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⑧夢の跡地

 廊下を歩いて、いくつかの閉まったドアの前を通り過ぎ、階段をいくつか昇ったり降りたりする。そうして辿りついた部屋のひとつに、見知った顔があった。イリスだ。わたしが声をかけると、イリスは呆れたような顔で露骨にため息を吐いた。

「やっと目を覚ましたのね。ってか一週間も起きないなんて信じらんない。アホなの? 絶対にアホでしょ? このまま死ぬんじゃないかって思ったわよ」

「心配かけたよね、ごめん」

「ば、馬鹿じゃないの? 別にナナミのことなんか心配していないんだから。あんたの看病だって、別に王子に命令されたからやっただけなんだからね」

「そっか、看病してくれたのイリスなんだ。ありがとう」

「ああもう、ああ言えばこう言う! 捻くれ者、天邪鬼!」

「はいはい。それでも感謝してるんだよ?」

「もうっ、馬鹿にしてぇっ!」

 面白いなぁ、この子。ってか、捻くれ者はどっちよ。

「ところでイリス、ここはどこなの?」

 廊下が長く、階段もあったので、大きな建物の中と言うのは分かる。部屋の数は多いけれど、使っている部屋は少ないようだ。壁や天井は白く、石や木ともまた違った感じの見たことも無い材質でできている。

「石膏がめずらしいの? ここはグロリア城の中よ。城内にある部屋のひとつ。王子に言われて、ナナミが寝ている部屋のすぐ近くで待機してたのよ、一週間もね」

「ん? 『すぐ近く』?」

「そうよ、すぐ近く」

「わたし、部屋から出たあと、いくつも鍵のかかった部屋の前を通り過ぎて、階段を何回も上がったり降りたりして、ようやくこの場所まで来たんだけど?」

「あんた、部屋を出てすぐ左に出たのね。右に出てたら五歩でこの部屋の前まで来ていたわよ」

 イリスは部屋の入り口に立つと、「あそこが、あんたが寝てた部屋ね」と指差す。本当に目と鼻の先だった。

「ねぇ、ナナミ」イリスが言う。「目が覚めたらあんたを連れて来いって言われてるのよ。その前に何か食べる? 着替えも用意できてるわよ」

「ん、ありがと」

「別に。王子に会うんだから、しっかりしなさいってことよ。王子にヒドい姿のままで連れてったら、あたしが怒られるじゃないのよ」

「なるほどね。わたしがもし、王子に会いたくないって言ったらどうするつもりだったの?」

「そのときは、『ナナミを逃がしたって知られたらあたしが殺される』って嘘をつけって、王子に言われたわ。あんたの性格を伝えたら、それで逃げることは無いだろうって」

「その王子、性格悪いでしょ?」

「ちょっと、馬鹿にしないでよ。あたしの国の王子よ?」

「ああ、そっか。ごめん」

「まぁ別にいいけどね。はい、着替え!」

 わたしは服一式を受け取る。白のブラウスに黒のプリーツスカート。ベージュの薄手のセーターを羽織る。「あと、王子と会うんだからこれも」と手渡されたタイを首元で締めて、「こんなかんじ?」とイリスに聞く。

「なによ、似合わないことはないじゃない。学生とか、あと貴族の娘とかが着る服よ。あたしでも着たこと無いんだから」

 そう言ったイリスは、服装は動きやすい感じの長袖長ズボン。色は灰色で、ポケットなどがいっぱいついている。男性の着るような飾り気の無い服だ。『月の国』の兵士が着ていた服とどことなく似ている。ところで……

「イリス、『学生』って何?」

「そっか、学校なんてあるのは、うちと『穂の国』ぐらいだもんね。要は家の仕事の代わりに勉強する子供のこと。知識と技術を身につけると、将来はもっと良い仕事に就いて豊かな生活を送れるようになるのよ」

 それからイリスは二人分の食事をテーブルに用意してくれた。「いいから早く食べなさいよね」とイリスが促す。わたしは椅子に座ると、「いただきます」と、スプーンを持ってスープを一口飲む。まるで体に染み渡るようだった。「おいしぃ……」声が漏れる。自分が空腹であることを、体が思い出したようだった。味わう余裕も無く料理を口の奥に次々と放り込み、けれど舌の上を通っていく全てが今までに無いぐらい美味しかった。

「ごちそうさまでした!」

「おそまつさま。そこまで美味しそうに食べくれると、さすがに嬉しいわね」

「えっ? これってイリスが作ったの? すごーいっ!」

「べっ、別にこんなの大したことじゃないんだから! それより、そろそろ行くわよ」

 頬を赤らめたイリスが、照れ隠しのように慌てて席を立つ。

 これから会う人は、『光の帝国』の王子だ。緊張する気持ちを抑えながら、わたしはイリスに続いて部屋を出た。



 廊下を歩く間、イリスは始終無言だった。その雰囲気が気まずくて、わたしは「そういえば、これから会う王子ってどんなひと?」なんて聞いてみる。

「性格悪い人よ」

「根に持ってる? ごめんなさいってば」

「冗談。良い人よ。賢いし、それなりに力もあるけれど、ちゃんと心のある人。ときどき頭よすぎて、話についていけないときがあるけど」

「王子様と仲いいの?」

「別に、ただの幼馴染よ。小さい頃に、お城を抜け出して、よくあたしの集落に遊びにきてたのよ。名前はサティ、この国の第十三王子よ」

「王子なのに女の人なの?」

「可愛い名前だけど男よ。サティ・ジャベリン・ライトニング。ほら、謁見室はそこの扉よ。怒られることは無いと思うけど、本来、あたしとサティは身分が違うんだから、ナナミもしっかりしてよね」

「えっ、もう? まだ心の準備が……」

「開けるわよ」

 扉を守る二人の兵士が取っ手に手を掛ける。

 重たい音がして、分厚い扉が開いた。

 わたしは目を閉じて深く息を吸うと、気持ちを切り替える。再びまぶたを開けたとき、そこには『月の国』の国王の謁見の間よりもさらに豪華な部屋が広がっていた。

 広い部屋。赤いカーペットが入り口から奥の壇まで敷かれ、その先には玉座としか言い表しようの無い立派な椅子が置かれている。そしてその椅子には赤い衣に身を包んだ青年。彼がおそらく、サティ王子なのだろう。

「イリスです。ナナミ様をお連れしました」

「ナナミといいます。この度はお助けいただき、ありがとうございました」

 イリスが膝を着いて傅き、それに倣ってわたしも頭を下げた。

「ナナミさん、どうぞ頭を上げてください。イリスも。ありがとうね」

 そう言ってサティ王子は椅子から立ち上がると、壇を降りてこちらへ歩み寄ってきた。

「僕がこの城の城主、サティです。ナナミさん、こちらこそ多くの兵士を救っていただいたと聞いています。助かりました。特に、ここにいるイリスと僕は幼馴染でね、小さい頃から一緒にやんちゃをしていたんです。イリスが無事に帰ってきて本当に嬉しいんです」

 ふと気になってイリスを見ると、案の定、顔を真っ赤にしている。「ちょっ、恥ずかしいこと言ってんじゃないわよ、こンの馬鹿王子! 頭わいてんじゃないの? 死ねっ! くたばれ……じゃなくて、くたばってくださぃ失礼しました言い過ぎましたお願いだから兵士さんたち槍おろして……」そして兵士八人に槍を突きつけられて半泣きになっていた。

「槍を下ろして」サティ王子が言う。「いいんだよ、イリスはこれで」

 イリスが胸をなでおろし、しかし周りの兵士たちの刺さるような目線を浴びて再び背筋を伸ばした。とりあえずイリスが静かになったところで、わたしは「ひとつお聞きしたいのですが……」とサティ王子に尋ねる。

「サティ王子は、この国の城主と言いいましたが、皇帝陛下が城主ではないのですか?」

「ああ、そのことか。この国は僕が言うのもあれですが、広いですからね。皇帝の住む城は国の中央にあります。そのほかに、十三に分けられた地区を統治するためにそれぞれ城が配置されています。そして東端の地区の統治を任されたのが、第十三王子の僕です。ところで、こう言ってはあれですが、そんなことが疑問だったのですか?」

「ええ。まさかこの城で最も偉い人に、初めから案内されるとは思っていませんでしたから。わたしのことは聞いていますよね? どうして自ら謁見するなんて、危険な真似をなさったのですか?」

「イリスが信頼してるように思ったからです。だから、話を聞いてみても大丈夫かなって……まぁ勘ですけどね」

「……勘ですか?」

「ええ。僕の勘はよく当たるんです。それに、それを言うならナナミさん、あなたもです。この城から逃げ出そうとは思わなかったのですか?」

「じゃぁわたしも勘です。イリスが信頼している王子様なら大丈夫かと思いました。イリスは嘘のつけない子みたいですから」

 わたしと王子様が同時に笑い、イリスが顔を真っ赤にして罵詈雑言を叫んだ。「王子、目に余ります。せめて廊下に出させてください」兵士たちからの意見があり、イリスは謁見の間からポイされた。兵士たちはひとしきりハイタッチを交わしたあと、自分達の持ち場へと戻る。

「兵士から好かれているのですね、王子は」

「嬉しいことですよ、本当に。皆とてもよく務めてくれます」

 そしてサティ王子は笑った。その曇りの無い笑顔がランスのそれと似ていて、胸が痛んだ。

「ところでサティ王子。そもそもどうしてイリスは兵士になったんですか? あまり訓練を積んでいるようには見えないですし、王子の望むところでも無いような気がするのですが」

「二週間前のことです。戦争があるということで、国中の村や集落に徴兵がありました。全員ではなく、村から何人出せという類の命令です。大抵の村や集落が、徴兵される者を輪番で決めています。そのときに、大人の男達に混じってイリスがこの城に集まってきていました」

「紛れ込んだってことですか?」

「まぁそれに近いです。話を聞くと、『あたしの家は父のほかに母と妹が3人、弟が2人います。父は家にとって必要なので、あたしがきました』なんて言っていて、そして仕舞いには『喧嘩じゃ男の子に負けたことありません』ときたものです。あのときはとても困りました」

 それからふと、王子がわたしを見つめてくる。「あの……なんでしょう?」サティ王子は答えない。王子はわたしの手を掴むと、唐突に歩き出す。「あの、ちょっと……」王子は廊下に出る扉に手を掛けると、思い切りその手を押して言った。

「イリス、ようやく見つかったよ」

 サティ王子はイリスに言い放つ。

「僕が秘書を探していたのは知っていたよね。二人ほど欲しかったのだが、見つかったよ、ナナミさんがとりあえず一人目だ!」

 え? えぇぇぇぇぇっ?

 思わず声が漏れそうになる。寸でのところで留まれたのは、イリスがわたしの目の前で、わたし以上に驚いてくれたからだ。睨み半分でわたしはサティ王子に振り向く。けれど何となく、王子が何かを待っているような気がして、ようやくわたしはサティ王子の狙いに気づく。

「本当にわたしなんかが秘書でいいんですか? わたしなんかで勤まります?」

「大丈夫ですよ。城内は人手不足ですから、助かります」

「わたし、結構がさつですよ? わたしなんかでいいんだったら、よっぽど乱暴で捻くれた性格の人でもないかぎり勤まる……」それからイリスをチラッと見て、「あ、ごめんなさい。今ここで言うことではなかったですね」

「できるわよ、あたしにだって秘書ぐらいっ!」

 イリスが顔を真っ赤にして叫ぶ。あまりにも単純すぎて、わたしは必死に笑ってしまいそうになるのを必死でこらえた。

 その言葉を待っていましたと言わんばかりに、すかさずサティ王子が「ありがと、助かるよ」とイリスの手を握る。イリスが握られた手を振り払おうとしたので、「別に無理しなくていいわよ。イリスには難しいでしょ?」と少し嫌味っぽく言ってやる。

「できるわよ! わたしがやってあげるって言ってんのっ!」

 笑うのを我慢していたのはわたしだけではなかったらしく、サティ王子がお腹を抱えている。わたしと、それを見ていた兵士も一斉に声をあげて笑った。

「笑うなっ! 笑うなっての馬鹿王子っ! クズ、くたばれっ! 言っとくけど、別にあんたのためじゃないんだからねっ! ……じゃなくて、とっても光栄ですハッピーです誠心誠意勤めさせていただきますぅ槍下ろして」

 冷や冷やするわたしと、怒りで顔を赤くする兵士達を他所に、サティ王子だけがいつまでも笑っていた。



 まるで準備されていたかのように、このあとすぐ、わたしとイリスにひとつの部屋が割り当てられた。ここで寝泊りするようにと言われた部屋は、サティ王子の寝室のすぐ近くだ。きれいな部屋に、生活に必要な家具一式とベッドがひとつ。そこに、わたしのための布団が運び込まれた。ベッドはすぐに手配すると言っていたが、そこまで気を遣わせるのも悪いので断った。

 そしてこの日の夜。わたしはサティ王子の部屋を訪れて二つの頼みごとをした。

 ひとつは、数日の暇をいただきたいということ。

 もうひとつは、馬を一騎貸してほしいということ。

 行き先を問われたので、かつて『剣の国』だった場所へと答える。わたしがその国の出身であることを話すと、渋い顔で了承してくれた。

「あまりいい予感はしないけれど、君は行かなくてはいけないと思う」

 サティ王子に「それは勘ですか?」と問う。

「違う。人の道だ」

 わたしは部屋を出る。

 仮眠をとり翌日。わたしは『剣の国』があった地へ馬を走らせた。



 『月の国』より北に馬を走らせて一日の距離。『陽の帝国』より東北東の方角に、わたしの故郷はあった。『月の国』の周辺国を迂回しながら馬を走らせること三日。時刻は昼頃。大きな山の輪郭が見えてきてすぐ、どす黒く枯れ果てた大地がそこにあった。

 金色の砂漠から線を引いたように区切られた、もはや土とさえ呼べない足元。そこに残る凹凸から、かつてよく使っていた道だとわたしは知る。何度も駆け回って踏みしめたはずの大地は、馬から下りたわたしの足を力無く沈み込ませる。まるで積まれた枯れ葉の上に立っているようだった。

 視渡す。家は無い。かつての水路と畑とに囲まれて盛り上がったところが所々に四角く残り、食器や鍋、作業場の若干の道具とが見て取れる。そこに紛れて黒ずんで盛り上がったものが、人間の頭蓋の形をしていた。それが場所によっては四つや五つ。小さな三個を覆うように、二人分の腕が重ねられ、その傍らには両親のものと思しき頭があった。

「涙は……出ないか」

 悲しいとは思う。酷いと思う。惨いと思う。残酷な所業の後に残されたそこには、草木一本、羽虫の一匹すら見つからない。青いはずの空は巻き上げられた黒い灰に覆われて濁り、楽しかったはずの思い出を塗りつぶしていく。

 川だったはずの場所が埋まっているように見えて、手を伸ばす。分厚い灰の積もった下に流れの止まった水があり、その少し下流にはおびただしいほどの人間や動物の死骸が積もって水を堰き止めていた。おそらく炎に焼かれながら必死に逃げてきたのだのだろう。更に上流もこうなっているようだった。

 変わり果てた故郷を見て、それでもわたしの目からは涙の一滴も零れ落ちなかった。きっとわたしは壊れてしまったのだ。ただただ、怒りとも憎しみとも絶望とも、どれとも似てどれとも違った熱いものが胸の奥を締め付ける。

「バケモノ……」

 口を突いて出た言葉は、ただ虚空に紛れて消えていった。

 馬に積んできたシャベルを手に、更に歩く。道の脇に井戸がある。初めてあのバケモノに会った場所だ。そこからあと少しで、わたしの家に辿り着く。

 見覚えがあった。全ての景色が懐かしくて、悲しくて苦しくて恨めしくて恨めしくて恨めしくて、ただただもう憎悪しか無かった。

 この道の三軒目がわたしの家だった。

 辿り着く。玄関から家の中への段差を作っていた四角い石を跨ぐ。

 二人分の遺体。寄り添うようにした二人の間にはひとり分の空白があって、辛うじて『HappyBirthday』と読み取れる黒く変色したメダルが、あの日のままにそこにあった。こここそがわたしの帰るべき場所だったんだ。

 シャベルが手から落ちた。涙が止まらなくなった。声が出なくなる前に「ただいま」と言う。何度も何度も繰り返す。嗚咽で声が出なくなる。痛む喉を突き破って、その場にうずくまって大声で泣いた。

 気がつけば、日が暮れていた。

 もう涙は出ない。それでもすぐには立ち上がれなかった。黒くなってしまったメダルに手を伸ばし、ポケットの奥深くに仕舞う。それからシャベルを支えに立ち上がると、わたしはお父さんとお母さんの骨を拾い集めた。用意してきた大きな布に包むと、軽くなってしまったお父さんとお母さんを背負う。

 向かう先は、ここから一番近い丘の上。菜の花畑があったところだ。

「ただいま、ナナお母さん」

 丘の上に着くと、わたしは言う。丘の上には、『Nana』と刻まれた小さな岩。本当はそこから、村の景色が一望できたはずだった。ここを辺り一面、菜の花畑にしたのもお父さんだった。

 この土の下には、わたしを生んでくれたほうのお母さんが眠っている。わたしは岩のすぐ横にシャベルで穴を掘ると、そこにお父さんとミミお母さんの骨を埋めた。

「お父さん、お母さん……」

 わたしを厳しく育ててくれた父と、優しく支えてくれた二人の母。もしかしたらここに眠っているのはただの骨で、三人はもうここにはいないのかもしれない。

 『剣の国』を出てから半年の間に、たくさんの人が命を落とすのを見てきた。たくさんの人が誰かを守ろうと必死で剣を持ち、恨みが無いはずの相手に敵意を持って刃を構えるのを見てきた。わたしも一人殺した。この手で命を奪ってしまった人は、とても誠実で優しい人だった。命の重さと、命の軽さと、その両方を見てきた。この丘に来るとき、たくさんの亡骸の横を掻き分けて歩いてきた。生きることさえ息苦しく思える今ここで、ただひとつだけ嘘をつく。

「ナナミは元気にやっているよ」

 本当に、この世界には嫌気が差す。わたしが大切だと思っていたものは、黒い灰になってしまった。それでも、こんな世界でも、お父さんとお母さんがわたしを生かそうとしてくれた世界だ。幸せになれるかも分からない未来に、それでも歩めと、いっぱいいっぱいわたしを守って育ててくれた。

 だからわたしは、生きててよかったと思えるまで、生きなきゃいけないんだ。

「……ねぇ。わたし、好きな人ができたんだ」

 金色の髪に青い瞳をした少年。自分の国のために、自分を犠牲にした『月の国』の王子。

「悪い人じゃないの。とても優しい人。とっても素敵な人。だけど、その人はもうどこにもいないの……」

 本当のランスはもういない。自分の国を守るために手を赤く染め、きっと自分を責めながらもそれを繰り返し、いつしか何も感じなくなってしまった。

「死んだわけじゃない。だけど今はもう、同じようには見られない。その人はね、バケモノなの。嬉しいことも悲しいことも、何も感じることの出来ないバケモノになっちゃってたの。わたしが好きになったその人は、もうずっと前に、この世にはいなかったんだ」

 ポケットの中に手を入れる。そこにはバケモノから手渡された手鏡があった。握る拳に自然と力が入る。怒りで手が震えた。はらわたが煮えくり返って叫びだしそうなのを、怒りを、恨みを、憎しみを、けれど自分の中にぐっと押さえ込む。全てを滅茶苦茶にしたバケモノに刃を向けるそのときのために。

 わたしにとっての剣をポケットから出すと、正眼に構える。

「だからわたしが、あのバケモノを殺します」

 誓う。お父さんのため。二人目のお母さんと、わたし達の幸せを願ってくれていた、生んでくれたお母さんのために。ランスのために。そして、わたし自身のためにも。

「あのバケモノは、この世界にはいちゃいけない。もうこんな悲しみを、誰にも味合わせちゃいけない。このままじゃ許せないから、だから殺す。わたしがやらなきゃ駄目なんだ」

 たぶん、お父さんやお母さんたちが生きていたら、反対されたんだと思う。馬鹿なことを言うなって叱られたんだと思う。

「お父さん、お母さん……ごめんね。あなたたちの娘は大馬鹿者です。だけど、わたしがやらなくちゃいけないんです」

 わたしは手鏡の切っ先で、二人分の名前を岩に刻む。

「またね。近いうちに会いに行くから」

 丘を降りる。変わり果てた土を踏み、面影を残さない景色を視ながら。黒く塗りつぶされた思い出が脳裏を掠める度に、指の爪が手のひらを抉る。足が速くなる。

「……殺す」

 おかしくなりそうな頭から、口を突いて心が漏れた。

 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……

 怒りが止まらなくなった。それを振り切りたくて走る。斜面を駆け下り、少しでも丘から離れる。ここならもう三人に聞こえることは無いだろうかと足を止めたそこは、井戸がすぐ近くにある道の上。あのバケモノと最初にあった場所だった。

「殺すっ! 絶対に殺してやるっ!」

 叫んだ。

「殺す殺す殺す、ふざけんなふざけんなふざけんなっ! お父さんが何をしたっていうのよ! お母さんのどこが悪かったって言うのよっ! 良い人たちだった、優しい人たちだった! 二人がいればわたしは幸せだったのにっ! 本当の笑顔があって、優しさがあって、誰かのために汗も涙も流せる人だった。あんたの持っていないものを全部持ってた! あの家にはそれが全部全部あったのに! あんたが切り捨てた大切なものが、何もかもそこにあったのに。あんたの目には見えないものが、人間として何より大切なものがそこにはあふれていたのに。死ね、死ね、死ね、消えろ消えろ消えろ、わたしが跡形も無く消してやる! 何でお父さんやお母さんが死ななきゃいけなくて、あのバケモノは今もまだのうのうと生きてるのよ! わたしたちの全てを滅茶苦茶にしておいて、どの口で正義を語るのよ! 認めない、絶対認めないっ、あの国もバケモノも、あいつを許す奴も全て全てすべて何もかも許さないっ! 返せっ、わたしの大切な人たちを返せっ! 返せ返せ返せっ、返してっ、返してよぉぉぉぉっ!」

 声が出なくなるまで何度も何度も同じことを叫び続けた。体は疲れているはずなのに、ぐちゃぐちゃの心を塗りつぶすほどの怒りのせいで眠る気にはなれなくて。気持ちがちっとも治まらないまま、わたしは馬を留めてあるところへ向かった。



 国の外れまで行くと、留めていた馬が二頭に増えていた。

 つまりは、近くに誰かがいると言うことだ。

「……冗談じゃないっての」

 鞍についた模様を見ると、二頭目も『光の帝国』から来たもののようだが、そうしたら思い当たる可能性はとりあえず三つ。監視か、暗殺か……しかしそのどちらでもないと、すぐ近くでうずくまっている少女を見て分かる。

 黒い地面の上には吐瀉物。どうやらわたしを追って来て、そのまま国の中の様子を見てしまったようだった。わたしは息を大きく吸うと、表情と声色だけでも平静を装って、うずくまるイリスに声をかけた。

「心配かけちゃったかな。ごめんね」

「べ、べつにあんたのためじゃないんだからねっ……うっぷ」

「はいはい、イリスは意地っ張りよね」

 今度は返事をする余裕も無いようだった。余裕が無いのはわたしもだっていうのに。

 それでも、イリスが悪いわけではないと自分に言い聞かせる。イリスが落ち着くまで待って、わたしは「口をゆすいだら?」と水筒を差し出した。「貴重な水をこんなことに使えるわけ無いでしょっ!」「少しなら大丈夫よ。わたしのことはいいから」「そんなわけにぃもがががが」「貴重な水だから、無駄遣いしないでよね」「ぶくぶくぶくぶくぺっ! あんた鬼ね……」

 鬼かぁ……そうなれたら、少しは楽なのに。

 ようやく会話が途切れる。今のわたしには、作り笑いも一苦労だ。まだ指が震えているのを隠し、噛み合わない奥歯を噛み潰した。

「ナナミ、ここは何なの?」

 イリスが聞いてくる。本当は話しかけないでほしいのに。今だけは一人にしてほしいのに。なるべく苛立ちを口調に出さないようにしてわたしは答える。

「かつて『剣の国』って国があった場所よ」

「何でこんなところに来たかったの? この奥に入っていったみたいだけど、あんなものを見て、何でそんなに平気そうなのよ?」

「平気じゃないよ。たぶんイリスより、ずっと平気じゃない」

「そんなの、見てて分かるわよ。何があったのよ?」

「ごめん、黙って。今ちょっとそういう気分じゃないの」

「だからって……」

 最後まで聞くより早く、わたしはイリスの顔を殴り飛ばしていた。イリスが砂の上に倒れる。更に殴りそうになる拳を堪えて、堪えて、堪え切れなくて左手で自分の右手を押さえながら、イリスに「ごめん」と背を向ける。

「ホント、馬鹿ね」

 ふと、温かい感触。

 わたしの手が握られる。振り向くと、イリスが両手でわたしの右手を包んでいた。

「イリス?」

「だから、なんでそんなに無理して、平気そうにしてるのかって聞いてるのよ。今にも人を殺しそうな顔をしてるし、だけど今にも泣き出しそうな雰囲気もしてる。あたしでよかったら聞くからさ。どんなに重い話でも、聞くぐらいは出来るからさ。だから話してみなさいよ。ナナミは何でこんなところに来たかったの?」

 イリスの表情は引きつったぎこちない顔で、今にも倒れてしまうんではないかというほど弱々しくて、けれどもその顔に笑みを作ってくれていた。

 わたしは水を一口飲むと、ゆっくりと気持ちを落ち着かせる。

「ここね、わたしの国があったところなの……」

 酷い話をした。ときにはどう言っていいのか分からないことを拙い言葉で、ときにはどう反応していいのか分からないほど惨い内容を。何度も詰まりながら作る言葉を、イリスはじっと聞いてくれた。

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