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「そう…ヘレンは、行ってしまうのね…」
「はい、お母様」
その日の夜、マイヤー家の面々は残り少ない家族の時間を過ごしていた。エリザベスは連日の移動や精神的な疲れもあり、すでに休んでいるが。
「……ヘレン、姉さまは、どこに行くの?」
「アンドレアス…お姉さまは別の国に行くのよ」
「どうして? もう僕と一緒にいるの、嫌なの?」
ヘレンとアンドレアスは、かつてのぎすぎすした関係からだいぶ良くなっていた。ヘレンがアンドレアスにあまり厳しい物言いをしなくなったのも大きいのかもしれない。かつてのアンドレアスはまだ幼かった。しかし彼も彼なりに成長していたのだろう。ヘレンに対して少しだけぎこちない感はあるが、それでも昔よりはだいぶ良くなっていた。
「違うわ、アンドレアス。お姉さまは、好きな方の傍に行くの」
「ノア、さま、のこと?」
流石にかつてのように知らない…しかも高位の人間に対して馴れ馴れしくするのは良くないと何度も言われたからか、敬称をつけるようになったアンドレアスに対して、ヘレンは笑みを浮かべた。
「そうよ」
「…たまには、帰ってくる?」
「…出来たら、ね」
自分と同じ、ふわふわとした髪をヘレンは優しく撫でた。
「お姉さま…本当にいい人なの…?」
「カレン…」
アンドレアスを撫でながら声の方を向けば、不安そうにしているカレンが目に入った。
「……私、ずっとお姉さまに謝りたかったの…」
「カレン?」
「…アレックス様のことについて…」
「それは」
ヘレンはあの日のことを、今でも鮮明に思い出せた。自分なりにグリンデルなどを頼り調べてもらったことを。そしてカレンに伝え、否定されたことを。
「……アレックス様が、お姉さまの言う通りの人だなんて信じたくなかった…。どうして私の好きになった人をそんな風に言うんだろうって思ったわ…もしかしたら、私のことを嫌っているのかも、って考えたこともあった…」
「カレン、そんなことは」
ヘレンがカレンの言葉を否定しようと言葉を発すると、カレンは首を横に振った。
「そんなこと、あるはずないのにね」
ふっと笑うその表情を見たヘレンは、その美しさにはっとした。
「お姉さまが、私を…私たちを嫌うはずなんてないのに、お姉さまはいつだって私たち家族のことを考えていたのに…。私、酷いことばかり言ったわ…」
「カレン」
「っ…ごめんなさい…許して、なんて、言えない、わ」
カレンがほろりと涙を零した。そんなカレンに、ヘレンは抱き着く。
「おねえ、さま…?」
「馬鹿、カレン。私達は双子で、唯一の半身でしょう…? 確かに、あの時カレンが私の言うことを信じてくれなくて、とても傷ついたわ…。でも、こうやって成長して、気づいてくれたのならいいの」
傷ついた過去は消えない。カレンが放った言葉がなくなることはないが、それでも癒すことはできる。時間で、会話で。たくさんの方法で、人は傷を癒すのだろう。
「カレン、強く、なって」
「お姉さま」
「アレックスになんて負けないような、泣かされないような、強い人に」
「…っ、うんっ…!」
「私がこちらに来れるかどうかも、分からない。でも、カレンにはこれから守らなくてはならない存在があるでしょう?」
「あか、ちゃん…」
「そう。その子を守るためにも、カレンは強くならないといけないわ。不安や怖いこともたくさんあるでしょうけど、相談できる人もいるはずよ」
「…お姉さまに、お手紙を書いてもいい?」
恐る恐る尋ねるカレンにヘレンは笑みを浮かべた。
「もちろん、いいに決まってるじゃない」
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「―――本当に、行ってしまったんだなぁ…」
ドナルドは、遠くなる馬車を見ながら、ぽつりと呟いた。
「…もう、簡単に会うこともできないのね…」
隣に立っているジャクリーヌは、手巾で目元を拭いながら零した。その隣では、カレンがアンドレアスを抱きしめながら言葉なく泣いている。
「そうね……」
そして母、エリザベスは毅然とした態度で立っていた。その表情に、悲しさは欠片も浮かんでいない。だが、きっと一番寂しく思っているのだろうとドナルドは思った。
確かに両親である自分たちや、カレンたちも悲しんではいる。悲しくないはずがない。生きているとわかっていても、毎日会えるわけではないのだから。だが、エリザベスは殊更ヘレンを気にしていたことを、ドナルドは知っていた。
「何かあれば、帰っていらっしゃいますよ」
背後で見守るように立っていたロドリゲスの声は、少しだけ湿っているように聞こえる。マリリンは手巾に顔を埋めたままだ。
「……忙しくなるな」
ドナルドはこれからのことを考え、喜ばしい忙しさとそうでない忙しさを胸中に思い浮かべ、苦笑いを浮かべた。
バーゲンムートの貴族であるヘレンが他国であるカロリアンの貴族に嫁ぐための書類作成と報告がある。平民であればそこまで難しいものでないが、貴族ともなれば手順が多くなる。国に申告し必要な書類を作成する。それら全てが承認されたのちにカロリアンに送付し、それをカロリアンが審査し承認しなければならない。なので、ヘレンがノアと結婚をするとすれば一年はかかるだろう。
想いを寄せ合ってすぐ結婚、というわけにはいかないのだ。
そしてカレンの出産に向けたものもある。エリザベスやジャクリーヌがいたとしても、不安に思うことがたくさんあるのだろう。だが、それでも生まれてくる子のための準備は心躍るものがある。
アンドレアスのこともある。母エリザベスがいるおかげというべきなのだろう…家庭教師を降りたグリンデルがもう一度やってくれることになったのだ。これは非常に助かることだった。彼が降りて以来、何人もの家庭教師がアンドレアスの教育に匙を投げた。そしてそれは噂にもなってしまっていた。家庭教師探しから難航かと思いきや、エリザベスが必死に頼み込んでくれたおかげで、グリンデルが戻ってくることになったのだ。
喜ばしくない忙しさ、というのは、主にアレックスのことだった。彼はカレンが出産するまで実家にいると良いとだけ言い、ろくに顔を出しもしない。それはドナルドにとって非常に腹立たしいことこの上なかった。そしていくらカレンが希望したこととはいえ、アレックスなんかと結婚させるべきではなかったとすら思わせた。
「そうね…ドナルド、貴方も、私がいなくなってもいいように、当主としてしっかりとしなければいけないわ」
「母上…!?」
母、エリザベスの言葉にドナルドは驚く。ジャクリーヌも涙が止まるほどの衝撃を受けていた。
「貴方たちもわかっているでしょう? 私は年寄りよ? アンドレアスが成人するまでなんて、とても持たないわ」
「そんな、しっかりと医者にかかりながらいれば…」
「ドナルド」
エリザベスの厳しい声音に、ドナルドは言葉を詰まらせた。しかし考えずとも、当たり前なのだ。母は高齢であり、そして子である自分よりも先に逝くことくらい、自然の摂理である。しかし知識として知っていたそれが、現実に起こることなのだとドナルドは理解できていなかった。
「お義母様…」
「ジャクリーヌ…。あなた達が頑張っていたことは知っているわ。でも、それだけじゃ駄目だったことは理解できているわね? 私の残り少ない人生で、共に頑張りましょう?」
「っ…はいっ…!」
ドナルド本人は気づいていなかったが、嫁姑に問題がないことは僥倖であった。エリザベスはジャクリーヌを嫌ってなどいなかったし、ジャクリーヌもエリザベスを夫の母として尊敬していた。
それがどれだけ素晴らしいことか、ドナルドは知らない。
「……そう、だな……母上にこれ以上心配させないためにも、ジャクリーヌ、頑張ろう」
「えぇ、ドナルド」
言葉にするのは容易いが、それがどれほど大変なことなのかくらい、ドナルドにも想像は出来ていた。それはかつての自分が、ヘレンという存在に胡坐をかいた所為でもあることも。
男として、家長として。自分はもっとしっかりしなければならない。さらに言うのであれば、貴族の当主としても義務を果たすことも必要である。その重責に負けないように、アンドレアスを教育することも。
「家族で、みんなで、頑張ろうな…」
この先きっと、幾度となく喧嘩や言い合い、意見が合わないこともあるだろう。しかしそれを放置しては、ヘレンの件の二の舞になる。相手の言葉を聞き、そして自分で意見を発し、すり合わせていくことがどれほど大変で、大切なのか。
もう二度と、愛する家族が悲しまないように。遠くへ行ってしまったヘレンが、安心できるように。…そしていずれ、子が産まれたら自分たちを愛する家族なのだと紹介してもらえるようにするために。
「さぁ、忙しくなるぞ」
ドナルドは決意を新たに、そう口にした。
「くそ、くそっ…!」
アレックスは憤りのままに手を机に叩きつけた。
「どうなっているんだ…?」
サーシャがクリストファーに殺害された後、アレックスにも事情聴取が行われた。理由は、最近まで交友関係があったためだ。しかし、クリストファーのこともサーシャが殺害されたことも自分には関係ないとしっかり発言し、ことは終わっている。
だというのに。
「どうして誰もかれも門前払いなんだ…!?」
アレックスにはサーシャ以外にも関係を持っている女性が幾人かいた。サーシャ亡き後、自分の欲の発散の為と支援を求めて彼女たちを訪ねたが、誰もがアレックスなど知らないと言って門前払いをされたのだ。
最初のうちはまだ希望があった。夜会に行けば、アレックスの見た目から好意的に受け入れてくれる未亡人や女性がいたのだから。だが、ここ最近いくら夜会に顔を出しても、誰もアレックスのことを相手にしないのだ。いや、むしろ、声をかけても体のいいようにあしらわれる、と言った方が正しいだろうか。
誰もがアレックスに声をかけない割に、彼を見るとくすくすと笑う。女性だけでなく、男性も。
マイヤー家からの支援も、カレンを戻したことにより減らされているというのに。このままでは、金だけがなくなっていく。
そんな時。
「あら、よくもまぁ、ここに顔を出せたのね?」
「? 失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
ある夜会で、年のいった夫人に嫌悪感の籠った視線と声音で声をかけられ、アレックスは戸惑いを隠せなかった。
「まぁ、本当に、最低な人ね? サーシャ様にあれだけお世話になっておきながら」
「サーシャの知り合いの方、ですか?」
そしてその夫人から、アレックスは衝撃の実情を知らされることになる。




