⑤届かぬ声
「あ、起きたんですね?」
「うにゃ?」
辺りを見回す。わたしはランス専属の使用人が使う部屋のいつものベッドで目を覚ました。たまたま近くにいたのであろうミリアが「おはようございます。もうすぐ夕方ですが」なんて声をかけてくれる。
自分でベッドに入った覚えが無くて、わたしは記憶を辿ってみる。
睡魔に襲われながら、ランスと一緒に王宮まで戻ったことは覚えている。そのときに、ランスは生傷がところどころにある状態、わたしは土だらけの状態で、みんなを驚かせてしまったのも覚えている。そこから先を覚えていないので、そのあたりで意識が途切れたのだろう。もしかしたらあの眠気は、能力を使った反動かなにかなのかもしれない。
「ごめん、わたしどれぐらい眠ってたの?」
「二日です。一昨日の日没過ぎにランス様と一緒に帰ってきて、そのまま倒れるように眠ったナナミさんをわたしとエミリアさんでここまで運んだんです」
「そうだったんだ。ありがとうね」
ミリアが紅茶を淹れてくれる。受け取って一口すすると、少し落ち着いた気持ちになった。ミリアがわたしのベッドに腰を下ろす。
「能力、使えたんですね」
ミリアの言葉にわたしは頷く。しかし今使おうとしてみても、能力を発動させることはできなかった。あのとき能力を使えたのは、本当に偶然だったようだ。
「ミリア。わたしの能力のこと、ランスから聞いたの?」
「ううん。でも、二日も目を覚まさなかったから、もしかしてって思って。今それ使えます?」
わたしは首を横に振る。気のせいかもしれないけれど、ミリアがどこか安心したような表情をした気がした。
それからわたしはミリアに、一昨日のことを話した。ノレイン王子が襲ってきたこと。ランスがノレイン王子を殺めそうになったこと。ランスが人を殺めるのが嫌で、わたしがそれを止めたこと。それにより『焔の国』との戦況が悪化したこと。
そのあとのことはちょっと恥ずかしいから内緒にした。
「ナナミちゃん、顔が赤いですよ?」
「気のせいよ、気のせい。それよりもちょっと聞きたいんだけど、ランスが人を殺そうとしたら、ミリアならどうする?」
「『焔の国』の王子を殺そうとするランス様を止めるかってことですか? うーん、たぶん止めないです。ランス様が『月の国』の平和を願うなら、その邪魔はしたくないので」
「そっか。やっぱりミリアたちはそうだよね」
たぶんわたしもミリアも、ランスのためなんだと思う。だけど、見ているところ、大切にしている部分が少しだけズレているような気がした。
「近いうち、ナナミちゃんとは喧嘩になっちゃうかもしれないですね」
もしかしたらミリアも、わたしと同じことを感じたのかもしれない。
「大丈夫よ、きっと。わたしミリアのこと好きだから」
「そうですね。でもランス様のことを裏切ったら、いくらナナミちゃんでも許さないですよ?」
「うにゃぁ。ミリア怖ぃ!」
「がおー!」
「なにそれ。やっぱりかわいい!」
二人で目を合わせて笑った。いろいろなものを誤魔化しあいながらだけど、笑うことができた。
ふと、足音が聞こえてくる。階段を上っているようだ。たぶんエミリアさんとリアちゃんが部屋にもどってきたのだろう。
ミリアが一歩、こちらに近づく。ミリアはわたしの耳元で小さく囁いた。
「ナナミちゃん、ランス様をお願いしますね」
「えっ? 気付いてたの?」
「ええ。わたしはもう人間の体じゃないですし、手も血で汚れてしまっています。どうせわたしには……っていうのもありますけど、でも、ナナミちゃんなら良いって、ナナミちゃんでよかったっていうのも本心です」
ミリアは「ナナミちゃん、やっぱり顔が赤いですよ?」なんて悪戯っぽく言う。やっぱり少し照れてしまっているのかもしれない。
それからミリアは、「あ、ちょっと悪戯思いついちゃいました」なんて独り言のように呟くと、わたしにベッドで寝たふりをするように言った。意味が分からないまま、わたしは自分のベッドに潜り込む。うっすらと片目だけまぶたを開けて、部屋の様子を伺う。
扉の前で足音が止まった。
そしてすぐ、乱暴に扉を開けて部屋に入ってきたのはエミリアさんだ。
長く寝ていたせいか、エミリアさんの顔を見るもの久しぶりのような気がして……
「ミリアちゃんお待たせっ、タバスコもらってきたよ! じゃんけんで負けたらナナミちゃんの口に一滴。ナナミちゃんを起こしちゃった人が明日の庭掃除だからね」
満面の笑顔で、ろくでもない第一声が聞こえてきた。ってか、人が寝てる間に何てことをするつもりよ!
「リアちゃんも早く部屋に入ってきて、早くっ!」
「エミリア姉さん、わたしはそのういうのは遠慮します」
「ノリが悪……じゃなくて、リアちゃんはナナミちゃんがずっと目を覚まさなくてもいいの? そんな冷たい妹に育てた覚えは無いわよ、お姉ちゃん悲しぃ」
「ナナミさんを使って遊ぶことに反対なだけです、馬鹿姉。それに、やるなら一瓶まるごとぶちこんで確実に起こすべきです。ナナミさんは味覚音痴だから、ちょっとやそっとじゃ刺激が足りないです」
あれ? リアちゃん、もしかしてエミリアさんよりもえげつないことを言ってる?
「なるほど、一理あるわね」
無ぇよ! えっ、ってかわたし今かなりのピンチ? 一番常識があるリアちゃんの助けが期待できない今、わたしはミリアに期待をこめて目線を送る。
ミリアと目が合う。ミリアはわたしのベッドの横まで来て、そしてにっこり笑うと、
「じゃぁわたしが、ナナミちゃんの口を開けて押さえてますね」
えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!
さっきの『悪戯思いついちゃいました』ってもしかして、わたしに悪戯するってことだったの?
「姉さん、リアちゃん。準備OKです」「リア、タバスコよろしく」「了解です。エミリア姉さん、カウントダウンお願いします」「任せてっ。ああ、こういうのわくわくする。行くわよ、五ぉ、四っ」えぇっ、ってかどうしよう。寝たふりしちゃってたけど、タバスコは嫌だ! 早く起きないとっ!「三っ、二ぃ」あ、でもせっかく目を覚ますんだったら……
わたしはタイミングを伺う。そして「一っ!」と言われた瞬間、
「うにゃぁぁぁぁっ!」
起き上がる。エミリアさんとリアちゃんが、驚いて目を丸くしているのが見えた。
「やった、大成功っ! ……ん?」
そしてそれと同時に、唇に当たる重い感触。おそらく驚いた拍子に手を離してしまったのだろう、わたしの口の中には瓶の先端が飛び込んできていて、舌と喉と口の中全体に痛みにも似た辛さが広がっていく。
「ぴギョろヴれレぅらヒゃヲゐ△※k覇ガa鵺Raゲぶiiiiiiぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
汗と涙が止まらなくなり、わたしは二十分ほど悶え苦しんだ。
「まったくもぅ、起きてたなら言ってよね。人が悪いんだから」
「とりあえずそれ、エミリアさんにだけは言われたくないです」
エミリアさんに言い返す。そうしたらリアちゃんにデコピンされた。
「じゃぁわたしが言います」リアちゃんはちょっと拗ねたような顔だ。「起きたならそう言ってほしいです。心配してたんですよ?」
「ごめんごめん。でも、言いだしっぺはミリアなのよ」
「そうなのです?」それからリアちゃんはミリアを睨み言う。「ミリア姉の馬鹿」
「えー、わたしだってたまには悪戯したいんです」
「時と場合を選んでくださいって言ってるんです」
「でも、どうしてわたしだけ『馬鹿』って。ナナミちゃんだって……」
「ナナミさんはいいんです。すでに天罰が下りましたから」
わたしの口にタバスコ一瓶を放り込んだのは天罰でもなんでもなく、紛れも無くリアちゃんな気が……
「あ、そうだ」思い出したようにエミリアさんが言う。「話は変わるんだけど、目が覚めたらナナミちゃんにおつかいを頼んでほしいって、ランス様に言われてたんだった」
「ランスが?」
「うん。明後日に使う用事があるから、明日買いにいってほしいって」
エミリアさんからメモを受け取る。そのメモには、ところどころ聞きなれない名前も書いてあって、売っているお店の名前が添えてある。おそらく薬の材料とか魔法とか、そういうことに使うのかもしれない。そしてその最後に、明らかに別の筆跡で『タバスコ1瓶』と書かれていた。
「エミリアさん、これ……」
「さっきの、厨房から勝手に持って来ちゃったのよ。ついでに買ってきて♪」
「自分で買いにいってください!」
エミリアさんが拗ねたので、わざと見えるようにメモの最後の行にバツ印を書く。「ケチ」だの何だの言ってくるエミリアさんを無視して、わたしは買出しのメモを制服のポケットにしまった。
「あ、そういえばランスは?」
「またグレン様のところで、難しい話をしています」
「そうなんだ……」
日付が変ってもランスは部屋に戻らず、諦めてわたしも眠りに就いた。
結局この日、わたしはランスに会うことができなかった。
翌朝、ランスは朝食にも姿を現さなかった。
朝食後、わたしの左手の包帯をはずしながら、「もうきれいに治ったわね」とエミリアさんが言ってくれる。痛み止めを飲まなくても違和感が無く、久しぶりの感覚が戻ってきた。
「ナナミちゃん。リハビリにお皿洗い行くわよ」
「今日ってエミリアさんの当番……」
「いいじゃない、ちょっとぐらい。それに感覚を戻すのが大切なのは本当よ」
「うーん、じゃぁ頑張っちゃいます!」
そうは言ったものの、もともと手伝うつもりではいたのだ。わたしの左手が動かなかったり、調子が悪いときには、何だかんだで心配してくれたり、助けてもらったりしたのだから。
食器を厨房の端にある洗い場に運ぶ。ランスの分の食事はミリアが部屋に運んでいったので、洗う食器は四人分だ。感覚が戻ったばかりの左手が皿を取りこぼさないよう気をつけながら、わたしはエミリアさんに話しかける。
「エミリアさん。ランスって、能力者なんですか?」
「ランスがお風呂に入るのを尾行して、こっそり覗くといいわよ」
「いや、あの……てか、何でそうなるんですかっ!」
「顔が赤いわよ、想像しちゃった? ナナミちゃんったらもうっ!」
「うにゃぁぁぁっ! 覗きなんてしないのですっ!」
ふと気づくと、厨房にいるほかの使用人から一斉に見られている。わたしは「すみませんでした」と謝ったあと、エミリアさんを睨む。
エミリアさんは「ごめんごめん」なんて言いながら、わたしの頭をポンポン撫でてくる。
そしてそれから、エミリアさんは言う。
「ごめん、嘘。見ないほうがいいわ。絶対に後悔するから」
その口調はどこか悲しげだった。
「さっきナナミちゃんが言っていたことが、ツララを出すことを指すなら、それは魔法よ。ランス様って袖の長い服しか着ないでしょ? ランス様の体には、いくつも魔法式が書かれてているの。わたしがこの手で彫ったのよ」
「……もしかして、刺青?」
「痛々しくて見てなれないぐらいのね。城の中には、『気が狂っている』なんて心無いことを言う人もいる。魔法の研究とかについてもそう。全部この国のためなのに、たぶんナナミちゃんが思っている以上に、ランスの味方は少ないのよ」
ならばこの国が戦争状態になるのを何度もランスが阻止してきたと、国民全員に知らせればいい。そんな安易な考えが思い浮かび、しかしそれが、ランスが一番望んでいないことだと思い出す。
「だから、ランス様はわたしたちが支えてあげなくちゃいけないのよ」
「本当にそれで、ランスは救われるのです?」
「それはないわね。ランス様自身が、自分が救われることを望んでないから」
エミリアさんの言葉には一理ある。けれどそれと同時に、少し寂しい気持ちにもなった。できるものなら、ランスを救いたいと思ってしまったのだ。
皿洗いを終え、わたしは王宮を出る。買出しだ。メモに書かれた品物を買うには、市場街の西側の店を五箇所、東側の店を七箇所回る必要がある。重いものは無いようだが、少し時間がかかりそうだった。今が九時過ぎなので、昼までに王宮に戻るのは難しそうだ。
「とりあえず西側から行こうかな」
自分の好みの店も寄り道しながら、メモに書かれたものを買ってはまた店を巡る。途中でタバスコを売っている店があったので、一瓶買っておいた。
西側の店を全て回り、少し休憩しようかと中央広場へ向かう途中だった。
「あ、ナナミさん」
声をかけられて振り向くと、アナさんがこちらに手を振っていた。いつもと違う場所だったが、アナさんはいつもどおりに果物を配っていた。わたしはアナさんに駆け寄る。
「こんにちは。今日は西側なんですね。いっつも東側だと思っていました」
「グレン王子がこの場所を用意してくれたんです。今までより人通りが多くて大忙しですよ。あ、ナナミさんもよかったらひとつどうぞ」
アナさんが差し出してくれた果物を受け取る。甘い香りのそれを頬張ると、香り以上の甘みと瑞々しさが口いっぱいに広がった。舌の上でとろけるような柔らかい果肉は、まるで吸い込まれるかのように、喉の奥へと落ちていった。
「アナさん、とっても美味しいです! 『穂の国』ってやっぱりすごいんですね」
「ありがとうございます。でも、方法を知っていれば『月の国』の土でも、この果物は作れるんですよ」
「そうなんですね……ちなみに、どうやるのです?」
「内緒です。それを教えちゃったら、誰もわたくしの果物を貰ってくれなくなってしまいますから」
アナさんは冗談めかして言ったあとで、少しだけ『穂の国』について説明をしてくれた。
『穂の国』は情報や技術を財産と考えていて、それが漏れることは国家の滅亡を意味すると教え込まれているそうだ。『感謝される国、周りの国から「無くてはならない」っていわれる国』という立場だからこそ存続できている国だから、情報が漏れて、どの国でも同じように作物が作れるようになるのは、国家として死活問題だということなのだろう。いざというときに自害するための短刀を見せられたときには、正直その……うん、ゾッとした。
「ところでナナミさん。今日は何を買っているのですか?」
「えっとね、わたしも良く分からないんですけど」
わたしはアナさんにメモを渡す。アナさんは首を傾げたあと、「ナナミさん、からかわれていませんか?」と言ってきた。
「うにゃ? どうかしたのです?」
「どうしたもなにも……いろいろな国の言葉で書いてあるだけで、これってどれも塩と砂糖ですよ?」
「えっ? このピンク色の石も、水晶みたいな透明なのも、サイコロ型の白い塊も、不思議な融けない氷も、この茶色い液体も全部?」
「はい。岩塩と、塩の粒子の結晶。これは角砂糖と呼ばれるもので、こっちは氷砂糖。茶色の液体はカラメルシロップという砂糖水を煮しめたものです」
「えぇーーーーーーっ!」
思わずわたしは膝を付く。三時間も町を歩いて回った疲れが、思い出したように圧し掛かってきた。「元気出して」とアナさんに頭を撫でられる。
「いいこいいこ~」
「うにゃー」
「お使いご苦労様ですね」
「うぅ……アナさん、さっきのメモをもう一度いいです?」
返してもらったメモを見る。字の癖や大きさを見る限り、それはランスの筆跡だった。
ってことは、ランスがわたしをからかったってこと?
しかしすぐ、わたしはそれを否定する。その程度のことでランスが楽しいと思えるのなら、わたしだって思い悩んだりなどしない。ならばどうして?と理由を考え、そしてひとつの可能性に思い至る。
「時間稼ぎ……でも何のために?」
思い当たるのは戦争についてだ。わたしは頭の中で情報を整理する。
『焔の国』は湧き水と、果物などの作物でしか水分を賄うことができず、水不足がこのまま続くと国民の半分が死んでしまうこと。『焔の国』が『月の国』の水を奪うために戦争状態にあること。『月の国』の戦力はわたしも含めて、ミリア、リアちゃん、マドカさん、ランスの計五人がいるだけだということ。それ以上の数の部隊に一斉に攻撃されたら『月の国』に勝ち目はないということ。
だから『焔の国』が出兵する前に、こっちから攻めに行ったってこと?
けれどそんなことをしたら、『焔の国』の全戦力と正面衝突してしまうのではないだろうか? この前は二千人を五人で退けたけれど、今回はそうはいかないはずだ。『焔の国』の近くでの戦闘ともなれば、むこうの補給物資も十分だし、持久戦に持ち込まれたら勝ち目は無い。石火矢もこの前とは比べられない数が用意されるだろう。むしろ、『焔の国』の近くにランスたちが足止めされてしまったら、別働隊が『月の国』を制圧に来る。
攻めても、守りに徹しても勝ち目は無い。もしかしたら既に、『月の国』は詰んでいるのかもしれない。
そもそも、この戦争で『月の国』が生き残るには、
「『焔の国』に『月の国』と戦うだけの戦力が無くなったら……いや、違う」
そこでふと気づいてしまった。
武力の大小ではなく、戦争の勝敗でなく、しかしそれらで勝つよりももっと暴力的で、残虐な方法があることを。『月の国』に全くの被害は無く、最も安全かつ確実で、しかしこれ以上ないほど非人道的な手段の存在を。
つまり……
「『焔の国』の人口が半分になれば、戦争は終わる」
口にしただけで寒気がした。たしかにそうすれば、『焔の国』が水不足になることはなく、戦争する意味を失う。だけどそれは『焔の国』の武器を持たない一般市民を、女子供関係なく虐殺するということだ。
「嘘よ、ランスがそんなことするはずが無い……」
わたしはそれを信じられずにいると、しかしアナさんは言う。
「詳しくは分かりませんけど、ランス王子だからこそ、虐殺という選択はありえると思うのですが」
「そんな……」
しかし、考えが甘いのはわたしなのかもしれない。ランスが『剣の国』を滅ぼしたという言葉を、わたしはたぶん本当の意味で理解できてはいないのだろう。
そしてふと気づく。もしもわたしを買い物に行かせた目的が、本当に時間稼ぎだとしたら。
「ランスたちはもう『焔の国』に向かってるっていうこと?」
「その可能性は十分に考えられると思います」
言葉を失う。
立ち尽くすわたしの頬を、首筋を風が撫でた。
にぎわう町の中で、ここにはわたししかいないような感じがした。
わたしはまた置いていかれたのか……
「なによそれ……」
握っていた手の中が、ふと軽くなる。そして硬いものが割れるような音。地面に叩きつけられて滅茶苦茶になったものを更に踏みつけ、それでも気持ちが治まらなくて、これ以上閉じれないぐらいにもっともっと、掌に爪を突き立てて拳を握り締める。
言いようの無い感情が心の奥底から広がってきて、目に見える全てを塗りつぶした。
怒りじゃない。そんなものは当に超えてしまっている。自分への絶望があって、ランスへの恨みがあって、でも悲しくて悲しくて、それなのに涙が一滴も出る気配は無い。信じてもらえなかったようで悔しくて、わたしのことを大切に思ってくれている気持ちが殊のほか妬ましかった。理不尽に納得がいかず、世界も自分も滅茶苦茶にしたい衝動があって、今にもランスを殴り飛ばしたくなる。
けれど好きだからこの感情が生まれているのも分かっていて、
「ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁっ!」
だからわたしは叫んだ。
夕日に染まる丘の上で、ランスの言っていた言葉が脳裏を過ぎる。
『もし戦争になったら、ナナミは逃げてほしい』と。
きっとこうしてまたランスは、わたしの手の届かないところで罪を背負い込んでいくんだ。誰かの手を汚さないために何度も何度も、自分の両手を赤く赤く染めていくんだ。あの細い指で、わたしよりもほんの少し高いだけの華奢な体で、一体どれほどのものを守ろうとしているのだろう。
もう人を殺めてほしくなんか無い。もしまだランスがそんなことを続けようとしているなら、わたしが絶対に止めてやる。
だからわたしは、制止しようとするアナさんを振り切って走り出した。
「ランスの馬鹿っ……」
向かう先は王宮。ただ追いついたって意味が無い。進もうとするランスを無理矢理にでも止められるだけの力が必要だった。わたしは息が苦しくなりながら、それでも地面を蹴り続けた。
道端に転がる石のうち、黒く尖った小石を選んで拾う。砥石にも使われるとても硬い石だ。それともうひとつ、手に治まるサイズで大きめな石をポケットに入れる。
王宮の門をくぐり、第十三棟の階段を駆け上ると、使用人用の寝室の扉を開ける。案の定、もぬけのからだった。わたしは自分のベッドの枕元から、ランスのくれた手鏡を手に取る。今だけはその手鏡が、何よりも重く、何よりも握り心地の良いものに思えた。
わたしは手鏡を床に置くと、その横にマドカさんからもらったメモを置く。手鏡の柄を膝で押さえ、黒い石の先端を手鏡の淵に当てる。右手に大きい方の石を持って、黒い石の尻を叩いた。
自分でも驚くほどに手際よく、手鏡の金属製の枠に紋様は彫られていく。十分と経たないうちに魔法式は完成した。
「ミリア、ごめんね。でも今はこれが必要なの」
ポケットに手鏡を入れる。厨房に忍び込んで軽食を調達し、貯め置いてある水の中に水筒を沈めてそれを満たした。
そしてふと思う。『焔の国』には、わたしたちが当たり前のように使っている水が手に入らず、人が死んでいるのだと。
兵士の一人に嘘をついて馬を一頭借りる。全ての準備が整って、王宮の門を一歩出たときだった。
「ナナミさん……」
わたしを追いかけてきていたらしく、息を切らしたアナさんがそこに立っていた。
「行くつもりですか? ランス王子のところへ」
「はい。そして止めます。たとえランスと戦うことになったとしても」
「ならばご一緒させてください。お力になれると思います」
アナさんの目は真剣だった。そしてわたしも、アナさんの力を借りたいと思っていたところだったのだ。
簡単なことだ。そう思えてしまうほどに当たり前のことだ。
しかし、それが簡単ではなく、当たり前とも思えない国があったとしたら?
山には湧き水があり、果物が育ち、それらで国民の半分が生活できている。水が不足になるどころか、本来ならば水源の豊かな地方なのだろう。ならば、地下にもに十分な水脈があってもいいのではないだろうか。
だからわたしは、アナさんに問う。
「手伝ってほしいです。『穂の国』に、井戸を掘る技術はありませんか?」
アナさんはきょとんとした顔をし、しかしすぐ意味を察してくれたのか、真剣な顔で首を縦に振ってくれた。
「あります。水脈探知も土を深く掘削することも任せてください」
アナさんの「これで戦争が終わるんですよね?」と言う言葉に、わたしは頷いた。
馬に乗ったことがないこと話すと、アナさんが馬の手綱の握ってくれることになった。わたしがアナさんの後ろに座ると、馬は走り出す。
出発はランスたちと、二、三時間は差がついてしまっただろうか。
「ナナミさん」アナさんが言う。「どうして井戸のことに気づけたんですか?」
「前に『焔の国』の人……というか王子とその護衛だったんですけれど、会ったことがあるんです。そのとき、護衛さんたちが井戸の水の汲み方を知らなかったのを思い出して、もしかしてって思ったんです。でもまだ、自分でも言っていて信じられないんです……そんな簡単なことで?って」
「ですが、それを知らないがために滅んだ国も、かつていくつもわたくしは知っています。ひとつの知識や情報、技術は、ときに国ひとつを傾けるほどの力を持つんです。だからこそ、わたくしの国は情報を大切にします。『穂の国』には水脈を正確に測り、深くまで土を掘削する技術があります。その技術を教えることはできませんが、『穂の国』の人間が『焔の国』に行って掘ることは可能です。わたくしの出身の集落と、隣の集落ぐらいまで声をかければ、かなりの数を掘れると思います」
「つまり、それを伝えれば……」
「ナナミさんがランス王子を力ずくで止める必要も無く、この戦争は終わります。『焔の国』には責任を持って、『穂の国』の者が井戸を掘りにいきますので」
「ありがとうございます、アナさん」
「いえ。人が亡くなるのは悲しいことですから」
『月の国』の東の端で馬に爪蹄を履かせ、わたしたちはさらに東へと砂漠を往く。
アナさんに聞いたところ、ランスたちが『焔の国』に着くのはおそらく夜の二時ごろらしい。おそらく夜襲を仕掛けるつもりなのだろう。わたしたちが『月の国』を出たのが、ランスたちの二、三時間後なので、追いつくのにもそれぐらいの時間差ができてしまう。ランスたちがある程度の時間を準備に費やすとしても、それが三時間も掛かるとは考えづらい。それでも間に合ってほしいと願わずにはいられなかった。
陽は暮れ、昼間とは一変して辺りが冷え込む。変らない景色の中を、月明かりと方位磁針だけを頼りにひたすら馬を走らせた。
どれぐらい時間が経っただろうか。目の前の景色に少しだけ変化があった。
砂埃だ。風の音に混じって、次第に人の声聞こえてくる。多くの鼓舞し叫んでいる声が重なり、押し寄せてきているようだった。
「なんで……」
そこでは、戦争が始まろうとしていた。以前に見た二千人の軍勢にと比較して、『焔の国』の兵士の数はその数倍もあるだろう。
「一万二千人……といったところでしょうか」
アナさんが口にした『焔の国』の兵士の人数は、『月の国』の人口の半分だ。改めて、その人数の多さを認識する。咄嗟に用意できる人数でないことは、軍事に詳しくないわたしにも分かった。
「まさか、待ち構えられていたってことですか?」
「そういうことだと思います。しっかりつかまっていてください!」
不穏な気配を感じた。それはアナさんも同じだったようで、馬は大きく加速する。
虐殺に来ると読んだ一手。時間まで予測して周到に練られた準備。ランスの出方を知る人物に、心当たりは一人しかいなかった。
この采配は、ノレイン王子だ。
そもそも、わたしは能力を使った反動で三日も眠っていた。ノレイン王子とランスが戦ってから五日目になる。兵力を分散させて『月の国』攻め込むならば、その間にできたはずなのだ。もしノレイン王子がその策よりも、今の状況を選択したのだとしたら……
「ランスたちに勝ち目は無い。このまま戦っちゃいけない……」
「ナナミさん、能力は使えますか?」
「だめ。さっきから試しているんですけど、全然発動しないんです」
戦場はまだ遠い。詳細が分からないかわりに全体像が良く見えた。
ランスたちが一箇所に固まっていて、その東側を半月型に迎え撃つように『焔の国』の兵士が構えている。
途端、大きな爆発音が響く。
石火矢だ。『焔の国』の兵士の最前列と、最後列に組まれた台座の上のをあわせて四十八門。それらが一斉に火を噴いた。しかしそれはランスたちのいる場所まで届くことは無く、ただひとつの巨大な影に阻まれる。
その巨体は、まるでトカゲかワニを二本の力強い足で立たせたようだった。切り裂き握り潰すことに長けた二本ある腕と、自在に振り回される三本の尾と、何よりその巨体を力任せに宙へ浮かせる大きな翼がついていた。長い首の先には、地上の生き物のどれとも似つかない、尖り、歪み、それでいて重く威圧感のある頭をしていた。
「ドラクル……」
アナさんが呟く。
ドラクルとは空想上の生物だ。
けれどわたしは、その生物の本当の名前を知っている。真面目で頑張り屋で、ちょっと抜けてるわたしの仲間。幾度も、何百回も鉄球を受けながら、ドラクルに姿を扮した泣き虫な少女は足を踏ん張り続けていた。
「ミリア……」
ミリアの体の陰にいるのは、ランス、エミリアさん、リアちゃん、マドカさん、そしてグレン様の五人だった。現状では五人には石火矢への対抗策がないように思えた。
グレン様ならば能力で、迎撃のことを予知できたのではないのだろうか? もしくは、わたしのように能力を自在に使えるわけではないのかもしれない。
ようやくランスたちの声が聞こえるところまで近づく。もう少しだ。
「二十三秒後、脇目も振らずに走って来い」
えっ?
グレン様の声。しかしそれはわたしに向けられたものではなかった。
グレン様はミリアの陰から飛び出すと、敵軍の左翼へと駆ける。途中、加速と減速を繰り返し、石火矢をぎりぎりのところでかわしながら、ついには敵兵の中に斬り込んだ。なるほど確かに、そこならば石火矢を撃ちこむことができないはずだ。
そして、おそらくはグレン様が駆け出してから二十三秒後。グレン様を追ってマドカさんは走り出していた。まるで偶然のように、マドカさんには砲弾が一撃も当たらない。敵軍が近くなるとマドカさんは腰に差したフライパンを手に取る。敵兵が振り下ろす刃をフライパンですべて受け切り、すぐさま横薙ぎの一閃。自分より一回りも二回りも大きな兵士を一度に五人ほど倒して、マドカさんも敵兵の群れの中へと消えていった。
「マドカさんたち、大丈夫かな……」
「お二人がご一緒なら大丈夫ですよ。それよりナナミさん、もうすぐです」
「はい!」
わたしとアナさんがランスたちの元に辿りつくまで、あと十秒と掛からないだろう。けれどその僅かな時間が待ちきれなくて、わたしはランスの名前を叫んだ。
「ナナミ、どうしてここに……」
「見て分かるでしょ、追って来たのっ! のけものぼっちーにされて、ちょっと寂しかったんだから」
「のけものぼっちーって?」
「とにかくわたし怒ってるんだからね。ランスの馬鹿ぁ!」
ランスにパンチしようとした手は、しかしアナさんに掴まれて止まる。「ナナミさん、それよりも伝えなきゃいけないことがあるんでしょ?」と窘められ、わたしは本来の目的を思い出す。
「そうだ、ランス。実は……」
「ごめんナナミ。その前に五十メートルほど後退する。それで石火矢の射程からは外れるはずだ。みんな走って!」
ランスに続いて、リアちゃんとエミリアさんも走る。わたしとアナさんもそれに続いた。そしてわたしたちが、石火矢の射程から外れたことを確認し、ミリアは翼を大きく羽ばたかせると、空を飛んだ。
砂埃が舞う。敵軍の姿が全く見えなくなり、しかしそれは相手も同じだったようだ。
『焔の国』の攻撃の手が止まっているこの間に、わたしはランスに説明をした。『焔の国』には井戸がないこと。地下には水脈があり、井戸を作ることは可能なこと。井戸を掘るのには『穂の国』が協力してくれること。それを『焔の国』に伝えることができれば、戦争する必要はもうないということ。
「だから、ノレイン王子と話さえできれば……」
それで、戦争は終わる。みんなが危険になることも、敵の兵士が死ぬこともない。
そして何より、ランスがこれ以上、人を殺めなくて済むはずだ。
もう悲しいとか、苦しいとか、そういった感情をランスは持ち合わせていないのかもしれない。罪悪感なんていままでたくさん感じすぎて、壊れて分からなくなってしまっているのかもしれない。
それでもわたしは嫌だ。ランスが人を殺めるところは見たくなかった。
ランスがどこか遠くへ行ってしまうようで。ランスが暗い沼へと、深く深く沈んで行ってしまっているようで。いつかわたしの知らないところへ行ってしまう……声も届かないようなところへ消えて行ってしまう。
それを繋ぎ止めたい一心で、一縷の希望を託す思いで告げた言葉はしかし、
「ごめんね」
「――――――っ、」
届かない。わたしは息を呑む。ランスの貼り付けたような、いつもと同じ優しく整った笑顔。『ごめんね』という言葉よりも、その表情のほうが何倍も悲しかった。
「もうそういう局面じゃないんだ。話し合いができた段階は、とうの昔に過ぎてしまったんだよ」
ランスの指示で、わたしたちは立ち止まる。砂の上を移動したから感覚が掴みづらいが、二百メートルは移動しただろうか。再び敵軍に向き直り、全員が構え終わる終わらないかと言うときだった。
聞こえてきたのは、爪蹄を履いた馬が砂の上を駆けてくる独特の音。次の瞬間、砂煙を掻き分けて現れたのは、頬に二本傷のある男――ノレイン王子の護衛だった兵士だ。二本傷の男は左手に持った二本の槍を構えると、わたしとアナさんの乗る馬の脇腹に刺した。
「えっ……きゃぁっ!」
咄嗟に漏れた声は、わたしのか、それともアナさんのものだったのか。しかし直後、わたしは腕を引かれる。突然のことに抗う余裕もなく、いつの間にかわたしは二本傷の男が駆る馬の背に乗せられていた。
「えっ、どういうこと?」
「ノレイン王子から、あなただけはお守りするようにと仰せつかってきました。できればもう一人の、『穂の国』の女性も確保したかったのですが」
二本傷の男は淡々と答える。
大丈夫だ。何となくだけれど、命令なんかなくても、この人はわたしに危害を加えないような気がした。ランスたちの後方、さらに五十メートルほど離れたところで馬は止まる。目の前で戦争が起こっているというのに、わたしは馬から降りるのを敵兵に補助されて、「お怪我はありませんか?」などと心配もされている。
「ナナミちゃんを返しなさい」
エミリアさんの声だ。エミリアさんはナイフを構え、その横ではリアちゃんもこちらに向き直っている。二人は怒りの形相で、わたしを捉えている男を睨んでいた。
「心配はするな、危害は加えない。人質に取るつもりもない。何ならそちらの赤毛の女性も、こちらでお預かりしようか?」
「何を……信じられるわけないでしょ!」
「ですね。わたしたちの友人を返してください」
徐々に喧嘩腰になっていく。わたしを捉えた兵士にはそんなつもりはないのかもしれないが、今の状況はいささか良くない気がしていた。エミリアさんとリアちゃんの注意がわたしに向いているということは、ランスが事実上、孤立しているということだった。
直後、弓のしなる音。
砂煙で視界が定かでない中、闇雲に射っているのだろう。それでもあの敵兵の数だ。尋常ではない数の矢が砂煙の中を突き抜けてランスたちへと降り注いだ。
「逃げてっ!」
叫ぶ。しかし遅すぎた。走り出したエミリアさんの足を一本の矢が貫く。倒れたその体に、さらに三本の矢が刺さるのが見えた。リアちゃんも同様に、お腹に二本の矢が刺さり、こめかみと肩口も矢が掠ったようで、血を流している。二人とも息はあるようだ。ランスとアナさんの様子は、ここからでは見ることはできなかった。
しかし矢は止まらない。狙いが定まっていない、しかし無数に降り注ぐそれは、いつまた当たるかわからない。
わたしは叫んだ。ランスの名を。目の前で倒れた二人の名を。この戦争を止めたいと言って付いてきてくれた女性の名を。羽交い絞めにされた体は言うことを聞かず、今必要なはずの能力は発動の気配さえ見せやしない。もうやめてと、みんなを助けてと、わたしは声を上げ続けた。
突如、突風が吹く。
人がさらわれて、宙に浮くのではないかというほどの風だった。再び突風が吹き荒れるのに重なり、轟いたのは咆哮。ミリアだ。ミリアが翼で風を起こしたようだった。矢の起動が逸れ、それらは敵陣の左翼へと降り注いだ。
矢が止まる。しかし第一射が終わっただけだろう。必ず次が来る。
砂煙が突風で吹き飛ばされ、視界が晴れる。数千本の矢が降り注いだ地面の上で、青い服の少年が立ち上がる。
「ランス……」
わたしは少年の名を呼び、しかしふと気づく。
少年は無傷だった。
五本ぽっちのツララが、二十は優に超えるであろう矢を的確に受け止めていた。まるでどこに降るか分かっていたかのように、刺さるはずだった矢の悉く全てを受けきっていたのだ。視界の良い場所であっても、逸れは神業だと言うのに。ならば視界の悪い中で起こったそれは、明らかに異常だった。
だとしたら、そんなことができる人物に、わたしは一人しか心当たりがなかった。
「……グレン王子」
あらかじめグレン様が、矢が刺さる場所をランスに指示していたのだろう。ランスは砂の上に倒れたアナさんを助け起こす。アナさんも無傷のようだ。ランスが指示したようで、アナさんもこちらに向かって走ってくる。
「じゃぁもしかして、リアちゃんとエミリアさんが死なないことも、全部分かってたってこと?」
エミリアさんにはあわせて五本の矢が刺さっていて、立つこともできない様子だった。今はまだ息はあるようだが、命に別状がないかはわたしには判断が付かなかった。しかしそれ以上に心配なのは、腹に二本も矢が刺さったリアちゃんのほうだ。わたしの位置からでも、酷い出欠であることが見て取れる。本来ならば立てないような傷でも立ち上がり、バランスを崩したところでアナさんが咄嗟にリアちゃんを支えた。
「……あの馬の近くまで……連れて行ってほしいんです」
息も切れ切れな声で、リアちゃんがアナさんに頼んだ。アナさんが頷くと同時、第二射を指揮する掛け声と、無数の弓が弾ける音。しかし背後からの突風で矢は一本もこちらに届くことなく、落ちる。いつの間にかわたしの上空に移動していたミリアが、翼で風を起こしたのだ。
第三射、第四射が同様に無効化される。ミリアの力は圧倒的だった。だが、ミリアの表情は相当に苦しそうで、もしかしたら限界が使いのではないかと懸念する。それまでに弓の届かないところまで、さらに後退する必要があった。
「うっ……」
ふと、鼻を突く異臭が届く。
見ると、包帯をはずしたリアちゃんが、左手を倒れた馬の首元に当てていた。そして信じられないことに、リアちゃんは自分の腹に刺さった矢を力任せに引き抜いたのだ。
血を吐いた。相当に苦しそうだった。けれど本当に信じられないことが起こったのは、そのあとだった。
「……ごめんねです」
リアちゃんが、腐食し崩れ落ちゆく馬に謝る。それからリアちゃんは右手を自分の腹部へと当てた。
「……えっ?」
それはまるで、生命力を吸い取るという表現が正しいように思えた。
じわじわと腐敗していく、馬の肉体。まるでそれにあわせるかのように、リアちゃんの腹部の傷が塞がっていくのだ。
アナさんがエミリアさんの体をリアちゃんのところへと運ぶ。おそらくリアちゃんが指示をしたのだろう。リアちゃんが同じように、右手でエミリアさんの体に触れると、エミリアさんの怪我はあっという間に塞がってしまった。
「何だあれは……」
頬に二本傷の兵士がわたしに尋ねるが、わたしもあんなのは初めて見る。ただ驚きの余り、思うように言葉が出なくて、わたしはただ首を横に振るしかできなかった。
リアちゃんが立ち上がる。
「ミリア姉、ありがとうです。もう大丈夫だから」
そう言ったリアちゃんの瞳。左目だけが赤かったはずのリアちゃんの瞳が、いまは両方ともその色になってしまっていた。
リアちゃんが自分の左胸に右手を重ねる。傷口もなく、透き通るように握りだしたのは、血のように赤く輝く歪な結晶だった。リアちゃんがその結晶に息を吹きかける。
次の瞬間、リアちゃんの左腕の肩から先が、まるで一瞬で煙にでもなったかのように消えたのだ。
「リアちゃん、腕っ!」
「大丈夫です、ナナミさん。砂のように細かく散っているだけですから」
弓の弾ける音。続く第七射。
しかし放たれた数千本の矢は一本たりとも標的に届くことはなかった。矢はランスたちの上空で、握りつぶされた乾いた枯葉のように砕け、火の点いた葉巻のように形を失い、巻き上げられた砂のように細かく散り散りになってその質量さえも見失う。
「生気を奪われてるんだ……」
唐突に理解する。リアちゃんの腕は灰のように細かい破片になり、上空で防御壁のように散らばっている。それが飛んでくる矢のひとつひとつを原形もとどめないほどに分解しているのだ。きっと今、生物がそれに触れたら、一瞬で腐ってしまうだろう。
これは異様な光景だ。『焔の国』の兵士からみたら、特にそうなのだろう。兵士たちが動揺しているのか、次の矢が来るタイミングが僅かに遅れる。
「撃ち続けろ!」
聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。ノレイン王子のものだ。
「矢が消えるのは敵の能力者の仕業だ。能力者をあの場所に釘付けにしろ。石火矢の移動が済むまで、一歩たりともこちらに近づけるな!」
現状、敵軍の陣形は大きく崩れている。弧状になっていた陣形の右翼はグレン様とマドカさんのおかげで壊滅状態。左翼はミリアが飛ばした弓のせいで、そちらも戦力が大幅に下がっている。
また、石火矢の射程は三百七十メートルほどだ。ランスたちが後退したことによって、中央の敵からの距離は四百メートルほどになっていた。後退したランスたちを追うように、弓兵部隊が突出して百メートルの距離まで追ってきていて、残った『焔の国』の兵は右翼の援護と、ランスたちの右後方から回り込もうとする部隊とで分かれていた。
ふと。矢が砂に刺さる音。
見ると、リアちゃんはかなり慰労しているように見えた。
「もしかして、能力の限界……」
リアちゃんの作った防御壁をすり抜けて、数本の矢が砂の大地まで届く。もうそんなに長くはもたないかもしれない。幸いまだ誰にも矢は当たってはいないが、それも時間の問題だった。
「更に後退する!」ランスが叫ぶ。「合図をするまで走って」
「弓兵部隊は追え! あと二分間、あいつらに何もさせるな。それで我らの勝ちだ!」
ランスたちが後退する。それにあわせてわたしも、「暴れないでくださいね」「えっ、きゃっ!」二本傷の兵士の肩に担がれて移動させられる。足が地に着かず、顔は後ろ向き。前も見えない状態で不安定に運ばれるから怖い。しかも、わたしの腰のすぐ横に兵士さんの顔があるんだけれど!
「あの、恥ずかしいから次からは手を引くぐらいで……」
「これが一番確実なんです。我慢してください。俺もこんな姿、妻には見せられないですよ」
「うぅ……」
しかしふと、気づく。
ランスが立ち止まった。移動した距離が五十メートルほどのところだ。ランスが左手を掲げる。親指と中指を重ね、指を鳴らす構え。
違和感がした。不吉な予感もした。敵に振り向いたランスの表情は見えず、ただ、その背中がいつも以上に小さく見えた。
リアちゃんたちを追う弓兵舞台は止まらず、ランスから百メートルの地点に差し掛かる。そこはわたしが到着したときに、ランスたちが最初に構えていた場所だ。
思い出す。どうして早く後退しなかった? ミリアの背を盾にして石火矢を防いでまで、どうしてあの場所に拘った? そこから移動したのは、何かの準備が整ったからではないのだろうか?
だとしたら、あの指はツララを作る魔法じゃない。左手の指が鳴った瞬間に起きることは、もっともっと凄惨な何かだ。
「本当は歩兵部隊も来てくれていれば、話は早かったんだけどな」
そう呟きながら、ランスが親指と中指に力を込める。
「駄目ぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
叫んだ。その音は、それ以上の爆発と熱風に掻き消された。
体が宙に浮き、砂の上に投げ出される。
視界は一瞬で真っ白く染まった。まぶしさに目が慣れてようやく見えてくるのは、微かな黄色い火の粉。聞こえてくるのは、悶え苦しむ無数の声。それらも十数秒経てば全く聞こえなくなり、風がうねる音が辺りを包み込んで、次第に炎が赤色に染まっていく。どす黒い煙が立ち上り、僅か一分ほどで完全に炎は消えた。
直径約百メートル。砂さえ黒く染める炎の跡は寸分狂いのない円形をしていて、その中にいたはずの千二百人ほどの弓兵は、そのすべてが黒く灰となって、すでに人間としての原形をとどめてはいなかった。
誰もが手を止め、誰もが言葉を失っていた。
おぞましい光景だった。骨だけになり、それさえも熱で歪んでしまっているモノ。ミイラのように皮も肉も炭になってしまっているモノ。逃れようと這い出して、左腕と首から上だけが残っているモノ。もはや人としての姿を失った千二百人は、そのすべてが悶え苦しみ、逃げ出そうと必死になり、それが叶わなかったことを黒い亡骸たちから見て取れた。
胃の奥底から溢れ出しそうなものを必死で堪える。頭が割れそうに痛む。あの夢の光景と同じものが、たった今、目の前に広がっていた。
「これが、人間のすることかよ……」
二本傷の兵士は言う。そしてそれは、誰もが思うはずの言葉だった。
この光景を前にしても尚、ランスは何も感じないのだろうか?
「全員、その場を動くな」
ランスは再び、左手を掲げると親指と中指を重ねる。
「リアちゃん。右後方に回り込んできている部隊に動きがあれば滅ぼして。ミリアは石火矢だ。少しでも妙な動きがあれば、すべて破壊するんだ」
ランスの指示に、リアちゃんとミリアが頷いた。
敵陣左翼にいるグレン様とマドカさんは満身創痍といった感じだ。グレン様は左足を引きずり、マドカさん自身も辛そうな手傷を負い、それでもグレン様に肩を貸している。
それでもグレン様たちが倒した兵は三百を超えているように見えた。
ランスが言葉を続ける。
「先ほどと同様の魔法式が、『焔の国』の西側半分が消し飛ぶ範囲で仕掛てある。これでチェックです」
違う。それは嘘だ。
もしもそれができるのならば、ランスは既に実行していたはずだ。その準備が間に合わなくて、ランスたちはいままで戦闘を強いられていたんだ。だから今の言葉はブラフ――ハッタリだ。
それでも『焔の国』の兵士の動きは止まる。誰もが息を呑む。しん、と静まり返った空間で、風の音だけが吹き抜けた。
わたしはランスの狙いを考え、そして次の言葉でようやく理解する。
「けれど、僕もそんなことはしたくない。ノレイン王子。ノレイン・ウー・ヒースクリフ。先日の決着をつけませんか? あなたが勝てば撤退してあげますよ?」
だからこの言葉は、ノレイン王子を呼び出すためのものだ。ランスはノレイン王子と話をするために、出てこざるを得ない状況を作ったのだ。
「私一人を呼び出すために、随分な条件を出したものだな」
兵士たちの間に一筋の道ができ、ノレイン王子が姿を現した。灰色の髪をした大男は、右腰に二本の剣を構え、さらに左手にもう一振りの剣を持っている。
「その魔法とやらが本当にあるのかも怪しいものだな」
「それでも来ないわけにはいかない。違いますか?」
「だな。だから今こうして来ている。貴様の手の内で踊るのは癪だがな」
ノレイン王子はランスの前まで来ると、左手の剣をランスに手渡した。「僕の分、ということですか?」「丸腰の相手に剣なんか振り回せるか。魔法も自由に使え、こっちは二本で行く」「わかりました」数歩分だけ離れた距離で、二人は互いににらみ合う。
次第に空の色は黒から藍に。そして地平から細い一筋の光が放たれたその瞬間だった。
ノレイン王子とランスが同時に走り出す。ノレイン王子は腰の右に差した剣を左手で抜き、右手に持ち替える。ランスは右手で剣を抜くと同時、左手に持っていた鞘を投げる。ノレイン王子はそれを左手で払い除け、しかしその隙にランスは肉薄し剣を突き出す。ノレイン王子は身を翻し、しかしランスの剣はノレイン王子の脇腹を掠る。そのままのレイン王子は体を返すと、一瞬で背後に回りこみ、横薙ぎの一閃。首筋を狙うそれは、だが否応なく軌道を逸らされる。指を弾く音。次の瞬間、ノレイン王子を腹を狙って巨大なツララが形成される。ノレイン王子はそれを回避し、しかしランスの右手から放たれたツララがノレイン王子を追った。ノレイン王子はそのツララを砕き、そして仕切りなおし。それから数回、十数回に渡る打ち合いが続いた。
時折、ランスとグレン王子の口が動く。問答でもしているのか、憎まれ口でも叩いているのか。二人の剣撃から殺気のようなものが無くなった気がした。それでも依然として戦闘は激しく、気のせいだとわたしは頭を切り替える。
「えっ……」
ふと、寒気がする。嫌な予感がした。
ノレイン王子が一転、飛来するツララを弾くとランスに向かって再度踏み込み、右手はランスの剣と鍔迫り合いの均衡。互いが互いの剣を封じたまま微動だにしない僅か三秒を、とても長く感じた。
いや、違う。
封じられているのはランスだけだ。
だってノレイン王子は、本当は左利きなのだから。
「ランス、退いてっ!」
しかしランスは退こうとはしなかった。ランスがツララを作ろうと右手を構えるが、それはわたしから見ても失策だった。何度も使っているその手は、完全にタイミングを読まれている。ノレイン王子は集まる風を蹴り散らして魔法を阻止し、大きく踏み出した勢いでランスの体を押し飛ばす。
ランスの体勢が崩れる。完全に無防備になる刹那をノレイン王子が見逃すはずがなかった。
「これで終わりだ、バケモノ」
それから勝負は一瞬だった。
ノレイン王子の左手が二本目の剣に触れ、そして剣は振り抜かれる。目に見えない速さで振りぬかれたそれは赤く染まり、鈍い音がしてランスの左腕が斬り飛ばされた。
「ランスっ!」
ランスは地に倒れ、咄嗟にわたしは駆け出す。二本傷の兵士はもうわたしを止めはしなかった。リアちゃんとエミリアさんが先に駆け寄り、止血をしている。わたしはノレイン王子とランスとの間に割り込んだ。
「ランスを殺させはしませんよ」
「決闘を挑んできたのはそのバケモノのほうだ。その場所をどいてほしい」
「どきません。わたしの話を聞いてください」
「こいつを殺すのが先だ。そこをどいてくれ」
「駄目です!」
「そうか。では失礼する」
「えっ、きゃっ!」
胸倉を掴まれる。次第に足が地面から離れる。どんなに手足をばたつかせてもわたしを掴む大男の右手は、びくともしなかった。
次の瞬間、さらに宙へと浮く感覚。続いて数秒後に地面へ落ちていく。寒気。高いところからの景色から次第に地面へ吸い寄せられる感覚は、血の気が引くような言い得もしない恐怖があった。大きく放り投げられたのだろうと、わたしはようやく理解する。
背中から地面に落ちる。落ちたのが砂の上でも、勢いと自分の体重とで、肺がつぶされたように息が苦しくなった。
足に力が入らない。体を支えようとする腕が滑る。全身が痛み、もう何度目か、立ち上がることに失敗する。
ふと見ると、今度はエミリアさんがノレイン王子に対峙していた。
「リアちゃんは傷を治すことに集中していて!」
そう言ったエミリアさんの手には一振りのナイフ。けれどあれは投擲用のはずだ。ナイフはすぐに叩き落とされ、腹部に拳が叩きつけられる。エミリアさんの名前を叫んだが反応がない。気を失っているだけだと信じたかった。
感覚が麻痺していた。腕も足も、ぜんぜん力が入らない。それでも何とか立ち上がると、わたしは走った。
今度はリアちゃんだ。リアちゃんの左腕は肘辺りまですでに腐食し変色していた。おそらくランスの回復に自分の生命力を使ったのだろう。リアちゃんが左手を伸ばし、しかしそれはいとも容易くかわされる。リアちゃんが右手を胸に当て、二段階目の能力を発動させようとするが、
「使わせない。集中しないと発動できないんだろ?」
頬を一回。それで能力の発動は止まり、さらに腹部に一回の打撃。それでリアちゃんも砂の上に倒れた。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぁあぁぁぁぁあぁぁあああああっぁぁっ!」
上空から、地を割るような咆哮。ミリアだ。
ミリアは急降下してノレイン王子へ襲い掛かり、しかしその攻撃は無数の石火矢に防がれる。石火矢の砲撃で墜落したミリアは、もう立ち上がれそうにはなかった。
グレン王子とマドカさんも、満身創痍で歩くことすら辛そうだった。今から二人が動いたとしても間に合わない。
もう、わたししかいないんだ……
砂に足をとられて、もう何度目かの転倒。おかしな方向に曲げてしまったようで、右の足首がずきずきと痛む。ただでさえ力の入らない足を引きずって、もう走れない体で、立っているのもやっとな有様で、
「駄目。待って……」
それでも、ノレイン王子とランスの間に、どうにかして戻ってこれた。ポケットから手鏡を取り出して構え、ノレイン王子を睨む。
ふと、押される肩。痛くもない。軽く触られた程度だ。
それでもわたしは体のバランスを保つことができず、砂に腰を着いた。立ち上がるのに三度失敗し、四度目に腰を浮かせたところで咽る。口の中に鉄の味が広がった。視界が定まらないままに、五度目でようやく立ち上がる。
「そんな有様になってまで、どうして私を止めようとする?」
「ランスがわたしを信じてくれたからです。逆に聞きますけど、ノレイン王子。あなたはどうして左腕を切り落としただけで、ランスを殺さなかったんですか?」
「別に他意などない。今から殺すところだ」
「違います。王子は躊躇ったんです。相手に殺気がなかったから、王子はランスを殺すことを無意識に躊躇したんです。わたしなんかが見たら違和感程度でしかなかったのですが、もしかして途中からランスの剣から殺気がなくなっていませんでしたか?」
ノレイン王子は答えない。わたしの想像が当たっていたということだ。
「それは、ランスの狙いが別にあったからです。ランスの狙いは、ノレイン王子を話ができる距離まで呼び出すこと。そしてランスが、ノレイン王子と話をさせようとしていた相手がわたしです。ランスは『月の国』を守ることを第一に考えていました。あの時点で条件をクリアしていたので、もう死んでも良いとでも思ってたのでしょう。もしかしたら、自分が死ねばノレイン王子の怒りも少しは収まるからわたしが話しやすい、なんてことを考えていたかもしれません。どちらにせよ、ランスはわたしのために、命懸けでチャンスを作ってくれたんです」
「そいつに命を賭けるなんて考えがあるものか。自分の命さえ何とも思っていないだけだ。こう言っては悪いが、君を信じたと言うのも、目的のために君を利用するのが一番確率が高かったというだけの話だろう?」
「そうですね。その通りかもしれません。でも、わたしはそれで十分なんです」
たぶん、ノレイン王子の言う通りなのだろう。わたしが提示した方法を採用したのも、ただの打算だったのかもしれない。それでもわたしの言葉に耳を傾け、一番守りたいはずのものを託してくれた。だから本来ならば、わたしは何が何でも、ノレイン王子に伝えなくてはいけない言葉があった。
もしランスが死んでいたなら、ランス以外の誰もが傷つかず、すでにこの戦争も終わっていたはずだ。もしここでわたしがランスの前から避ければ、ランスを殺したあと、ノレイン王子はわたしの話に耳お傾けてくれるだろう。ランスも『月の国』が守れたのであれば、納得して死を受け入れていたのかもしれない。
だけど……ごめんね、ランス。
『月の国』と同じがそれ以上に、わたしにとってはランスのほうが大切なんだ。
だからこれは、わたしのわがままなのだろう。
ランスに生きていてほしい。今ここでわたしが諦めてしまえば、すぐにでも消えてしまうその命を前に、より一層強く思った。
たぶんもともとは、誰よりも優しかった少年。歯車がひとつ欠け、ふたつ欠け、いつの日か感情が回らなくなった少年を、それでも愛おしいと思ってしまった。過去の誓いをひたすらに守り続けている少年の、その痛々しい生き様に何一つ納得できず、思い返すたびに腹立たしく感じるのに、それでも傍に居続けたいと願ってしまった。
「そもそも、要らないと言っている命なのだから、この場で私が切り捨てても何ら問題無いはずだ。そこをどいてくれ」
だからたぶん、わたしは……
ランスのためなら、大抵のことでもできてしまうだろう。
自分でもおかしいと分かるぐらいにわたしはどうかしていて、悩めば悩むほどに苦しくて、ときには胸が軋むほど悲しくて。けれどもそれを切り捨てることができなくて、何が何でも取りこぼしたくなくて、だからわたしは、
「せめて、わたしの話を聞いてからにはしていただけませんか?」
手鏡に描かれた魔法式の一部を親指でこすって魔法を発動させると、透明な刃を自分の首筋に添えた。
ちくりとした痛み。首筋をゆっくりと、重い雫が垂れるのを感じる。
震えていたはずの手が鎮まった。
なんでだろう、こんな状況なのにとても穏やかな気持ちになったのを感じた。死ぬのも、自分より背の大きな男の人に立ち向かうのも、とてもとても怖かったはずなのに。今でも怖いと思っているはずなのに。それでも諦めとはまた違った、少しだけ嬉しい気持ちに支えられて、気がつけばわたしの頬がほんの少しだけ上がっていた。
「そんな……馬鹿な真似はよせ! その男に何の価値がある? 君がそれほどまでして守るほどの男ではない。見ただろう、千二百もの人間を躊躇いなく焼き払ったのを。そいつは私の国の民の半分を殺めようとした殺戮者だ。血も涙もないただのバケモノだ。どうしてそんな奴を、君みたいな人が身を挺して守ったりするんだっ!」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。でもわたしにとってランスは、何千何万の命よりも大切で愛おしく思えてしまうんです」
「そんな……頼む、私にその男を殺させてくれ!」
「ならば、わたしも殺してください。彼のいない世界では、気が狂ってしまいそうですから」
「ナナミさん、そんな言い方は卑怯だ……」
「ですね。ごめんなさい」
卑怯だとも思う。ノレイン王子の優しさを利用しているようで後ろめたくもある。それでもわたしは手鏡を下ろすつもりはなかった。ノレイン王子が一歩を踏み出そうとする。わたしも僅かに手鏡を持つ手に力を入れた。刃はほんの少し進んだだけのはずなのに、全身を痛みが走り、寒気が襲う。けれどその寒気も痛みも心地よくて、
そしてノレイン王子の足が止まる。
気がつけばわたしはまた笑っていた。
「糞っ……畜生ぉぉぉぉっ!」
投げ捨てられる剣。聞こえるはずの、砂の上に打ち捨てられる音が掻き消される。
叫び。ノレイン王子の苦しみが、葛藤が、その片鱗が肌に響いて、気がつけば涙がわたしの頬を流れていた。
人間だ。ふとそう感じた。
王子としてではなく、一人の人間としての声だ。悲しみが、怒りが、願いが、義理人情が、愛と決意が、その全てが宵闇の藍に響き、吸い込まれていった。
わたしは手鏡の剣をゆっくりと下ろす。
仕舞おうとしたところで「まだ構えていろ」とグレン様の声が聞こえたので、とりあえず右手には持っておく。けれどもう、ノレイン王子にその気はないように思えた。苛立ちはまだ隠しきれていないが、平静を装えるぐらいにはなっていた。
「それで、私に話というのは何なんだ。大切な内容なのだろう?」
ノレイン王子の言葉に、わたしは頷く。
「戦争を、終わらせに来ました」
「そんな馬鹿な……いや、君の場合は本気なのだろう。どういうことだ?」
「その前に一人、紹介したい人がいるんです」
わたしはアナさんを呼ぶ。アナさんはノレイン王子の前に立つと、まず深々と頭を下げて謝った。
「ノレイン王子。ノレイン・ウー・ヒースクリフ殿。まず謝辞を。わたくしはアナスタシア、出身は『穂の国』です。千二百の命を奪ってしまったのは、わたくしが原因でもあります。謝って許されることとは思いませんが、申し訳ありませんでした」
「お顔を上げてください。私にはあなたを責める理由はありませんので」
どういうことなのかとわたしが悩んでいると、「もし放った矢が『穂の国』の人間を殺めてしまっていたら、『焔の国』は三大強国を敵に回して滅んでいたことだろう」と、ノレイン王子が教えてくれた。つまり結果として、ランスは千二百人の兵士を殺めはしたが、『焔の国』を守ったともとることが出来るわけだ。ランスの本意はわからないけれども。
アナさんに促されて、わたしは話を続ける。
「結論から言うと、『焔の国』の水不足を解消する方法を提案しに来ました。アナさんと『穂の国』に協力をお願いして……」
しかし、わたしの言葉はここで止まる。
感じたのは違和感。わたしの死角となる真後ろ、百メートルといったところだろうか。
咄嗟に振り向くと、頬に二本傷の兵士が剣を構えて駆けてくる姿が見えた。
形相は怒り。狙いはランスだと気付く。わたしが重い足を持ち上げて僅かな数歩を駆けるのと、二本傷の兵士がランスまでの距離をあと数メートルまで詰めるのが同時。二本傷の兵士とランスの間に割り込むことに、何とか間に合う。振り下ろされる剣を、わたしは受け止めようと手鏡を持った手を伸ばす。
「――――――っ、」
しかし直後、わたしは言葉を失った。
二本傷の兵士の持つ剣が、わたしの剣に当たる前に、中空で動きを止めていた。
わたしの伸ばした手は、手鏡の先に伸びる刃は止まらない。咄嗟に引き戻そうとするが間に合わない。わたしの目の前で、刃は兵士の左胸へと吸い込まれていった。
ずっしりと感じる、人間一人分の重み。右腕にかかる重さが次第に増していき、指先にまるで触っているかのように伝わってくるのは、柔らかいものを掻き分けている感触。寒気がした。一瞬だけ軽くなり、それからわたしの肩口に兵士が倒れ掛かってくる。
咄嗟にわたしはその体を両手で支え、力が入らずに膝を着く。
温かい、水よりも重くて濃くて黒いそれが、わたしの手を濡らした。あふれ出てくるそれは、わたしの体を、頬を、胸を、腹を、足を染めていく。
言葉はなかった。指を染めるそれも、あふれ出てくれるそれも、ときどき僅かに脈打ちながら、重くのしかかるその体も、次第にゆっくりと冷たくなっていく。
命というものを、はじめて身近に感じた。
かつては温かかったであろう頬が、ひんやりとわたしの首筋に当たる。声はない。表情は見えなかったが、動いている様子はなかった。
ほんの少し前までは、生きていたはずのそれ。交わした言葉も、声の調子も、感じ取った優しく誠実な人柄も覚えている。ほんの数秒前まであたりまえにそこにあったものが、いまはごっそりと欠落していた。危険から遠ざけるためにわたしを抱えた両の腕も、砂の上を駆けた足も、今は力無く垂れ下がっている。
「なんで……」
わたしの喉の奥からやっと出た声はそれだった。
指先が震えた。それでも手の中のもう動かないそれを放すことはできなかった。血の気が引いて、嫌な汗が首筋を伝うのが分かった。肺が握りつぶされるように軋んで、ようやく自分が息をしていなかったことに気付く。息を吐く。ただ何も無い虚空を焦点の合わない目で眺め、静まり返った砂の大地にうるさいぐらいに呼吸が響いた。
叫ぶ。喉の奥から空気が抜けるだけで、声は出なかった。それでも嘆かずにはいられなくて、腹から何もかも絞りだすように意味の無いそれをただただ吐き続けた。喉と肺とが限界まで苦しくて、けれどそのほうが苦しくなかった。
声が聞こえる。女性の声のようだ。名前を呼ばれた気がして、わたしは声のほうを振り返った。赤毛の女性と目が合い、その顔はどこか心配げだった。ゆっくりと手が伸びる。わたしの頬に、その手は添えられた。温かい指――命あるそれに、しかし思い出したのは、次第に温かさを失っていった記憶。咄嗟に飛び退く。足が思い通りに動かなくてもつれた。思わず手を放してしまったものが、わたしの足の上に倒れる。わたしが右手を着いたところは水溜りになっていて、ぴしゃりと音がする。重く粘りのある水の中で、砂以外の感触が手のひらにあって、見るとそれは手鏡の柄だった。ランスに貰ったたいせつなもの。けれど、わたしはそれを握ることができなかった。歯の奥が震えている。温かい指が、今度は肩に添えられる。怖かった。目を合わせることができなくて、すぐにでも逃げ出したかった。「もう大丈夫ですよ」と優しい声が聞こえて、口の中に酸っぱい異臭がこみ上げる。腕が背中に添えられ、優しい吐息が頬に当たるのを感じて、わたしはとうとう堪えきれずに嘔吐した。繰り返すこと三度、腕に力が入らなくなって、吐瀉物の上に倒れ込む。
もう嫌だ。何もかもが怖かった。
動かなくなってしまった二本傷の兵士も。血に汚れた自分の両手も。逃げようとして逃げられないでいる自分も。追ってくる目に見えない何かも。向けられるはずのない優しさも。温かい指先も、温かい言葉も、温かい吐息も。自分の鼓動が聞こえてはいけないもののような気がして、自分なんかが生きていていいのか不安になる。自分の左胸に爪を立てて掻き毟り、泣く資格などないはずの両目から涙が流れた。
ふと、足音のようなものが押し寄せてくるのを聞いた。『焔の国』の兵士たちが進軍してきたのだろう。
また戦闘が始まる。まだ戦争は終わらない。
また誰かが死ぬのだろうか。もう戦う必要なんて無いのに。もう誰も死ぬ必要なんてないのに。もう誰かを殺す必要なんて無いのに。「止まって……」声が擦れた。「やめて……」風の音にかき消される。「戦わないで……」立てるはずも無いのに、立ち上がる人影を見た。
「リアちゃん、エミリアさん……」立ち上がることもできずに、それでも吼える巨体があった。「ミリア……駄目。みんな逃げて……」わたしの消えそうな声は確かに届き、それでも三人は首を横に振った。後ろから頭を撫でられる。手を繋いだ男女の影が、わたしのすぐ横に立った。出来の悪い弟をよろしくな、なんて形で口が動いた気がした。「グレン様、マドカさん……」もう大丈夫ですよ、聞こえてきたのはそんな優しい声。その声をかけてもらうのは二回目だった。「アナさん……」
直後、まぶしいほどの光。夜明けだ。照らし出されて見える影は、八千人の軍勢。その圧倒的な戦力差に、嫌な予感しか浮かばなかった。味方も、敵も。今ここには、国のために立ち上がった人と、大切な人のために剣を構えた人ばかりだ。
「もう誰も、死んでほしくなんか無いのに……」
悪い人なんて一人も居ない。人を殺めたい人なんて一人も居ない。それでも自分の心を握りつぶして、誰もが立ち上がっているんだ。「来ないで……」止まらない。「逃げて……」逃げてくれない。わたしのせいでまた、多くの血が流れる。また大勢、動かなくなる。それは駄目だ。そんなことあっちゃいけない。それでもどうしようもなくて、手にも足にも力が入らなくて、ただ止まってと。もう止めてと。誰にも届かない声を叫び続けた。
足音が近くなる。嫌な予感がどんどん現実に近づいてくる。押し寄せてくるそれが怖くて、ただ怖くて、整理されないそんな滅茶苦茶な気持ちを搾り出してただ叫ぶ。
次の瞬間。
わたしの中で、何かが欠け落ちた気がした。
「もう来ないでっ、来ないでよぉぉぉぉぉぉぉっ!」
ようやく出てくれたその声は、いろいろなものを削り落としていくようだった。
宙を舞う、見ることの出来ないはずの細かな砂の粒さえ視える。無数の砂を巻き上げて砂埃を作りながら、走ってくる人影は八千二百五十九人。その一万六千五百十八本の足を質量のある空気で握る。
無数の滅茶苦茶な音。世界が崩れるようだった。
どす黒くて目に見えない奔流を前に、砕けて抉れて、わたしの中にぽっかりと穴が空く。奈落の底から湧き上がるそれに、心が呑み込まれた。
左目の奥に痛みが走る。
目を覚ましたのではない。ただ壊れたのだと、それだけを漠然と理解した。