⑥今わたしにできること
まぶたを開ける。手のひらに触れるのは砂の感触。どうやら自分はまだ砂漠にいるようだった。体を起こすと、「あ、もう起きたんですか?」とミリアが駆け寄ってきた。
陽はすでに高く上がっている。いつ眠ったのか、もしくは気を失ったのかも思い出せないまま、わたしは周囲を見回す。
『焔の国』の兵士が数え切れないほど多数。彼らすべてが、どうやら両足を怪我しているようだった。そして兵士とは別に、灰色の髪をした女性や少年、少女の姿も見える。おそらく『焔の国』の国民だろう。兵士たちの足の怪我を手当てしている。
それに紛れて走り回っているのが、リアちゃんとエミリアさん。遠くにはマドカさんとグレン様、アナさんの姿も見えた。見ると、ミリアも手に包帯を持っているので、つい先ほどまで手当ての手伝いをしていたのだろう。
「何があったの?」
ミリアに聞く。ミリアは少し躊躇ったのち、しかしゆっくりと口を開く。
「能力が暴走したんです。大丈夫、誰も死んでいませんよ」
「暴走って……わたしが?」
ミリアは小さく頷いた。
「これ、わたしがやったの?」
「仕方のなかったことです。ナナミちゃんが悪いわけではないですよ」
ミリアの話によると、『焔の国』の兵士全員の足が突然、同時に折れたのだという。
井戸のことについてはアナさんがノレイン王子に説明をしてくれて、そのおかげで現在は停戦状態。兵士たちの手当てをしているのは、『焔の国』の比較的近い村の人たちらしい。ノレイン王子も、動けるようになった兵士も忙しく駆け回っている。もうすぐ更に応援が到着するらしく、いま生きている兵士は全員、『焔の国』に帰ることができるとのことだ。
自分がやっておいて何だけれど、能力が暴走したにもかかわらず、一人も死者がいなかったのには安堵する。素直に嬉しく思う。
けれど、能力が暴走するその前。
わたしは既に人間を一人、殺めてしまっているのだ。
「そうだ、ノレイン王子から伝言です。『ありがとう』って」
「すぐそこにいるのに、なんで伝言?」
「……顔を見ると冷静に話す自信がないからって言っていました。あの兵士さんとは、幼い頃からの親友だったらしいのです」
「そうなんだ……」
ノレイン王子と目が合いそうになって、思わず目を逸らした。
わたしが殺した人には、親友がいた。奥さんがいた。もしかしたら子供もいたのかもしれない。わたしはその人の名前も知らなくて、交わした言葉も少なくて、けれど優しくて誠実な人だった。
指が震える。剣で貫いたときのあの感触が、まだ両手に残っていた。ゆっくりと次第に冷たくなっていった体温を、その体がまだ手元にあるかのように、思い出すことができる。
鳥肌が立った。寒気が背中を駆け上がった。陽の差す昼の砂漠の真ん中で、わたしは自分の体を抱いた。
「ナナミちゃん、大丈夫です?」
わたしの肩を包むように、ミリアの温かい指が触れる。
短い悲鳴。ミリアの手が振り払われる。瞳孔が開く。一瞬で跳ね上がった息。飛び退いた直後から硬直したままの体は、肩だけが呼吸をしながら上下している。手の甲にひりひりとした痛み。冷静になってようやく、さっきの悲鳴が自分のものだと気づいた。ミリアの手を振り払った記憶だけが、後悔の念となって押し寄せる。
「ごめんね、ナナミちゃん」
そう言ったミリアの目からは、涙が零れ落ちていた。
わたしのほうこそ謝らなくてはいけないと思った。けれど言葉が出なかった。ごめん、って。違うの、って。どんなにも言いようがあるのに、喉の奥からそれを出すことが出来なかった。
別にミリアを拒絶したつもりはない。自分でもどうしてか良く分からないけれど、肩に触れられて、気がつけば手を振り払っていた。怖かったのか、嫌悪感だったのか。けれどそれはミリアだけじゃなくて、たぶん誰にそうされても反射的にそうしていたと思う。
せめてそのことをミリアに伝えなくてはいけないのに。それなのに言葉が出ない。わたしは自分の足を思い切り叩き、それでようやくわたしの口は開いてくれた。
「あのさ、ミリア……」
「ごめんなさい……わたしなんかが、ナナミちゃんに何か言う資格なんて無かったですね」
「違う、そうじゃなくて……」
「わたしの手はもう、何千人って人間を殺めてきた手でしたね……ナナミちゃんといると、ついついそのことを忘れちゃって。ごめんなさい、本当にごめんなさい……わたしなんかが触れていいものなんてあるはずがないのに」
泣いていた。「ごめんなさい」とだけ言って、ミリアが走り去る。わたしは咄嗟にミリアを追いかけた。何度も転びそうになりながら砂を蹴る。手当てしている人の横をすり抜け、担架を運ぶ人にぶつかりそうになりながら、何とかミリアに追いつく。手を伸ばす。右手の指先がミリアの腕を、もう少しで掴めそうになって……
ふと、人に触れるのが怖くなった。
伸ばした手が、ミリアの腕を掴む直前で止まる。指に力を入れようとして、けれど震える指は思い通りに動いてはくれなかった。それでも叫べばよかったのかもしれない。けれど、それでもしミリアが振り返ったとして、わたしは彼女に何を言ってあげればいいのか分からなくなった。
気がつけば、わたしの足は止まってしまっていた。
目線を感じる。周囲を見回しても誰とも目が合わないのに、誰かに見られているような気がする。話し声が、すべてわたしのことを言っているような気がする。近くを通る人すべてがわたしに害意を持っているような気がして、逃げるように一歩下がったところで別の人にぶつかった。背中に氷を当てられたような悪寒と、崖の上から身を乗り出したような恐怖が同時に襲ってきて、わたしはそこから動けなくなった。
『それを武器として手に持つときも、実際に使うときも、本当によく考えて使ってください』『わたしはそんなものを持つことはお勧めできません。絶対に反対ですから』
今さら胸に突き刺さる、ミリアの言葉。わたしのことを、ミリアは本当に心配してくれていたんだ。ランスを守れればそれでいいと思った。ランスのためなら何でも出来ると思った。
だけど人を殺めるのがこんなに怖いことだったなんて、思いもしなかったんだ。
「ミリアなのよ」
背後から声。振り返るとエミリアさんがそこにいた。
「最初にナナミを置いて行こうって言ったの、ミリアなのよ。『ナナミはわたしたちに出来ないことができる』って。『だからナナミには戦場に来てほしくない』って。自分もランス様の隣に居たいって思っているくせに、ナナミにもランス様の隣に居てほしいって思っているのよ、あの子は」
わたしは俯いたまま、顔を上げることが出来なかった。エミリアさんがわたしの前まで回りこんで、わたしの顔を覗き込む。きっとわたしは今、酷い顔をしているだろう。それを笑いも哀れみもせず、エミリアさんはただわたしに手鏡を差し出した。
ランスからもらった手鏡。わたしが人を殺めてしまったときに握っていた剣。手を伸ばし、震える指で触れるのを躊躇い、それをエミリアさんはただじっと待ってくれた。
きっとわたしが目を背ければ、エミリアさんがそれをポケットに入れて持って帰ってくれるだろう。わたしの枕元かどこかに置いておいてくれるはずだ。それでもわたしは全身の力を振り絞って、手鏡を握り締めた。力の調節が出来なくて、ついエミリアさんの手から引っ手繰るような形になってしまった。足に力が入らなくなって、砂の上に腰が落ちる。手鏡を胸元で抱きしめると、まだ震えの止まらない腕でもっともっとそれを胸に押しつけた。
ふと、頭を撫でられる。
怖かった。悪寒と恐怖が背筋を駆け上がった。
けれどそれとは違う、あたたかい涙が目の奥からこぼれだして止まらなくなった。
『月の国』に戻った後も、四日ほど、眠れない夜が続いた。五日目の夕方、いつ寝たかも分からないうちに、魘されて目を覚ました。たぶん体力のほうが限界だったんだろう。
わたしが人を殺めてしまってから五日。わたしはあれから誰とも話ができていなかった。
リアちゃんとミリア、エミリアさんとも。ランスとも。みんな心配して話しかけてくれる。心配をかけてしまっているから、なんとか元気そうに振舞わないとと思うのだが、どうしてもそれが出来なかった。触れることが出来ず、目を合わせるのも怖くて、近づいてきたら思わず逃げてしまう。出掛かった声が喉から上に出てきてくれなくて、首を振っての返事だけが精一杯だった。
そんな状態のわたしを見離さないで声をかけてくれる。それでも、他人を怖がってしまうわたしに気を遣ってか、話しかけてくれる回数も、顔を見せてくれる回数も、日に日に少なくなっているように感じた。
一週間が経った。ベッドの位置をずらして、壁とベッドの間の隙間で隠れるようにして眠るようになっていた。日中もそこで、何をするでなく隠れていたりする。手の震えが止まらないまま、奥歯がかみ合わず息の調子も始終乱れたまま、けれどそこが一番、恐怖が紛れた。
食事は殆ど食べれていない。毎日リアちゃんが届けてくれるのだが、ほんの少しの野菜を喉の奥に押し込むのが精一杯だった。肉は食べれなかった。見ただけで嫌悪感がして、それでも食べなくてはとフォークで触れた瞬間、肉の感触が手に伝わり、嘔吐した。僅かな吐瀉物を吐き出し、それでも気分が悪いのが収まらなくて、随分と長い間、胃液を吐き出し続けた。そんなことがあってから、リアちゃんの持ってくる皿の上にのものは野菜だけになった。本当に、申し訳ないぐらい気を遣わせてしまっていると思う。
二週間が経った。僅か二時間程度で目を覚ましてしまうが、ようやく毎晩眠れるようになってきた。マドカさんが「少しでも体を動かしたほうがいい」と、仕事をひとつ提案してくれた。朝四時から使用人が起き出す五時半頃まで、誰もいない時間帯に薔薇園の手入れをするのが日課になった。
それでも一度、顔見知りの使用人と出くわしたときがあった。そのときは目が合った瞬間に悪寒と恐怖が背筋を駆け上がり、動けなくなった。少しは良くなっているのではと思っていた頃だったが、ちっとも進歩していなかった。挨拶してくれたのに返事が出来ず、歩み寄ってきたので思わず逃げ出そうとして足を躓かせ、ただ地面に転がって怯えていることしかできなかった。
それから一度も、朝の時間に誰とも会っていないので、もしかしたらわたしのことが使用人の間で伝わっているのかもしれない。
二ヶ月が過ぎた。もうすぐ九月も終わりだ。ときおり冷たい風が吹き、日が徐々に短くなっていた。依然として週に二回ほど眠れない日はあるが、睡眠時間が少しだけ長くなってきている気がする。
それでも今日は寝付けない日だった。わたしはいつもどおりベッドと壁の隙間に体を落とし、毛布を肩と膝にかける。じき眠れるだろうかと目を瞑るが、自分の弱さとみっともなさと、謝ることの出来なかったいろいろなことを思い出すばかりだった。
ふと、扉の開く音。聞こえてくる足音は、リアちゃんのそれでも、ミリアでもエミリアさんのものでもなかった。
絹擦れの音。わたしのベッドのすぐ横に、その人影は腰を下ろす。こっそり毛布の隙間から覗くと、そこにいたのはランスだった。
ランスは何をするでなく、ただそこにいた。わたしは息を潜めた。きっとランスはわたしが眠っていると思っているはずだから。ランスと目が合わないように、毛布の隙間を閉じる。今この時間だけは、嫌なことを思い出さなかった。
どれぐらい経ったかはわからない。再び絹すれの音がして、足音が部屋の外へと出て行く。たぶんわたしが普段、目を覚ます頃合なのだろう。
もしかしてランスは今までもずっと、わたしが眠っている間、隣に居てくれたのかもしれない。
その翌日から、誰もいない朝の薔薇園で声を出す練習を始めた。声を出すのは久しぶりだ。大きな声を出したわけでもないのに酷く疲れた。
始めてから三日目でそれはリアちゃんに見つかり、エミリアさんやミリアの耳にも入ることとなる。まだ誰かと話そうとすると声が出てこなくなってしまうが、それでも本当に僅かなわたしの回復を、三人とも喜んでくれた。
リアちゃんたちだけではない。苦労と心配ばかりかけているだけの弱いわたしに、いろいろな人が親切にしてくれる。大切にしてくれる。
けれどそれでも、時折思う。わたしに優しくしてもらう資格なんて無いのだと。本当にわたしはここにいていいのかと。
そして、受けた優しさに対してそう思ってしまう自分が醜くて、たまらなく嫌だった。
それから更に二日後。九月の最後の日。
日の出前の早朝、誰もいないはずの薔薇園に一人の人影があった。薔薇園の中央に設置されたテーブルに椅子が備え付けられていて、人影に足を組んで座っていた。
反射的に逃げようとするが、「待て」と声をかけられて、わたしの足は止まる。夜明け前で顔は見えなかったが、その声はグレン様のものだった。
「話があってきた。俺に背を向けたままで構わん、聞いてくれ。ランスについてだ」
震えていた足が止まった。あがっていた息を落ち着かせ、グレン様の言葉に耳を傾ける。
「このままだとランスが死刑になる。十一月一日、今日から三十二日後だ」
わたしは思わず振り向く。グレン様が「大丈夫なのか?」と問うが、それどころではなかった。再び震えだした足で踏ん張り、噛み合わない奥歯を噛み締め、手のひらが抉れるほどに拳を握った。グレン様は未来予知の能力者だ。断片的にではあるが、このまま進んだら辿りつくはずの未来を予見する。ましてやあのグレン様だ、伊達や酔狂でこんなことは言わない。本来ならば信じたくないはずのそれを、わたしは信じるしかなかった。
「十一月一日からの三日間、近隣諸国の代表が集まっての合同会議がある。場所は『月の国』の王宮。その初日の会議に飛び入りで入ってくる者達があり、ランスを糾弾する。顔も背格好も良く視えなかったが人数は二人だ。ランスがいままでしてきたことが告発されて翌日の議題に上がり、そこでランスの死罪が確定する。まぁ義弟はそれだけのことをしてきたからな」
糾弾――それも合同会議で。ランスが犯した罪なんて、ひとつしか思い当たらなかった。
『剣の国』を含む、七国の壊滅およびその国の人々の虐殺。
『月の国』を守ろうと、ランスが重ねた罪の数々。
それでも、わたしのところにその話を持っていたということは、ランスを救いたいということなのだろう。グレン様の表情は真剣だった。本気でランスのためを思って、グレン様はわたしのところに来たのだ。
そしてその気持ちは、わたしも一緒だ。ランスがいなければこの国は滅んでいた。ランスは偶然魔法の知識を持っていて、それを使わざるを得ない状況に追い込まれた。ランスのしたことは許されないことかもしれないけれど、『月の国』を守りたいと願うランスには、他に選択肢が無かったんだ。
「可能性のありそうな人間には片っ端からこの話をしていくつもりだ。とにかく時間に余裕は無いからな」
「――――――っ、」
また、誰かを巻き込むつもりなの?
グレン様の言葉に、わたしは憤りを感じた。
話は終わりだとばかりに、グレン様が立ち上がる。
「待って……ください!」
喉が痛む。無理矢理に肺を搾って押し出した声が、首の奥底を掻き毟った。それでもグレン様のところまで声は届かない。人と触れるのが怖い。誰かと話すのが怖い。人と目を合わせるのが怖い。自分がここにいていいのか不安で、自分がここにいると感じるのがたまらなく怖い。
けれど、大切な人を失うのはもっと怖かった。
ここでグレン様を行かせてはいけないと思った。
きっとわたしは、グレン様の思惑通り、全力でランスを助けようとするだろう。それはいい。利用されても、痛くても苦しくても、ランスのためならばわたしは別に構わない。けれどそれがわたしの周りの人間も巻き込む可能性があるとしたら、それをわたしは許すつもりはなかった。
「――ふざけないでっ!」
気がつけば、わたしはあらん限りの声で叫んでいた。
「何のことだ?」
「とぼけないでください。今度もまた誰かを犠牲にして、誰かを身代わりにするのかって言うことです!」
思い出すのは、二ヶ月前の『焔の国』との戦争だった。あのときわたしたちは、到底考えられないほどの偶然に助けられて、停戦にこぎつけた。
けれど本来、そんな偶然は起こりえるはずがないのだ。
「あのとき先陣を切って、敵右翼にマドカさんと共に切り込んだのはなぜですか? そもそもどうしてマドカさんを戦場に連れてきたのですか? マドカさんが死なないことも、二ヶ月前の戦争に負けないことも、グレン様は最初から分かっていたんじゃないですか?」
「そうだ。最善の選択肢を取らせてもらった」
「ですよね、あのときグレン様はかなり細かいところまで、未来が視えていたみたいですから。でもグレン様、実はランスたちが『月の国』を出るもっと前から、『焔の国』が待ち伏せをしていることを知っていましたよね。弓の斉射でランスたちが偶然誰も死なないことも、リアちゃんの能力が偶然あのタイミングで覚醒することも、ノレイン王子との一騎打ちのときに、ランスが殺されないことも。アナさんの露店の位置を変えたら、わたしがあのタイミングで戦場に到着することも! わたしが人を殺めてしまうことになると知りながら、わたしに剣を『まだ構えていろ』と言った。そうですよね?」
「おおむね正解だ。君に説得されてマドカを助けた直後から未来が変わった。それから三日も時間があったからな、色々と調整させてもらった。けれど俺が作った状況だとしてもなお、人を殺めてしまったことも、周囲に心配をかけてしまっていることも、ナナミ、それは君の弱さだ」
「ええ、わかっています」
「では何が不満だ?」
「納得はいかなくても、不満はありません。ただ、お願いがあるだけです」
冷たい風がながれる。薔薇の香りが頬を撫で、葉の表面についた水滴が光る。東の空が白みかけていた。もうすぐ夜明けだ。
わたしは息を深く深く吸うと、言う。
「もしわたしの大切な誰かが苦しんだり、悲しんだりせざるを得ないようなことになるぐらいなら、わたしを選んでください。もし命を失うことになっても、わたしは構いません」
変な話だ。ほんの数分前まで人と目を合わせるのも怖くてたまらなかったのに、今は命を落とすことさえ怖くないように思える。
宵闇の中で僅かに見えたグレン様の表情は、笑っているように見えた。しかし、
「それは約束できない」
それがグレン様の答えだった。
「すまないが、俺の最優先はマドカで、次が身内のランスや義父、義母、そしてこの国だ。君にまで気を回している余裕は無い。それにまだ、君に話したことで未来が変わるのかは視えない。君のほかにも可能性のありそうな人間には、片っ端からこの話をしていくつもりだ。もう能力も自在に使えるのだろう? 国でも何でも滅ぼせるほどの力があるのだから、大切なものは自分で守ることだ」
「そうですね……」
夜が明ける。朝日が差し、世界が次第に色を取り戻していく。
グレン様の言うとおりだ。能力が暴走したあのときから、わたしは能力をいつでも自在につかえるようになった。そして同時に、残っていたもうひとつの瞳も『出軌の瞳』に変わっていた。わたしはグレン様が夢に見た、『国を滅ぼす黒い髪に赤い瞳の女』の外見の条件を満たしてしまったのだ。
「国でも何でも滅ぼせるほどの力があるんですから、どんな手を使っても守らないといけませんね」
グレン様がわたしの赤い両目に気付いて、息を呑むのが分かった。沈黙が流れる。もしかしたら殺されるかもしれない。震える指でわたしは、ポケットの手鏡を握り締めた。少なくとも、生きる理由はできた。わたしはランスを助けるまで、死ぬわけにはいかないんだ。
しかしその直後、グレン様の口から思いがけない言葉が出る。
「傾国の芋女……」
「うにゃぁ!」
これはグレン様なりの冗談だったのだろうと、そう思うことにする。
とりあえず、わたしが『月の国』を滅ぼすことは無いと判断されたのだろうか。それなりには信頼されているのかなーと、そう思うとちょっとだけ嬉しくなった。
部屋に戻る。扉を開けたときに「ただいま」と言うと、みんなは目を丸くしたあと、とても喜んでくれた。
まだ人と話すのは怖い。手が触れそうになったら反射的に飛び退いてしまう。人混みなんかに行ったら倒れてしまうかもしれない。
それでも、自分なんかよりももっと大切な人たちがいる。たったそれだけのことを思い出すのに二ヶ月もかかるなんて、わたしは大馬鹿者だ。
だけどそれを思い出したから、わたしは今こうして痩せ我慢をして笑うことができているんだ。
「はい、ポニテ完成っ!」
さらに一週間後の朝。エミリアさんがわたしの髪を頭の後ろで束ねて結んでくれる。
「わたしリボンもってます♪ よかったらこれも使って」「うーん。せっかく可愛くできたのに、削光眼鏡つけなきゃいけないのはもったいないです。ってか、妙に田舎っぽくなりましたね。無理しておしゃれしてます感がでちゃってるのです」「リアちゃん言うわね……でもホント、彩瞳硝子があればいいのに」「あれは高いからだめですよ。それに、落として踏んじゃったら終わりなのです」「ふつうの眼鏡でも印象が変わるから、それでも十分じゃないです?」「むむむ……却下! つけてみたけど却下! ナナミちゃんが頭よさそうに見えちゃうから絶対駄目ぇっ!」「生きてる中でそうそうめぐり合える経験じゃないですし、たまにはいいんじゃないです? ね、ミリア姉?」「しっかり者に見えるとか煽てられて頑張るぞって思ってるときに限って、緊張して大ポカしちゃうであろうナナミちゃんに期待です」「ミリア姉、意外と黒いです……」「そういうことは、思っても言わないであげたほうが、ね? 分かるでしょ?」「え? ドジっ娘は萌えだから、褒め言葉のつもりだったのに」
とりあえずみんな酷いや……
「まぁでも、とにかく気をつけてね」
エミリアさんが頭を撫でてくれる。くすぐったくて嬉しくて、けれど少し後ろめたかった。
三日前。町の様子が見たいなんて嘘の理由をつけて、『焔の国』に行きたいとエミリアさんに相談した。エミリアさんは仕事の合間を縫って乗馬の仕方を教えてくれて、『焔の国』への地図も取り寄せてくれた。
そして今日が、『焔の国』への出発の日だった。リアちゃんとミリアにも変装の手伝いをしてもらって、あとは食料と水の準備が出来れば王宮を出ることができるところまで準備は整っていた。
「あ、お待たせ~」
〝にぱー″とした笑顔で、マドカさんが顔を出す。マドカさんが準備してくれた食料と水筒をわたしは受け取る。それから「これはデザートね」と、食料を入れた袋にもうひとつ、小さな果物を追加してくれた。
「ありがとうございます、マドカさん」
「いい? くれぐれも『焔の国』の西側から国に入っちゃ駄目よ。変装で印象はだいぶ違ってるけど、西の村の人には、顔を見られてる……ふふっ、くすくすくす……駄目っ、やっぱりこれ駄目よ。頭よさそうなナナミちゃんなんて、似合わな過ぎ! 眼鏡とかありえない、これだけは無いっ!」
「うにゃぁ! とっても失礼なのです!」
「なんてね。そんなことないわよ。それにそのワンピース、とても似合ってる」
ランスが選んでくれたワンピースを褒められて、少しだけ照れくさくなる。「がんばってくるのよ」と励ましてもらって、わたしは「はい」と頷いた。
みんなを騙しているようで、少しだけ心が痛い。嘘をついたことに対する『ごめんね』と、『ランスを絶対に助ける』という決意を呑み込んで笑顔を作った。
会えるかどうか分からない。けれど、これからランスを糾弾するであろう人のうち一人に、わたしは心当たりがあった。ランスが七つの国を滅ぼした張本人であると知っていて、かつ糾弾という手段を使うであろう人物。おそらくもう一人は、その協力者といったところだろう。
このあと、みんなに見送られて、わたしは王宮を出た。
いつもはエミリアさんがいてくれたが、一人で馬の手綱を引くのは初めてだった。
何回か危ない場面もありながら、二ヶ月前に来たときと同じ、夜明け前。ようやくわたしは『焔の国』に辿り着いた。
村に入る。村人は誰もが灰色の髪をしていた。一人だけ髪の色が違うわたしに目線が集まり、苦しい。わたしは逃げるように街を目指した。
街に行くとさらに人は増えた。市場は街の中心だ。そこまで行くと思うと気が滅入った。わたしは大きく息を吸うと、目線を合わせないようにして人の波をかいくぐる。気が狂いそうになりながら、早く終わらせたい一心でひたすら前に進んだ。
市場にたどり着く。目当てのものは思いのほか簡単に見つかった。『月の国』ではどの店でも入手できなかったものが、『焔の国』では安価で手に入った。少し拍子抜けだ。
「あれ?」
ふと市場の端を見ると、そこには井戸があった。覗き込むと、下にきらきらと水がたまっているのが見える。井戸の横には水の汲み方の説明を書いた立て札があり、その端にはこう書いてあった。
『 ナナミ アナスタシア
――我が国を救った二人の慈悲深き異邦人に感謝を捧ぐ――
――祖国の水で生きられる喜びを我等は語り継いでいく―― 』
自分の名前が書いてあり、少し照れくさくなる。
井戸を作ったのは『穂の国』の人たちだ。わたしがこの件に関わったと知っているのはノレイン王子しかいない。だからきっと、この看板はノレイン王子が立てたものなのだろう。
「さて……と」
あくびがでる。寝ずに砂漠を越えたのでもうへとへとだった。まだ昼だが、宿屋で一室借りて眠ることにする。
もしかしたらアナさんに会えるかもと期待していたが、どうやらこの辺りはもう井戸を作り終えてしまっているらしい。井戸のことについてまだお礼を言えずにいるのも、少しだけ気がかりだった。
近いうちに再会できるだろうとは思っていた。
しかしこんなに早くとは思ってもみなかった。
夕方には『焔の国』を出て、翌日の昼には『月の国』に帰ってきた。市場街の東側にある広場。そこでわたしは、ベンチに腰を下ろしている赤毛の女性を見つけたのだ。
「アナさん……」
わたしの声に、アナさんが振り向く。
「あら、ナナミさん。お久しぶりです。印象が違ったので誰だか分かりませんでした」
「うにゃぁ……やっぱり似合わないです?」
「いえ、逆に似合いすぎと言うか。初対面の人は絶対に、知的な人だと騙されると思います」
「いや、騙されるって……」
ちょっと自身なくなってきたかも。日頃のわたしってそんなにお馬鹿に見えるのかな?
「ところで」アナさんが聞いてくる。「しばらく調子が悪かったと聞いたのですが……もう大丈夫なのですか?」
「まだちょっと本調子ではないんですが、何とか動けている感じです。というか、アナさんはなんでわたしの調子のこと知ってたんです? しばらく『焔の国』にいるとばっかり思っていたんですが」
「こちらに来たのは昨日ですよ。ですけど、ナナミちゃんは有名人ですから」
それからアナさんはポケットからひとつのマスコットを取り出した。黒い髪をした女の子のようだ。
「中央広場の露店で、完売する直前にゲットした一品です。いま大人気のキャラクターなんです! で、王宮に見た目も行動もそっくりな使用人がいて時々買い物に来るってかんじで。とにかくナナミさんは有名人なんですよ」
「確かにかわいいかも……って、背中に『あほ子』って書いてあるんですけど!」
「ナナミさんはそこがかわいらしいんですよ。ぽけーっとして、のぺーっとしているときのナナミさんは最高です。でも頑張ってるときの表情は、若干怖いと言うかなんというか……」
「………………」
それは、わたしは年から年中、ぽけーっとして、のぺーっとしていたほうがいいということだろうか?
「そうだ、アナさん」
『あほ子』を手でいじりながら、「うにゃ」とか「うにゃぁ」とか言ってたアナさんが、その手を止める。
「改まってなんでしょう?」
「アナさんに会ったら言おうと思っていたことが二つあったんです。一つ目は……『焔の国』の井戸の件、ありがとうございました!」
「気にしないでください。あれはいいんですよ」アナさんが謙遜気味に言う。「わたくしの中の正義に従っただけ……って言うとちょっとかっこよく聞こえちゃいますね。わたくしがそうしてあげたかっただけなんです。たまたまわたくしがそれを出来る状況にいたので、そうしたまでですよ」
正義……
アナさんが口にした言葉に、わたしの疑念が確証に変わる。
アナさんがあのときわたしに協力してくれたのは、『月の国』を守るためでもなければ、わたしやランスたちを守るためでもない。戦争を終わらせるためだ。
わたしは息を大きく吸い込むと、意を決してアナさんに問う。
「アナさん……あなたはわたしの敵ですか?」
「わたくしは自分の中の正義に従うだけです。たまたまわたくしがそれを出来る状況にいるので、そうするだけですよ」
それは肯定だった。アナさんは立ち上がると、わたしに大きく詰め寄ってくる。
「わたくしも、ナナミさんに伝えておこうと思っていたことがあったんです」
アナさんが息を呑む。少し緊張している様子だった。けれどわたしには、ひとつだけアナさんの口にする言葉に心当たりがあった。
「もしかして、わたしが『剣の国』出身だってことですか?」
「気づいていたんですか?」
「確信を持てたのは、つい最近です」
ランスはわたしを『穂の国』で拾ったと言っていた。それが今年の四月一日のことだ。
しかし『穂の国』に黒髪の特徴を持つ人はほとんどいない。むしろそれは『剣の国』や『鋼の国』の人に見られる特徴だ。『剣の国』が滅びたのが三月末日から四月一日の未明にかけての間なので、日程的にもあっている。
「ランスは『剣の国』の郊外で記憶を失ったわたしを拾い、そして『穂の国』でわたしを拾ったと嘘を吐いたんでしょう。理由のひとつは、『剣の国』で拾ったといえば時期的に疑われてしまうから。けれどそれよりも、国を滅ぼして家族や友人を殺めたのがランスだと、わたしに知られたくなかったんだと、わたしは信じたいです」
「そこまで気づいていて、ナナミさんはどうしてランス王子を庇うんですか? 親も友人も生活も全て奪われて、記憶さえも失って……それでどうして、彼を許すことが出来るんですか!」
「やっぱりおかしいですよね。だけど家族も友人も過去の生活も覚えていない……わたしにとっては、今のこの生活が全てです。王宮のみんなも、ランスも大好きなんです」
「じゃぁもしある日突然、記憶が戻ったら?」
「それはそのとき考えます。運良く記憶が戻らないかもしれないですしね」
アナさんが深くため息を吐いた。きっと呆れられているのかもしれない。けれどもそれが、今のわたしの本心だった。
再び顔を上げたときのアナさんの表情は真剣だった。「十一月一日の合同会議で、ランス王子の罪を糾弾します」と、わたしを睨むように見ながら宣言した。
「わたくしには、ナナミさんたちがランス王子を匿っていることのほうが理解に苦しみます。人の命が皆平等とは言いません。国を守るためにその方法しかなかったと言うのも同情しましょう。けれどアレはもう、心なんて残っていないじゃないですか。アレに守る価値なんて、本当にあるのでしょうか?」
正論だ。きっとアナさんの言っていることは正しいのだろう。
けれどそれじゃぁ納得できなくて、何が何でも死んでほしくなくて、だから守りたくて。恩とかじゃない。義務感でもなければ、正義だとも思っていない。
ただ守りたくて。ただ愛おしくて。感情のこもっていない言の葉のひとつひとつが、奥底に眠る暖かいものから零れ落ちた欠片のように思えて、わたしにとってはとても大切に感じる。
失敗は許されない。何が何でもランスを守る。そう考えたときに、わたしが思いつく選択肢はひとつだけだった。
わたしが、ランスの身代わりになればいいのだ。
ランスが糾弾されるというのなら、わたしがその罪を被ればいい。ランスが悪だと言うのなら、もっと悪い人間になればいい。それでも憎しみが消えなければ、それをすべてわたしへと向けさせればいい。
恐怖はある。不安もある。それでももう迷いは無かった。喉の奥に力を込め、声を淀ませて低く低く声色を作り変えて言う。
「滑稽ね。逆に聞くけど、あの男に殺す価値なんてあると思っているの?」
「……ナナミさん?」
「目に見えているものだけを追っているうちは、見たいものしか見えてこないものよ」
ハッタリだ。けれど意味のあるものだ。震える手を抑えて隠して、顎が噛み合わないのを誤魔化しながら、くすくすと笑い続けた。
「どういうことですか?」
答えない。もう少しだけ焦るのを待つ。一か八かの賭けだったが、アナさんは声を荒げて「説明してください、何がおかしいんですかっ?」と、食って掛かってきた。どうやら成功のようだ。
落ち着け、わたし。落ち着け、落ち着け、落ち着け。そしてまた深い笑みをしながら言葉を作った。
「きっと無様な結果になってしまうでしょうけど、とっても素敵な茶番を期待しているわ」 とん、と。小さく地面を蹴る。能力を自分に使えば、通常では届かないところまで飛ぶことが出来た。わたしは背後に高く飛ぶと、ふわりと、近くの家の屋根に着地する。
そしてわたしは、数件、家を飛び移ったあと、屋根の陰に隠れた。アナさんはわたしを探して中央広場のほうへと走っていく。
心臓が激しく鼓動を打っている。殺していた息を、ゆっくりとゆっくりと吐き出した。
緊張した。わたしはもともとアホの子なのだ、嘘なんて吐き慣れていない。思い返してみると、自分で言ってて意味の分からないところもいくつかある。それをアナさんが深読みしてくれるといいな、なんてことを考えながら、腰が抜けて立てそうに無いので、とりあえずは少しここで休むことにする。
「アナさん、ごめんね……」
呟く。
残り二十三日。準備することはまだまだいっぱいある。
わたしは自分の頬を二回叩くと、笑う足に力を込めて立ち上がる。
成り行きによっては、ランスともう会えなくなってしまうかもしれない。理屈ではわかっているはずのことが、胸の奥を痛いほどに締め付けた。
次の日から、合同会議の日のための練習を始めた。場所は市場街の東の高台、内容は発声と能力を使う練習だ。日中は王宮での仕事をして、みんなが寝静まった夜中の零時ごろに部屋を抜けだす。睡眠不足では日中の活動に支障をきたすので、練習は隔日で行うことにした。
能力が完全に覚醒してからは、能力使用後寝込んでしまうことも無くなった。今思えばそれは、常識から脱線することに対して体が抵抗していたのかもしれない。
人目につかないときは能力を使って仕事を手早く片付け、会議当日に向けての準備を少しずつ進めたりもした。
そして会議当日。
「ごめんね……」
合同会議で会議場の担当になっていた使用人のうち二人を縄で縛ると、倉庫の中に隠した。わたしは「突然、人手が足りなくなった」とリアちゃんに嘘を吐き、自分と一緒に会議室の仕事へ回るように言う。リアちゃんは少し首を傾げたが、ランスの指示だと言うと頷いて付いてきてくれた。
このあとわたしは、虐殺の罪でこの国を出なくてはいけなくなる。もしかしたらもう、ランスにも会えなくなるかもしれない。それでもわたしには、こうするしかないんだ。
思い出す。馬小屋の馬を全て逃がして誰も近づかないようにし、そこに仕掛けをした。会議場の中の準備も絶対に見つからない位置に仕込ませた。この国を出るときの荷物もまとめてある。思い出せ、思い出せ。わたしは今日だけは、何一つ失敗できないんだ。
厨房で出席者と同じ数の飲み物の乗ったワゴンを受け取り、わたしとリアちゃんは会議場に入る。
そして、十一月一日午後一時。場所は王宮第一棟三階。
グレン様の宣言で、合同会議は始まった。
合同会議に出席しているのは全部で七カ国。『月の国』のほかには、『鋼の国』、『命の国』、『藍の国』、『水面の国』、『呪の自治区』、『箱の国』だ。それぞれが多かれ少なかれ、『月の国』と交流のある国々である。
わたしとリアちゃんが飲み物を運び、会場の準備の仕上げを終えたのが一時間前の午前九時。『月の国』の国王がまず入場し、席に腰を下ろす。脇にはグレン様とランスの姿があった。
控え室から来賓が案内されて入場してくる。八角形から一辺を取り去った形の大机が部屋の中央に置かれていて、席に着いた各国代表の後ろには、さらに五人ずつほど、その国の参謀や護衛、通訳が立つ。会議がまだ始まっていないときから、緊張した空気だった。
そんな中、隣に立つリアちゃんが小声で「あれ?」と呟き、わたしの服を引く。
「どうしたの、リアちゃん?」
「ナナミさん、あれ……」
リアちゃんが指差した先を目で追って見つけたのは、部屋の隅に立つミリアだった。ミリアは四隅のうち、最もランスたちに近い角に立ち、そこから部屋全体を見渡している。わたしの姿を見つけて驚いている様子だったが、すぐ気を引き締めてミリアは背筋を伸ばした。おそらくミリアも緊張しているのだろう。
「きっとランスの護衛ってことかな?」
「ですね。向こうの角にはマドカさんもいますし、間違いないと思います」
そんなことを話している間に、気がつけば定刻となっていた。
グレン様の開会宣言のあと、ランスの進行で議題は進む。最初は各国の近況報告だ。七カ国分で二時間。政治に疎いわたしにとっては眠くなってしまう話を、誰もが真剣に聞いていた。続いて七カ国間の協定について。改正案がいくつも出されては、それぞれの国家事情も含めた話し合いの中で却下され、しかしそのうちいくつかは全体の利益になると認められ、多数決により可決されていった。
そして、時刻はもうすぐ六時。初日の会議は終わりに近づいてきていた。
もしこのままアナさんが来なければと、ありえない期待が脳裏をよぎる。今までどおりの生活が送れるのなら、それがどんなに嬉しいことだろう。
「さようなら……」
「ん、ナナミさん。何か言いました?」
「ううん、独り言。ちょっと言っておきたかっただけ」
わたしはリアちゃんの頭を撫でる。何度目だろう。これが最後になるのだろうか。
いろいろとエミリアさんにも、面倒をみてもらった。全然なにも返せていないままだ。
きとミリアはわたしのことを許してくれないだろう。ミリアに嫌われるかもと思うと、それもまた胸が苦しくなった。
ランスに拾われてからの七ヶ月。悪夢に魘され、戦争を目の当たりにし、この手を血で汚した。それでもわたしにとってこの時間は、何にも代え難い楽園だった。
予定していた議題が全て終わる。
時は既に夕暮れ。窓の外は、まるで炎のように赤く赤く燃え上がっていた。
ランスが明日の予定を説明する。このあとだ。ランスが予定を読み上げ終わると同時、会議室の扉が開かれる。
「失礼します」
凛とした声。入ってきたのは赤毛の女性。普段は優しく微笑んでいることの多いその口を凜と結び、眉を吊り上げて、アナさんはそこに立っていた。
「合同会議にお集まりの皆様。わたくしに飛び入りでの発言をお許しください。場違いなことは重々承知ですが、とても重要なことなのです」
各国の護衛が一斉に動き出す。アナさんを取り囲み、中には剣を抜いている者もいた。
本来ならば、アナさんには傷ひとつ負わせることも許されない。アナさんは『穂の国』の人だ。たとえそれが一市民に過ぎなくても、『穂の国』の人間を傷つけることは国の滅亡に直結するからだ。だからアナさんは、『穂の国』の名前を出すだけで危害を加えられることはない。
けれど、アナさんはそれをしなかった。
アナさんは何も言わず、一歩を踏み出す。次の瞬間、三本の刃がアナさんの首を囲み、二本の刃がアナさんの左胸を前後から挟む。アナさんの正面に立った男は、アナさんの眉間に剣を構えた。
張り詰めた空気。それを肌に感じながら、わたしも次第に不安になってくる。まるで時間が止まったようだった。息を呑む。手の汗を握る。いざとなればわたしから、アナさんが『穂の国』出身だと言わなくてはいけないかもしれない。
しかしアナさんだけは、自分に向けられた六本の刃をものともせず、周囲の目線に怖じることも無かった。
「もしもわたくしの話が無価値だと思うのならば、その場で斬り捨ててください。それぐらいの覚悟は持ち合わせてきました」
『月の国』の国王が、会場全体を見回す。参加者の表情を見て、もしくは頷きや反応を見て、最終的にアナさんの発言を許可した。アナさんに突きつけられていた刃が下ろされる。
「ありがとうございます」
アナさんは頭を下げる。各国の護衛はそれぞれの国の代表の元へと戻り、アナさんの脇には『月の国』の兵士が二人だけ残った。
わたしはグレン様の方へ目を向ける。グレン様もわたしのほうに気づき、それから首を横に振った、まだ決行のタイミングではないらしい。
「わたしがお話しするのは、そこにいる『月の国』第二王子・ランス・ディーゼルボルグリーベント・クレセントナイト様が行った悪逆行為についてです」
それからアナさんは説明した。ランスの持つ魔法のこと。過去に七つの国を滅ぼしたこと。中には戦争状態に発展していない国も含まれること。兵士でない一般人も含めて、国民全員を皆殺しにする残虐な手口であること。それには『鋼の国』の隣国である『剣の国』も含まれること。アナさんは、自分が実際にランスの魔法を使うのを見たことを伝え、その惨状を事細かに説明した。
そしてその始終、ランスは僅かに笑みを浮かべた涼しげな表情だった。
「確かにそれが真実なら大問題だ。だが、証拠はあるのだろうな」
「証拠はありませんが、証人がいます。呼んでも構いませんか?」
「許可する」
入ってきたのは黒髪の少年だった。『鋼の国』の出身で、以前に手鏡を売ってくれた少年だ。彼はランスを指差すと、「あいつだ」と叫んだ。
「あいつがケントを殺すところを俺は見たんだ。ケントってのは『剣の国』から来た俺のダチで、路地裏に連れ込まれて、ガラスでできたみたいな大きなトゲで胸を貫かれて殺された。ちょうど『剣の国』が滅んだって、『月の国』に伝わったその日の夜だ。『剣の国』の人は皆殺しにされたんだろ? 『剣の国』出身のケントが殺されたのも、こいつが国を滅ぼした張本人だからに違いないんだ!」
証拠にしては随分と粗末で弱い。けれど、会議に集まった代表たちに疑念を抱かせるには十分だったようだ。
アナさんは「おつかれさま」と黒髪の少年の頭を撫でる。
「それともうひとつ証言があります。こちらは複雑なのでわたしが説明します」アナさんが言う。「『剣の国』の壊滅が『月の国』に報じられたのは、四月三十日の夕刻。そちらにいるグレン王子の遣いの兵士が報告したそうです。ですがその一時間ほど前に、知っているはずの無いその件をランス王子とその使用人は知っていたそうです。こちらもあくまで状況証拠に過ぎません。ですが、帳簿上は『剣の国』に出向いていないはずのランス王子がそれを知りえなかったのもまた事実です。その上、『月の国』の記録では、ランス王子は『剣の国』が滅んだ三月三十一日から四月一日に『穂の国』を視察に訪れたことになっているのですが、その事実はありません。ランス王子が虚偽の報告を行ったこともあわせると、犯人はランス王子以外にありえないと思うのですが。みなさん、いかがでしょうか?」
動揺が会議場を包んだ。ランスに注目が集まる。
ランスの口から自白が漏れれば全てが終わりだ。誰もランスを守ることは出来なくなる。わたしが決行を決意するとほぼ同時、グレン様がわたしに頷いた。
未来の視えるグレン様が頷いたのだ、必ずうまくいく。
わたしは息を大きく吸うと、
「ふっふっふっ、あはははは、あーーーーーーーーーーーっはっはっはっ!」
大きく、ただただ高らかに嗤った。狂ったように、高揚したように、そして至極愉快なように。常軌を逸脱し、誰もの視線を集めると、わたしは右手を掲げて指を弾いた。
その指のタイミングにあわせるように、各国の護衛の手足を無理矢理に操り、国の代表の首元に剣を着き付けさせる。六つの近隣諸国すべてと、グレン様、『月の国』の国王にもだ。
何人かが大きな声で喚いたので、たまたま近くにいた『呪の自治区』の代表を能力で宙に放り投げて落下させる。わたしは倒れた『呪の自治区』の代表に近づくと、顔の真横でワインの入った瓶を叩き割った。瓶の破片が顔のほうへ飛ばないよう能力で操ったが、それでも効果は絶大だったようだ。会場全体がしん、と静まり返った。
人によっては恐怖の表情を浮かべ、または平静と自分が助かる算段をしているものもいる。その中でアナさんは、眉を吊り上げたままわたしを睨んでいた。
「アナさん。結局、こうなってしまったのね」
「それが真実です。ランス王子は数え切れないほどの罪を犯しました。ランス王子が陰で行ってきた悪逆も今日で終わりです。ナナミさん、あなたが何をしようとしているかはわかりませんが、今さらなにをどうしても過去は変りません」
「当たり前のことを言わないでよ。わたしはただ、答えあわせをしにきてあげただけ。ねぇ、まだ続きがあるんでしょ? 今のじゃ足りないわ。それじゃぁまだ三十点ってところね。ぜんぜんゾクゾクしない。まだ表面しか見えていないもの」
嘘だ。アナさんが正しい。ゾクゾクはしないけれど、さっきからドキドキヒヤヒヤしっぱなしだ。アナさんには悪いと思いつつも、それでもわたしにとってはランスのほうが大事だ。騙しきるために、ランスを守るために表情を捏造り、嘘を吐く。
「ヒントよ。自分の愛する人と、話したことも無い男性、どちらかしか生かせないなら、どちらを選ぶかしら?」
「普通は、愛する人でしょうね。それが国についても言えると、そういうことですか?」
「あら、話が早くてつまらないわね。じゃぁ二問目。国ひとつを滅ぼすのは、あなたたち人間はたいてい躊躇するわよね。世間知らずの馬鹿王子に、それを決断させて踏み切らせるにはどうしたらいいと思う? ちょっと悪い人になって考えると正解するかもしれないわよ」
「……その国が悪い国だと噂を流すとか?」
「それじゃぁ弱いわね。国が悪くても、善良な国民はたくさんいるもの。人間一人を壊すのとは、ちょっとだけ勝手が違っちゃうのよ」
「その逆だろ」そう言ったのはグレン様だった。「この国を例に出して言うと、『月の国』が悪い国だと、滅ぼさせたい国で噂を流すんだ。それから義がその国側にあるよう、権力があって頭の無い馬鹿を唆すんだ。『月の国』を滅ぼせば周辺国も喜ぶとか言ってな。そして『月の国』を滅ぼしたときの利益を明確に提示し、戦争の準備をさせる。そうすればどうだ、戦争が始まれば圧倒的な力の差があるから、『月の国』に勝ち目は無い。時間制限もあるから、ランスは踏み切らざるを得ない状況に追い込まれたわけだ」
「グレン王子、あなたはまだマシみたいね」
それからわたしはまた、アナさんに向き直る。
「大体、呑み込めたかしら? あなたがいじめようとしているランス王子は、とってもかわいそうな子なのよ」
「で、その黒幕がナナミさんだとういうのですか?」
「そう聞こえなかったかしら?」
アナさんの怒りの表情に、わたしは笑みで返す。背中に冷たい汗をかきながら、震える手を隠しながら、口角を引き上げ続けた。
それからわたしは、各国代表らの座る席へと顔を向ける。
「ほんとグズよね、ヒントはいっぱいいっぱいあげていたのに。ちゃんとどの国も同じように唆して、同じ状況を作り出して、同じ方法で国土全体を滅ぼしてあげたっていうのに。それなのに、わたしの存在に気づくどころか、そこの馬鹿王子が関係しているとさえ疑いもしない。挙句の果てに、首を突っ込んできたどこぞの村娘が一番正解に近いところにいるなんて。各国代表? 合同会議? 今日の議題すべてを越すほどの大問題でしょうに、聞いてあきれるわね。それで政治だの外交だのを言ってるんだから、どいつもこいつも馬ッ鹿じゃないの?」
嗤う。自分を隠すために嗤う。
気づけなかったのはわたしも一緒だ。こんなに近くにいたのに、ランスを理解してあげられなかった。
ランスの顔を見る。ランスはまだ、涼しげな顔で微笑んでいる。きっともう、その表情以外は忘れてしまったんだ。当事者のランスにだけは、首に剣を当てたり、動きを制限するようなことはしていないのに、行動を起こす気配も無い。本当はそれで安堵しなくてはいけないのに、それを少しだけ寂しいと思ってしまった。
あとひとつだ。もう少しで、全てが終わる。
わたしの嘘も、ランスの罪も、楽しかった時間も、すべて。
「これで分かったかしら。あなたは無罪の男を吊るし上げようとしていたのよ。それを見るのも滑稽かなとも思ったけど、あの王子様はもう壊れちゃってるから反応を期待できないし。だったら直接アナさんと遊んだほうが楽しめそうじゃない?」
「ちょっと待って」アナさんが予想通りに反応する。「今、『無罪』って言いましたけれど、ランス王子が虐殺を実行した事実に変わりはありません。彼は有罪です」
「まだそんなことを言っているの? あの凡人にそんなことできるはずないじゃない」
指を弾く。同時に轟音が響く。使ったのは『焔の国』で買ってきた火薬だ。あらかじめ建物の外側に設置しておいて、能力でそれに一斉に火を点けた。
王宮の三階の壁半分が崩れる。爆発でも瓦礫でも、誰一人として怪我人が出ないように、崩れた壁と床の全てを宙に浮かせる。夕陽と瓦礫を背にしたわたしが余りに異様だったのか、誰もが息を呑んでいた。
「まったくもう、見てほしいのはこれじゃないってのに」
わたしは階下を指差す。馬小屋だ。ここにいる全員が、わたしが馬を逃がした事実を知らないはずだ。能力で馬小屋の近くに人がいないことを確認すると、わたしはそこを全員の目の前で爆発させて見せた。
先ほどとは比べ物にならないほどの爆音。宙に浮きそうになるぐらいの風が、三階まで届いた。馬小屋を中心として直径五十メートルは吹き飛び、いまだに盛大に炎が燃えている。
「アナさん、もう一回言ってあげる。わたしは人間の滑稽さが好きなの。無力であがく様が好きなのよ。あんなガキにわたしが、本当に力なんて持たせると思う?」
「この外道がぁぁっ!」
アナさんがナイフを取り出す。たぶん護身用か何かだろう。
けれどわたしにとっては、それは想定の範囲内だ。アナさんが走り出すよりも先に、能力でアナさんの手からナイフを払った。
本当にこの能力は便利だ。無力なはずのわたしが、ここまでできる。ひとつだけ欠点があるとするならば、感触があることだ。たとえナイフを握ったとしても痛くはないが、それでもアナさんの手を払ったときの衝撃や手の温かみが、わたしの手まで伝わってきていた。
能力でアナさんの首を絞める。同時に、わたしはアナさんのいる方へ手を伸ばして、周囲に分かりやすいよう演出する。別に本当にこうしなくてはいけないわけではない。それでも手のひらに伝わる感触は、気分のいいものではなかった。
「ナナミっ!」
声が聞こえる。ランスの声だった。けれど荒げるその声も、壊れるその前の彼を模倣しているだけだ。ランスに動揺している様子もなければ、怒っている様子もない。ランスはわたしに近寄ると、微笑んだまま、「放してあげるんだ」とわたしに言ってくる。
わたしは気を失ったところでアナさんを放す。どうせそうするつもりだったのだ。
だからそんなことはどうでもいい。
「どうして、でてきちゃったのよ……」
ふと漏れたのは、わたしの本心だった。
わたしは能力でランスの両足を掴む。
細い。貧しい村の子供でさえ、同じ歳になればもっと太い足をしているだろうに。
こんなちっぽけな体で一国を守り続け、背負いきれるはずの無い罪を背負い続けてきたんだ。王子という肩書きを、ランスなりに一生懸命に全うしようとしたんだ。
ああ……感じていた違和感はこれだったんだ。
心が壊れてしまってからも、誰もがランスを『王子』と呼び続けた。上辺の笑顔と、かつての自分を模倣した演技とに騙され、彼のことを本当に理解している人は誰もいなかった。
『敬語も様も付けなくて良いって』
軽い口調で言われたその言葉。出会った頃には何度も言われた言葉。他の誰かが言えば何でもないはずのそれが、ランスにとってはどれだけ意味あるものだったのだろう。
別れる前に、一度だけ聞いてみたかった。ちゃんとした答えなんて返ってこないかもしれなかったけれど、今となってはもう遅いけれど、それでも『わたしと会えてよかった?』って。そして伝えたかった、『わたしはランスに会えて良かった』って。
閉じられた唇。ランスの口がゆっくりと開く。
だからわたしはランスが言葉を作る前に、ランスの両足を握りつぶした。
骨が砕ける感触。ランスが倒れる。
「ごめんね……でもあなた、もう用済みなのよ」
こんな場合も考えて、何度も隠れて練習してきた言葉。本当に伝えたい言葉とは真逆のそれが、軋むほどに痛い。
次の瞬間、怒りに満ちた叫び声が聞こえる。リアちゃんが急いでランスに駆け寄る。倒れたランスと屈んだリアちゃんを越えて、わたし目掛けて飛んできたのはミリアだった。
避けることも、能力で捕まえることも間に合わず、わたしはミリアに殴り飛ばされる。
「ナナミちゃん、許しませんよ!」
視界がふらつく。左の頬が痛い。見ると、すぐ背後にあるはずの壁は無く、もう少しで下へ落ちるところだった。
ミリアの足を見る。きっと中の筋肉をいつも以上に強靭に改造しているのだろう。いつもと同じ外見のその足に何倍もの脚力を備えて、十メートル弱の距離をものともせずに飛び掛ってくる。わたしは咄嗟に背後へ逃れると、自分の体を宙に浮かせた。しかし同時にミリアは、床を蹴ってさらにわたしよりも高いところへ飛ぶ。咄嗟にミリアの右手を能力で捕まえるが、能力の効きが不完全で、振り下ろされる拳を減速させることしかできなかった。両腕を交差して受け止めるが、とても重い衝撃が全身を揺るがす。それでも、今度は完全に右腕を捕まえることが出来た。もうミリアはわたしを追うことは出来ないはずだった。
ミリアは自分の背中に白い羽を作ると、体勢を立て直し、そして言う。
「ねぇ、ナナミちゃん。わたしはランス様が好きです。ランス様のためなら何でも出来るし、リアちゃんやエミリアさんのためにも、同じようにできます。わたしにとってはナナミさんも、そのうちの一人でした」
ミリアの頬に、大粒の雫が流れる。
「ナナミちゃんになら、ランス様をとられても別にいいって思えました。ナナミちゃんを信じていたんです。それはわたしだけだったんですか? わたしたちだけだったんですかっ?」
すぐには言葉が出なかった。わたしも泣きそうだった。こんなことをしてもまだ、ミリアはわたしのことを『ナナミちゃん』と呼んでくれた。だんだん表情が作れなくなってきて、わたしはまた顔を隠したまま俯いて嗤う。
「そうよ。そんな当たり前のこと訊かないでよね」
「そうですか……」
ふと、頬に風を感じる。顔を上げるとすぐそこには、右腕の千切れたミリアが左手を振りかぶっていた。繰り出される拳を能力で逸らす。わたしはポケットから手鏡を取り出すと、魔法の刃を展開する。攻撃の来る気配を感じて、わたしは剣を体の前で構えると、新たに生えたミリアの右手が叩きつけられる。ミリアの右手を押し返すと同時、逆側から刃物のような形状に形を変えた左腕が襲ってくる。再び剣でそれを防ぐ。ミリアの動きが一瞬止まる。わたしは能力でミリアの胴を捕まえ、しかし放たれた蹴りまで止める余裕は無かった。
けれど、それでちょうどよかったのかもしれない。
「ランスをよろしくね」
ミリアの耳元で囁く。
わたしは蹴られ、再び会議場の床に叩きつけられる。それでもミリアの胴は上空で固定したままだ。今度こそ追ってこれるはずはなかった。
痛みで足元が覚束無い。けれど弱音を吐いている場合でもなくて、わたしは立ち上がる。
直後、重い何かに押された。
冷たい何かが腹の中に押し込まれ、頭の中が何も考えられなくなるぐらい痛みに襲われる。左の脇腹に触れると、赤くて温かくて重い水が溢れ出してきていた。
「……ケントの仇だ」
黒髪の少年の手には、赤く濡れたナイフが握られている。アナさんが持っていたものだ。
能力が解ける。
瓦礫が落ち、地面で轟音と砂埃をあげた。各国の護衛も、ミリアも、誰もが一斉にこちらに向かってくる。わたしは咄嗟に王宮の外へと飛び降りた。痛みのせいでうまく能力を扱えなかったが、着地の減速はできたようだ。
「砂埃のおかげで、上の様子は見えない……か」
けれどそれは向こうも同じなはずだ。ミリアは追ってくるかとも思ったが、その様子も無い。ポケットに手鏡をしまうと、わたしは重たい足を引きずって歩く。
「ナナミちゃんっ!」
エミリアさんの声だった。エミリアさんはわたしに駆け寄ると、ひとつの袋をわたしの手に握らせた。
「止血薬と麻酔と針と糸。使い方はメモを書いて入れておいたから!」
「えっと……なんで?」
「グレン様に渡すように言われたのよ。それから、何があってもナナミちゃんを信じてやれってね」
頭をくしゃくしゃに撫でられる。それから「急ぐんでしょ?」と背中を叩かれて、わたしは走り出した。
後ろで男の人たちの声が聞こえる。きっとわたしを探しているのだろう。予定通りにわたしは、誰も追うことの出来ない道を行く。馬小屋のあった場所、今もまだ燃え続けている炎の中だ。
あの悪夢を思い出す。誰もが死に絶えた業火の中、それでもわたしだけが生き残っていた。わたしが能力を使えば、炎の中を通り抜けることもきっと出来るはずだ。
炎に飛び込む。全く熱くはなかった。
けれど、聞こえてくるはずのない声が聞こえてくるような気がした。
熱を孕んだ風が呻るその奥から、時折、声が聞こえてくる。誰のものかはわからないけれど、聞き覚えのある声だった。苦しそうな悲鳴があがって、悲しそうな叫びが飛び交い、その中でふとわたしは、
「お父さん。ミミさん……ううん、お母さん……」
その声の主の顔を思い出した。
「何で今、よりによって、どうして今になって思い出しちゃうのよ……」
炎の抜ける頃には、声は静かになっていた。わたしは涙をこらえながら、王宮の敷地の壁を飛び越えると、用意しておいた馬に跨った。
市場を西に出て、ひたすら真っ直ぐ進む。
行く宛てなんてどこにもないまま、ただわたしは手綱を引き続けた。