娶っておきながら浮名を流し続ける義孫息子に腹を立てていたのだ。
「カレンの件に関しては本人の意思も確認する方向性にしましょう。離縁するもしないも、彼女の意思に任せるわ」
「母上っ…ですが、アレックスは…」
「ドナルド、カレンはアレックスの子を宿しているのよ。子のことやこれからの将来を決めるのはあの子たちよ」
厳しいような言い方だが、貴族の結婚というものの離縁というのは簡単ではない。バーゲンムートにおいてままあるとすれば、子が何年も出来なかった場合などだ。夫婦間が冷めていても離婚はしない。外聞が悪いからだ。
今回のアレックスとカレンのことに関しても、貴族社会においては離婚の理由としては成立しない。むしろすれば要らぬ憶測などを呼ぶものだろう。
娘を愛しているドナルドは、アレックスと離婚した方がカレンの為だと思っているだろうが、そうして困るのはカレンも一緒なのだ。
「そもそも、アレックスと結婚をしたいと言ったのはカレンよ。アレックスもそう簡単に離縁を認めるとは思えないわ。カレンは彼の子を授かっているのだから。…でも、どうしてもカレンが彼と共にいたくないといえば、そのことに対する周りの目やその他のこともちゃんと伝えてからでないと、カレンが将来的に困るのよ」
「……わかっています…」
見捨てるような言い方になってしまうのは仕方ない。だが、カレンはもう子供ではない。カレンがアレックスと結婚したいと言い出したのだ。それに、父母がずっと守ってやるわけにもいかない。カレンは、貴族の女の一人として、ちゃんと両足で立って物事を考えられるようにならなければならないのだ。
「それと、ヘレンのことよ」
カレンと同じように、ヘレンももう子供ではない。彼女には、彼女の未来を決める権利がある。
「ノア・ヴィノーチェ殿。本当に、ヘレンを幸せにしてくれるのかしら? 私は貴方のお家のことを詳しくは知らないけれど、貴方のお母様は了承しておいでなの?」
「はい。私よりも先に、ヘレンが私の妻になればいいと言ったのは母です」
「まぁ……なら、お母様に言われて、結婚をするということかしら…?」
それであれば、いくらヘレンがノアと結婚したいと言ったとしても時間をかけて考えるようにエリザベスは言うつもりだった。親に言われての結婚で幸せを得られる確率は、悲しいことに高くはない。
ただでさえ苦労ばかりかけてきた孫。できることなら幸せを手にしてほしいとエリザベスは考えていた。
「いいえ。確かに、母に言われて意識したところはあります…。ですが、彼女の芯の強さ、そして弱さを、支えてあげたいと…そして私のことを支えてほしいと思いました」
「の、ノア殿…、し、しかし、ヘレンは…」
すると、ドナルドが躊躇うように発言する。
「ドナルド、貴方、まだヘレンをこの屋敷に残そうと?」
「ち、違います…! ただ、そういったことがあったことも受け入れてもらわないと、あの子が…!」
「ドナルド…」
「た、確かに私たちの所為もあって、ヘレンがああなってしまったのは理解しています…。あの子は、酷く我慢強く、泣き言を言わない…言えるような環境を作らなかったのだと分かっています…! もうヘレンには、同じような環境にいてほしくはない…そして、この屋敷にいれば、ヘレンが我慢強くならざるを得ないことも理解しています」
「…マイヤー伯爵…。ご安心ください、とは一概に言えません」
「そんな…! なら…!」
ノアの言葉に、エリザベスは何を言おうとしているのかと注意深くノアを観察する。
「人は生きていれば、我慢しなければならないことがたくさんあるでしょう…。それは私とて同じことです。ですが、ヘレン嬢との間には我慢しなくてもいいような関係性を築いていきたいと考えています」
「…絶対に幸せにするとは、言わないのか」
「ヘレン嬢の幸せは、ヘレン嬢だけのものです。私はヘレン嬢が妻になって、そして共に支えあって生きていけたら幸せだと感じますが、ヘレン嬢が同じように感じてくれるかは私にも分かりません」
エリザベスはノアの言葉を聞いて、そうか、と何かがすとんと落ちたような気がした。
「…貴方は、酷く真面目なのね」
エリザベスが感慨深くそれを口にすると、ノアは苦笑を浮かべた。
「無責任なことをしたくないだけです。…私にできることは、彼女を一人で泣かせたり苦労させないこと。そして共に幸せな家庭を目指すことくらいです」
「―――そう。その気持ちを、忘れないでほしいわ…。もしヘレンが一度でも帰りたいと言ったら、必ずバーゲンムートに送り届けなさい」
「―――わかりました。ヴィノーチェに懸けて」
ドナルドは未だに少しだけ納得のいっていなさそうな表情をしているが、エリザベスからすれば十分だった。
もしこれで、ノアがなんの確約もなく幸せにすると言っていたら、当主でもない身分でどうやって、と問うただろう。ノアは次期当主なだけであって、当主ではないのだ。母である当主に何かを言われて、それがヘレンにとって良くないものだった場合、どうするつもりなのかと。
しかし、ノアは言った。ヘレンが一人で泣いたり苦労しなくてもいいようにする、と。共に幸せを目指す、と。
ドナルド達には理解できないかもしれない。それがどれほど難しいことなのか。エリザベスは長く生きてきたからこそ知っている。
物語のように幸せに暮らしました、終わり、とはいかないのだ。他人と暮らす以上、泣かせないということも怒らせないということもあり得ない。人は生きているからこそ、自分の意見がある。そして同じように相手も生きているからこそ、異見が生まれる。常に相手と同じなはずはない。それによって生まれる摩擦をどうやって納得のいくものにするかが問題なのだ。
「いつ出立する予定なのかしら?」
「そうですね……。ゼニアも問題ないようですから、三日ほどで。ミーシャが手配してくれた人たちを護衛に戻ろうと思います」
「そう…」
「ミーシャ、お前はちゃんと証言してからゆっくり戻ってこい」
「ノア様、酷くありませんか? ちゃんと証言してすぐに戻りますよ?」
「……」
「エリザベス夫人、ヘレン嬢のことに関しましてはご安心ください。私もしっかりと見守らせていただきますので」
「あら…いいの? 貴女は自警団なのでしょう? 忙しいのではなくて?」
「そんな些細な事…。もちろん仕事はしっかりとします。ですが、単身でカロリアンに来られるヘレン嬢の支えになれれば、と個人的には思っておりますので」
「それはとても心強いわ…同性の知り合いがいるだけでもだいぶ変わりますものね」
「ミーシャ……」
ノアがミーシャを恨みがましそうに見ているが、どうしてなのかエリザベスには分からなかった。




