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④ランス王子

 あの夢を見なかった。とてもよく眠れた。

 朝日がまぶしくて、思わず目を窄める。冷たい風が吹いて、どうやらここが屋外だということにようやく気づいた。近くには血の染みがまだ残る中央広場があり、道ではまばらだが人が往来し、露店の準備とかをしている人もちらほらだ。どうやらわたしは建物に寄りかかったまま、本当に朝まで眠ってしまったらしい。

 わたしの体には青い上着が掛けられていて、それの持ち主のランスはわたしの肩に寄りかかってすやすや寝ている。まぁ、最初はわたしのほうが寄りかかってたんだと思うけど。起こそうか迷ったけど、もうちょっとだけ寝顔を見ていたくて、やめる。

「かわいぃ♪」

 見ていると、心が和んでいくのが分かった。ちょっとここ数日が物騒だったというのもあって、ランスの穏やかな表情は久しぶりだ。王子なんて肩書きを持っていても、歳相応の男の子だ。ふと、わたしの右手をランスの左手が握っていることに気づく。ちょっと照れた気持ちになりながら、ランスの手を握り返してみた。

「お熱いですね。ナナミさんも駆け落ちですか?」

「うにゃ!」

 慌てて顔を上げると、アナスタシアさんがいた。

「なんてね、冗談です。……それにしても、かわいぃですね」

 アナスタシアさんはランスのほっぺをぷにぷにして、それから小さく笑う。それでも起きないものだから、手に持っていた三日月形の黄色い果物をランスの頭に積み重ねて遊んでいる。ってか、ランスは一応この国の王子なんだけど……

「あ、アナスタシアさん。昨日はありがとうございました」

「いえいえ。ナナミさんも大変でしたね。それと、かっこよかったですよ」

「ありがとうございます。けど、わたしはいっぱいいっぱいだっただけです。本気で怒ったグレン様、すっごい怖かったですし」

「ですね。とてもひやひやしました。あ、それと、もしよかったらわたしのことは『アナ』と呼んでください。そっちのほうが呼ばれ慣れているので」

「そうなんですね。そうだ、アナさん。お店を長く留守にしちゃったと思うのですが、大丈夫でしたか?」

「大丈夫でしたよ、『お一人様三つまで』って札を立てておきましたから。お昼時とかも、いつもそうしてるんです」

 そういえばアナさんは、果物を売っているのではなく配っているのだと思い出す。前から少し気になっていたのだが、それで採算はとれているのだろうか?

「アナさん、果物とか、配ってばっかりで大丈夫なんです? 儲からないですよね?」

「まぁそうですけど、これが『穂の国』のやりかたですから」

 首を傾げるわたしに、アナさんが言う。

「『優しくあれ。裏切られても、馬鹿を見ても、ただただ優しくあれ。』――子供でも知っている、『穂の国』の古くからの教えです。そして、『作物を余るほど作って諸外国に配り、「穂の国」と仲のいい国をいっぱい作りましょう』っていうのが、『穂の国』の国策であり、今のあり方なんです。みんなで一丸となって、感謝される国、周りの国から『無くてはならない』っていわれる国を作っていこうって感じです。ほら、食べ物が少なくて困っている国はいっぱいありますから」

「どこかの国が、『穂の国』欲しさに攻めてきたりはしないのです?」

「しないですね。仲のいい国の軍隊さんが守ってくれます。だから『穂の国』にも、軍隊はないんです。それどころか、王族や政治家もいません。かわりに村長さんがよく総会してます。それに……これはわたしが言うのもあれですが、『穂の国』の人間には危害を加えてはいけないというのが、いろいろな国で常識みたいになっているようです。『「穂の国」の民を傷つけた国とは取引をしない』という総会の決定のおかげみたいです」

「なるほどです」

「それはそうと、ナナミさん。……あっ!」

 ランスの頭に積んでいた果物が崩れる。それらすべてをアナさんは地面に落ちる前にキャッチし、それからまたランスの頭の上に積もうとする。

「アナさん、ランスで遊ばないでください」

 アナさんが残念そうな顔で「だめ?」と聞いてくる。わたしが「だめです」と答えると、ちょっとだけ拗ねた顔をして見せたが、突然なにかに気づいたように「そっか、わたしはお邪魔のようですね」なんて言って、果物を回収し終えるとアナさんは立ち上がった。

「待ってください」わたしは去ろうとするアナさんを呼び止める。「さっき言いかけたことがあったと思うのですが、それは何だったのですか?」

 アナさんはすこし迷ったように口ごもったあと、「余計なことかもしれませんが」と前置いて、それからランスを指差して言った。

「そのランスという王子は、とても評判が悪いんです。国の外では特に。なのでナナミさんも気をつけてと言おうとしただけですよ」

 それからアナさんは「まぁ、お二人にそれは野暮かと思って言わなかったのです」なんて笑いながら付け加える。「そういうのじゃないですって」「じゃぁ、そういうことにしておきますね」「もうっ」

 アナさんが「じゃぁそろそろ行きますね」と、自分のお店に戻っていく。

 さて、と。本当はもうちょっとゆっくりしていたかったが、だんだんと人目も増えてきたので、ランスの肩をゆする。

「ランス、おはよ」

「ん。おはよう、ナナミ……そっか、僕はここで寝ちゃったのか」

「そうみたい。風邪とかひいてない?」

「うん、大丈夫そう」

 それからランスは、わたしの手を握っていたことに気づき、あわてて「ごめん」と言った。咄嗟に、「ううん、別に大丈夫」なんて気の利かない返事が出てしまう。こういうときに『嬉しかった』なんて言葉が出れば、もうちょっとわたしにも可愛げがでるのだろうか? 右手からランスの指が離れる。それを少しだけ寂しいと感じた。

「ランス、上着ありがとうね」

「ああ、王宮まで着てていいよ。僕は大丈夫だから」

 わたしはもう一度「え、いいの?」って確認。ランスが頷いたので、わたしは早速、上着に袖を通す。

「それじゃぁ、帰ろうか」

 そういってランスは立ち上がると、左手をわたしに差し出してきた。わたしがその手を掴むと、ランスはわたしを引き上げてくれた。それから歩き出したのだが……その、なんだろう。ランスがわたしの手を握ったままなのだ。

「あの。ランス、手……」

「駄目だった?」

「ううん、嬉しいかも」

 ちょっと勇気を出して言ってみた。恥ずかしいけどがんばって笑顔を作ってみた。たぶんわたしの顔は赤くなってしまっているだろう。それでももう少しだけ勇気を出して、ランスの手をそっと握り返してみた。



「ナナミぃ。あんた、左手を怪我してからのほうが、アクティブに立ち回ってない?」

「うーん、そんな気がします……あれ? もしかして怒ってます?」

「も・ち・ろ・ん♪ これじゃ、何のために仕事しないでいいって言ったか分からないじゃないのよ!」

「うにゃ!」

「ランス様もですよ! もっとお体を大事にしていただかないと困ります!」

 王宮に戻って早々、エミリアさんに叱られた。どうやら夜明けごろからずっと、門の前で待ってくれていたらしい。ランスと一緒にごめんなさいをしたけど許してもらえず、「十二時間、トイレを除いて布団から出ないこと!」なんて言われてしまった。

 エミリアさんはこのあとすぐに婦長に呼ばれて行ってしまった。門番に小さくお辞儀をして、わたしたちも王宮の敷地内に入る。

「しょうがない。部屋に戻ろうか」

「でもランス、だいじょうぶなの? もし今にでも『焔の国』が攻めてきたら……」

「大丈夫だよ、とりあえずあと一週間ぐらいは。何の対策も立てずに攻めてくることはないし、マドカさんについての偽情報が伝わるのが三日後ぐらい。そこから前回よりも大規模な侵攻をするから、準備期間もある程度必要なはずだよ」

「わたしが言うのもあれだけど、中断しちゃった会議の続きはやらなくていいの?」

「大丈夫だよ。ほとんどまとまりかけていたし、今度こそ本当に、兄さんにすべて情報は渡してある。いざとなったら、最終手段もあるしね」

「最終手段?」

「うん。あまり褒められた方法ではないんだけどね」

 そこまで話したところで、わたしの部屋の前まで来てしまう。ランスはこのさらに二階上だ。話の途中だったが、ランスが「じゃぁおやすみ」と言って階段をあがって行ってしまったので、わたしも部屋に入る。

 ふと、寝息が聞こえる。目を向けると、珍しいことにミリアが布団で大人しく寝ている。よく見てみると、ミリアの布団には一緒にリアちゃんもいた。二人で身を寄せ合うようにして眠っているようだ。

 わたしも自分のベッドに入る。まぶたを閉じ、ゆっくりとまどろみの中に落ちていく。そして次第に眠り就き……

「――嫌ぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁあああぁっ!」

 悲鳴が聞こえてわたしは目を覚ます。

 自分が完全に寝たのか、どれぐらい寝たのかも理解できないわたしまま、わたしは飛び起きた。声のしたほうを振り向くと、叫んでいるのはリアちゃんだった。

「ありがとうっ! 大丈夫っ、ここにいるよ!」

 ミリアだ。暴れるリアちゃんの手を抑え、体をミリアは抱き寄せていた。

「もう大丈夫だから。もういいの、もういいのよ!」

「嫌だ、消えて! 消えて消えて消えて消えて消えないで待って駄目っ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ捨てないで捨てないで置いていかないで待って止まってっ、違うの、止まらないで……逃げてっ!逃げて逃げて逃げて逃げてこっちに来ないで!来ちゃ駄目、あのときのわたしに近づかないで。駄目駄目駄目駄目駄目放して放して今すぐ嫌だ嫌なのもう嫌っ!」

「ずっとここにいるよ! 大丈夫、ずっと一緒だから。大丈夫だよ! ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」

「死なないで。殺していいから死なないで……戻ってきて、帰ってきてパパ笑ってママ、起きて、起きてよ……帰って来て、置いてかないで。もう嫌、もう嫌だよもう嫌だ嫌なの嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……もう無理、ごめんなさい、もう無理なの、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「いつまでも一緒にいてねっ! ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」

 リアちゃんが噛み付く。抑える手を振り払って、ミリアの頬を引っ掻いた。膝が腹を蹴り、肘が側頭に打ちつけられる。立つのも覚束無くなりながら、ミリアはひたすら「ありがとう」を言い続けた。

 もはや、魘されるなんてものではない。リアちゃんは感情が暴走していて、手のつけようが無かった。どうすればいいのか分からないでいると、わたしに気づいたミリアが首を横に振った。わたしはベッドに腰を下ろす。リアちゃんが大人しくなり、再び眠りに就いたのがだいたい二十分後。引っかかれたり噛み付かれたりで、ミリアの体は血だらけになっていた。ミリアはリアちゃんをベッドに寝かせると、「ごめんなさい、びくりさせちゃって」なんて言った。

「それよりミリア、大丈夫?」

「新しいパジャマが欲しいです」

「あんたねぇ……」

「傷は大丈夫。血は出たし、ちゃんと痛いけど、もう全部治ってます。わたしは人間の体じゃないですから」

 そう言って笑うミリアの顔は、どこか寂しそうに見えた。

「本当はわたし、ナナミちゃんに心配してもらう資格は無いんです。わたしのこの手は多くの人の命を奪ってきました。今さらわたしが自分の命を惜しいと言ったり、傷が痛いと言ったりしてはいけないんですよね、きっと。わたしはもっともっとたくさんの痛みとか苦しみとか悲しみとかを、いままで生み出してきているんですから」

 言葉に詰まる。わたしはミリアに、何も言ってあげることができなかった。上辺だけの慰めの言葉が出そうになって、けれどそれを言ってはいけいないような気がした。今のわたしでは、本当の意味でミリアの感情を理解することはできないのだから。

 ミリアはベッドから立ち上がると、大きく伸びをする。ぽきぽき音が鳴って、「ちょっと寝すぎちゃいました」なんて、ミリアは笑って見せた。

「あ、話を変えてもいいです? ナナミちゃんにちょっと聞かなくちゃいけないことがあるのです」

 そう前置いたミリアに、「うん、いいけど」とわたしは頷く。

 ミリアはこちらに二歩ほど詰め寄る。そしてわたしの前を過ぎ、ベッドの枕元へと手を伸ばした。ミリアが手にしたものは、ランスに買ってもらった手鏡と、マドカさんに貰った魔法式が書いてあるメモだ。

「これ、どうするんです?」

 そう言ったミリアの顔は、どことなく険しかった。

「少しでもランスの力になれればって思うから、作ろうと思っていたんだけど……ミリア、なにか怒ってる?」

「ううん、ごめんなさい。腹を立ててはいるけど、ナナミちゃんにじゃなくて、マドカさんにですから。ナナミちゃんはこれがどういったものかは知っていますよね? 使い方によってはわずか数分で千人以上の人間を殺めることのできる凶器です。この国はもう平和とは言いがたいですし、どうしても力が必要になる場合もあると思います。でなければその紙を力ずくで奪って破り捨てています。ナナミちゃん、それを武器として手に持つときも、実際に使うときも、本当によく考えて使ってください。繰り返しになっちゃうけど、わたしはそんなものを持つことはお勧めできません。絶対に反対ですから」

 わたしの考えが甘かったのかもしれない。わたしも何か力になりたい、だから力が欲しい、そんな単純な気持ちで凶器を持とうとしていた自分を反省する。「ありがと、ちゃんと考えておくから」ミリアにそう答えると、ミリアは小さく頷いた。

 ミリアは手鏡と魔法式の書いたメモを、わたしの枕もとに戻す。そしてあと一言だけ、

「それと……人が亡くなるところを見るのと、自分の手で殺めてしまうのは全く違います。それだけは忘れないでください」

 ミリアはそう付け加えた。



 エミリアさんと約束の十二時間が過ぎる。窓の外を見ると、すでに夕方になっていた。わたしはベッドから出て着替えると、行く当てもなく、けれど部屋から一歩出たくて扉を開ける。そこでちょうど、階段を下りてくるランスに会った。

「あ、ランス」

「ナナミ、おはよう」

「そっか。『おはよう』なんだよね、わたしたち」

 ランスはこれから夕食に向かうところなのだろう。「じゃぁちょっと行くね」と、急いだ様子で階段を下りていく。わたしが手を振ると、ランスも右手を振り返してくれた。その右手には、巻かれていた包帯がなくなっている。ようやく完治したようだった。

 階段を一階まで降り、第十三棟を出る。庭園の端で寝転ぶと、わたしは空を見上げる。吸い込まれそうな藍色の空に、無数の星が輝き始めていた。頬を撫でる風を感じる。次第に空は黒く塗りつぶされる。はるか遠くの星明りを掴めないかと、無理だと知りながら手を伸ばした。辺りはもう、自分の指が見えないぐらいに暗くなっていて、まるでこの夜空に溶けてしまっているようだった。

 そういえば、ゆっくり星を見たこともなかったかもしれない。

 わたしは時間を忘れるぐらい、ただただ星を眺め続けた。

「もしかしてナナミ、そこにいるの?」

 ランスの声だった。夕食が終わって戻ってきたのだろう。

「よくわたしだって分かったね。真っ暗で見えないでしょ?」

「なんとなくだよ。だけど、そこにいる気がしたんだ」

「それちょっと嬉しいかも」

「なんてね。ポケットから落ちた手鏡に星が映ってたんだよ。それが見えたんだ」

「あれ? つい持ってきちゃってたんだ」

「みたいだね」

 がさり。わたしのすぐ隣で音。左側だ。おそらくランスが芝の上に腰を下ろしたのだろう。わたしの腕にランスの手が触れる。ランスが慌てて「あ、ごめん」なんて言うものだから、わたしはランスの肘に腕を絡めて、ぴったりとくっついてやった。

「ナナミ?」

「なんとなく寂しかったの。だめ?」

「僕は別にいいんだけど、その……照れるって言うか、当たってるんだ。いろいろと」

「え? あ、えっと……うん。それはちょっと角度を考えるかも」

 なんとなくだけど、こんなに暗いのにランスの表情が見えた気がした。たぶんきっと、ちょっと苦笑いしながら、どこか安心した顔をしている気がする。ここでちょっといたずらしてみたいな、なんて思ってしまったのはエミリアさんの影響だろうか。わたしはあとちょっと勇気を出すために、ランスに聞こえるように「なんちゃって♪」と囁いて、それからもっとぎゅっと強く腕にしがみつく。

「えっ、ちょっとナナミ?」

「ランス、声が大きいよ」

 そんな慌てるランスを可愛いと思ってしまうあたり、わたしはちょっと意地悪な性格なのかもしれない。恥ずかしい気持ちもないわけではないけれど、

「やっぱりランスと一緒にいると楽しい」

 たぶんこれが、わたしの素直な気持ちかも。

「僕で遊ぶのが楽しい、じゃなくて?」

「うにゃ! まぁそれもちょっとだけ思ったけどさぁ」

「いや、否定してほしかったかも」

「あ、そういう流れ?」

「なんてね、大丈夫。気にしてないよ」

 ランスがわたしの頭を撫でてくれる。わたしが右腕にしがみついているのだから、たぶん左手だろう。いつもより手の動きがぎこちないけれど、やっぱりちょっと安心する。「ナナミって頭を撫でると大人しくなるよね」「うにゃ? そう?」「うん」そう頷いたランスの顔は、たぶんきっと笑っているんだろうなと思った。

「そうだ、ナナミ」ランスが言う。「明日ちょっと時間あるかな?」

「うん、わたしはいいけど……ランスのほうは大丈夫なの? いろいろ準備とかあるんじゃないの?」

「大丈夫、目処は立ったから。今、西にある『光の帝国』に、グレン兄さんが使者を送ってる」

「『光の帝国』?」

「以前は三大国のひとつにも数えられていた国で……つまりはとても大きい国。そこの協力が得られれば良し、得られなかった場合の準備も大丈夫だよ」

「そういうことなら。で、明日はなにをするの?」

「ちょっと付き合って欲しい場所があるんだ。いいかな?」

「うん、楽しみにしてるね」

 わたしは頷く。

 ランスが頷き返してくれたような、そんな気がした。



 いつもより念入りに髪をとかす。制服の襟をちょっとだけ丁寧に整え、わたしは寝室を出た。

 ひとつ夜が明けて、いまは朝。ランスが出かけようと誘ってくれた日だ。昨夜はわくわくして眠れず、みんなで朝食を食べている間も、わたしの頭の中はそれでいっぱいだった。ランスとの約束は、十時ごろに市場街の入り口。朝食の片づけをして、洗濯物を干し終えても時間が余ってしまい、少し早いけれどわたしは王宮を出た。

 約束の時間よりも三十分ほど早く、待ち合わせ場所に着く。それから五分ほどして、ランスが来た。「ごめん、待たせちゃったかな」とランスは言うが、それでも約束の二十五分前だ。「大丈夫、わたしも今来たところ」と答える。ランスも今日の約束を楽しみにしてくれていたのだろうか? そう考えると、少し嬉しい気持ちになった。

「それよりもランス、その服」

「ああ、今日は王子として町に来たわけじゃないからね」

 ランスの服装は、上品ではあるものの、市井の人たちが着る服に近かった。夏なのに相変わらず袖が長いことが、少し気になったが。

 そしてそれよりも、ちょっとした一大事に気づく。

「どうしよう、わたし制服で来ちゃった……というかこれしか持ってない」

「気にしなくていいんじゃない?」

「わたしは気になるの。ランス、服買いたいんだけど、もしよかったら選ぶの手伝ってくれない?」

「別にいいよ。時間もだいぶ余裕があるしね」

「やった♪」

 市場街にはいろいろな国の民族衣装だったり、流行のファッションのお店だったりもあって、わたしたちはそこを梯子した。わたしの目を引いたのは、きれいな水色のシャツだった。同じ店で売っている薄紅色のスカートとあわせて試着をさせてもらい、ランスに「どう?」と聞いてみる。ランスは「可愛いと思うよ」と言ってくれたのだが、鏡を見てわたしは思わず苦笑いをしてしまった。この服はどうにもわたしには不釣合いと言うか、可愛すぎるのだ。あとスカート丈が短すぎて恥ずかしい。

「落ち着かない。そわそわする……ちょっとランス、笑わないでよ」

「ごめんごめん。でも似合ってるのは本当だよ」

「だめ、無理。こっちの茶色のロングスカートのほうがわたしには似合うって」

「茶色って……デザインは可愛いけど、王宮の制服よりも地味じゃない? せっかく買うのに、それでいいの?」

「うにゃぁぅ」

 とりあえずどっちも保留。次のお店に移動して棚を見ていると、ランスが「これなんてどうかな?」と、ひとつの服を持ってくる。

 それは水色のワンピースだった。基本のデザインはシンプルなようでいて、ところどころに小さくフリルがちりばめられている。腰辺りに二箇所、ピンク色のリボンの飾りがついているのも可愛いかった。「少し幼すぎるかな?」と言うランスに、わたしは首を横に振る。似合うかどうかなんて自信はないし、やっぱりちょっとわたしには不釣合いな服かもしれない。けれどわたしは素直に、そのワンピースを着てみたいと思った。

 ひょっとしたらランスが選んでくれたからかな?

 そんなことをふと考えたら、急に恥ずかしくなってきて、あわてて試着スペースに隠れる。高揚する気持ちを抑えて、呼吸を整えてから、わたしはそっとワンピースに袖を通した。

「お待たせ。ランス、どうかな?」

「似合ってるよ。気に入ってくれた?」

「うん!」

 わたしは頷くと、店員さんに「すみません、これください」と言って会計をする。制服を入れる用に安い袋もひとつ買って、ワンピース姿でわたしはお店を出た。

「そうだ、ランス。ランスが行こうとしていたところって?」

「砂漠に囲まれたこんな国だけど、きれいな景色が見える場所があるんだ。ナナミにも良かったら見て欲しくて。でもその前に、どこかで昼食にしない?」

 わたしは頷く。時刻はもうすぐ正午に差し掛かかろうとしていた。



 市場街の宿屋のいくつかは、昼間は飯屋として営業している。そのうち東広場の近くの宿屋で、わたしとランスは食事を済ませた。それからランスの買い物を手伝ったり、みんなへのお土産にとお菓子を見たりしていたら、目的地に着いたときには夕方になってしまっていた。

 着いたのは、市場街のさらに東の場所だった。高台といえば聞こえはいいが、とても大きな岩の上という表現のほうが適切かもしれない。草木の一本の生えない、とても寂しいこの場所で、しかしわたしは言葉を失った。

 夕日だ。

 王宮から市場街の端まで見渡せるこの場所から眺めるのは、深く深くとても深いところからやってくるような赤い色。まぶしいぐらいに輝く黄色を塗りつぶして、それは全てを呑み込んで揺れていた。

 怖い。手が震える。足がすくんでもう立っていられないと思ったとき、わたしの手をランスが強く握ってくれた。

 もしかしたらランスはたまたま、わたしの手を握ってくれただけかもしれない。けれどそれでもわたしは、この右手の中にある温もりを心強いと感じた。

 怖くないわけじゃない。逃げ出したくないと言えば嘘になる。本当はきれいなはずのこの景色も、わたしにとっては依然としておぞましいものにしか見えない。それでもこの手を繋いでいられるなら、まだここで立ちつづけたいと思えた。

 隣に立つランスの顔を見る。ランスもわたしの顔を覗き込んでいて、とても近い距離で目が合った。わたしは「きれいな景色ね」と嘘をつき、けれどこの左手と、それからいままでのいろいろなこととかを全部込めて、心から「ありがとう」と言った。

「ナナミ」

 ランスが言う。ランスは市場街の西側の出口あたりを指差していて、その言葉にはどことなく嫌な予感がした。

「また近いうちに戦争になる。この国で戦える人間は数えるほどしかいないが、それでも間違いなく国の命運をかけた戦争だ。城下町の西の出口から真っ直ぐ進むと、いくつかの村の先に砂漠があって、そこから二日ほど馬を走らせると『光の帝国』に辿り着く。もし戦争になったら、」

「待って。わたしだけ逃げろって言うの?」

 それだけは絶対に嫌だと思った。ランスや、リアちゃんやミリア、エミリアさん、マドカさんが、わたしの知らないところで傷ついて、最悪の場合、命を落としてしまう。ランスたちが戦っている時に一人だけ安全なところで待っていて、その顛末をあとから聞かされるだけなんて、納得できるはずが無かった。

 けれどランスの答えは、

「ああ。もし戦争になったら、ナナミは逃げてほしい」

 わたしの気持ちとは、相反するものだった。

「持てるだけの水と少しの食料を持って、ラクダでも馬でもいいから拝借して、『光の帝国』に逃げ込むんだ。万全の対策も打つつもりだし、負ける気もない。だけど今までもこれからも、絶対は無いんだ」

「じゃぁわたしも戦う!」

「そんな力は、ナナミには無いよ。もし次に戦場に来たらナナミは命を落とす。生き残れはしないだろうね」

「そうだ、この眼! このまえ剣で切られそうになったとき、剣の動きが一瞬止まったようにみえたの! わたしにもきっと能力があるはずだから……」

「じゃぁその能力を、今使って見せてくれ」

「え?」 

 言葉に詰まる。あるかどうかもわからない能力を今この場で見せられないからではない。ランスの声が、寒気がするほどに冷たく感じたのだ。

「本当に能力で剣の動きを止めたのなら、それは『空間掌握能力(サイコキネシス)』だ。眼で見える範囲、音の聞こえる範囲、気配を感じることのできる範囲の物質を動きをすべて自在にできる、最強の部類に入る能力だ。けれどそれも、使えないのであれば何の価値もない。そんなものでは何も守れやしないんだ」

 そう言った彼と同じ眼を、一度だけ見たことがあった。ノレイン王子が王宮に来たときだ。まるで別人のようだ。わたしの知っているランスが上書きされて、別の何かが現れているような気さえした。

「ランス、こんなときだけれど、聞いてもいい?」

 ただの勘だとしか言いようがない。それでも今、それを聞いておかなくてはいけない気がした。ランスが伝えたいことの本当の意味を知るために、必要な気がしたのだ。

「ランスが以前、言った言葉……『貴国の兵士何人なら、我が国の一般市民二万七千人と釣り合いますか?』って、ノレイン王子に言ったけど、ランスはどう思っているの?」

 砂の混ざった風が頬を叩く。思わず目を閉じ、風が止んでわずかばかりの沈黙。再びまぶたを開けたときにランスの口が動いた。

 しかしランスの口から、答えが告げられる前に、

「その答えは『ありえない』だ。そうだろう、ランス王子」

 聞こえてきた声はランスのものではなかった。背後を振り返ると、そこには灰色の髪をした大男。大男は右腰に差した二本の剣の片方に手を掛けたまま、以前会ったときとは似ても似つかない、怒りの形相でそこに立っていた。大男の背後には、同じく剣を構えた兵士が一人。頬に二本傷のある、以前会ったことのある兵士だった。

 張り詰めた空気。ランスが「ごめんね」と、わたしの手を放す。二歩、ランスが大男に歩み寄る。ランスが右手の指を弾くと、ほんの一瞬、冷たい風が吹いた。ランスの手にはガラスでできた大きなトゲとも、無骨なツララとも見て取れる透明な塊があって、それを剣のようにランスは構えた。

「何の用ですか? ノレイン王子」

 ランスが言う。怒りでも、殺意でも真剣でもなく、ただ寒気のするぐらい無感情に冷たい声だった。

「自分が殺められる理由に心当たりが無いとは言わせんぞ」

「全く無いですね。一国の王子のはずのあなたが、たった一人の護衛のみで敵国へ足を踏み入れるような理由も心当たりはありません」

「馬鹿を言うな。貴様の狂った頭では、俺のことを王子と認めてなどいないのだろう? もっとも、俺は貴様を人間と認めるつもりも無いがな」

 一瞬。何の前触れも無く、ノレイン王子が大きく一歩を踏み出してランスに斬りかかる。左手で振り抜かれた銀色の一閃。しかしランスにはその瞬間が見えていたのだろう、ツララでそれを受け止めると、ノレイン王子の剣を横へと受け流した。ツララが砕けると同時、新たなツララがランスの手に作られ、ランスはそれをノレイン王子の胸めがけて突き出す。ノレイン王子は剣を右手に持ち変えると、下から剣を振ってツララの先端を斬り飛ばし、左手で氷の塊を受ける。ランスの動きが止まる。ノレイン王子は体を回転させてランスの首元へ剣を振り抜く。それと同時、ランスも体を低く屈めて剣をかわすと、ノレイン王子の足を払った。ノレイン王子の背が地面に着く瞬間に、指を弾く音。しかしツララは現れてすぐ、横なぎの一閃で粉々に砕ける。ノレイン王子の起き上がりざまの突きを、ランスは背後に飛んで避ける。

 互いに距離をとり、再びの硬直。

 わたしは息をするのも忘れていた。肺が詰まって痛むのを思い出して、大きく息を吐いた。

 ノレイン王子とランスは、素人目ではどちらが優勢かは判断がつかなかった。終始ノレイン王子のペースだった気もするが、余裕を残しているのはランスのほうに見えた。それでも、勝負がつくのは一瞬なのだろう。互いの攻撃はどちらも急所を的確に狙っていて、それをかわせなかったほうが倒れることになるのだから。

 ランスが死ぬかもしれない。どうにかして止められないかと、わたしが一歩踏み出そうとしたところで、

「ナナミさん、動かないでください」

 首筋に剣が添えられる。いつの間にか、ノレイン王子の護衛はわたしの背後に立っていた。頬に二本傷のある兵士だ。

「危害を加えるつもりはありません。ナナミさんには恩義がありますから。ただ、手出し無用でお願いします」

 二本傷の兵士は、わたしの両手首を左手ひとつで抑える。こっちは両手だと言うのに、びくともしなかった。無理に振りほどこうとすると、手首を拘束する力がさらに強くなる。わたしは思わず声を漏らしてしまい、ランスがこちらを振り向いた瞬間、ノレイン王子は動き出すのが見えた。

「ランス、前っ!」

 叫ぶ。

 ランスは振り返って直後、ツララを振って剣を受け流す。ノレイン王子が再度構えて、それを受け流すこと三度。ツララは砕け、銀色の剣はランスの右手目掛けて突き出される。ランスはツララを出す余裕も無く、大きく一歩退がるが、ノレイン王子も大きく一歩踏み込んでそれを追った。

「何だ、人間らしいところも少しはあるではないか」ノレイン王子が言う。「バケモノのくせに人間の真似事が染み付きすぎたか?」

「そうですね。自分でも意外に思っています」

「ならばもっと驚いたように振舞いたまえ!」

 ノレイン王子の横なぎの一閃。それよりも同時か少し早いか、ランスは指を弾くと、ノレイン王子の顔目掛けてツララを投げる。ノレイン王子がツララを避けるのにあわせて、ランスはその逆側へと身を翻し、剣をかわした。もう何本目か、ランスはツララを出すと逆手に持ち、ノレイン王子の脇腹目掛けて振る。それでも反応が早いのはノレイン王子だった。剣を左手に持ち帰ると、上から下へと突き下ろし、ツララを貫いて地面に留めた。ランスの体勢が前かがみに崩れる。ランスの頬に右の拳が叩き込まれ、ランスの体は大きく吹き飛んだ。

「最初の問いの答えだ」ノレイン王子が攻撃の手を休めて言う。「俺がここに来た用件は貴様を殺すことだ、ランス・ディーゼルボルグリーベント・クレセントナイト。妙な噂が流れたが、マドカって女がたった一人で二千を超える兵士を全滅させたなんて、一体何の冗談だ? 仮にそんなことが可能な人間がいたとして、たった一人で実行するとは考えられない。そのほかにも三人、使用人と称して赤い瞳の人間を手駒に持っているらしいではないか。ランス王子、貴様が絡んでいないなど、ありえるはずがない」

「かいかぶりすぎですよ」

「否。『月の国』で最も警戒すべきは貴様だ、ランス王子。それにな、どんなに人間離れをした能力を持った人間がいようと、貴様こそが正真正銘のバケモノだ」

「違うっ!」

 その声はわたしのものだった。気がつけばわたしは叫んでいて、けれどそれ以上に、ランスに怒っている様子も無いことが腹立たしかった。わたしは言葉を続ける。

「ランスは人間です。一人の王子として、自分の国を守るために必死になっている、心を持った人間です。断じてバケモノではありません!」

 わたしの言葉にノレイン王子は不機嫌そうな顔をし、そしてランスを睨んだ。重く、重く息を吐き、わたしのところまで聞こえるぐらいの舌打ちをし、ノレイン王子はそれから口を開いた。

「七つだ」

「え?」

「『剣の国』を知っているな? 我が国の同盟国だ。もう三ヶ月も前になるか……三月三十一日の夜から四月一日未明にかけての一夜で滅んだ。女子供も含めて人っ子一人残さずだ。それを実行したのが、そこにいる『月の国』の王子様だ」

「そんなこと、あるはずがないです!」

「残念だが、確定情報だ。ナナミさんにも、心当たりは無いか?」

 あるはずがない。あってほしくないと願いながら、必死に考える。

『あんたたち、残酷なことをするんだな。俺なら見るに耐えねぇよ』

 ふと思い出したのは、『鋼の国』の少年が言っていた言葉だった。

 『剣の国』の少年ケント――彼がようやく父親のための薬を買うことができたそのとき。わたしはその時点では、すでに『剣の国』が滅びていたなんて知らなかった。知ったのは王宮に帰って、グレン様の兵士が報告をしたあとだったはずだ。『鋼の国』の少年がそのとき、『剣の国』がすでに滅びていることを知っていたのはいい。しかしその時点で、エミリアさんもそれを知っている様子ではなかったか。

 そしてノレイン王子が最初に『月の国』を訪れた日に、宿屋へ案内した帰り道。わたしはケントがランスに殺されたと言う話を、『鋼の国』の少年から聞いていたのではなかったか。それも、ガラスのような大きなトゲで体を貫かれていたなんて、本来ならばありえない状況まで説明していなかったか。

 だが、そもそもケントが殺されなくてはいけない理由なんて――そう考えて、ひとつだけ思い当たってしまった。

 ケントが、『剣の国』の人間だから。

 だから殺された? まだ子供なのに?

 誰に? 本当にランスに?

 けれど国をまるごとひとつ滅ぼすなんて、どうやったってできるはずがない。『出軌(サリエル)の瞳』を持っているならまだしも、ランスは魔法が使えるだけの普通の人間のはずだ。

 いや、もしかしたら、そうとは限らないのかもしれない。

 『焔の国』が攻め込んできたときの、ランスがエミリアさんやミリア、リアちゃんと書いていた魔法式を思い出す。あのときは不発に終わったが、あれはもしかしたら、兵士二千人を一瞬で倒せるものだったのではないだろうか。

「違う……そんなはずがない……」

「いいや、ランス王子はそういう男だ」ノレイン王子が断言する。「ナナミさんの最初の問いだけど、ランス王子の立場で言えば、『「月の国」の民一人を守るためならば、千でも万でも殺めてみせる』ということだ。整然として分かりやすく、言い方によっては美しく聞こえるかもしれないが、おおよそ人間の考え方ではないな。敵国の兵士にも家族がいて、友がいて、それぞれの幸せがあるというのに、それが彼には見えていないようだ」

「嘘よ! 馬鹿を言わないで。ランスも嘘だと言ってよっ!」

 ランスの口が開く。遠くの彼が微かに呟く言葉はわたしの場所までは届かず、けれど『ありがとう』と口が動いたような気がした。そしてそのあとにもう一言、『ごめんね』と。

 だからそれに続く言葉を、わたしは聞きたくなかった。今すぐにでも逃げ出したくて、けれどもそれはいささか遅すぎた。

「『剣の国』を滅ぼしたのは僕だ」

「どうしてっ! どうして関係の無い人たちまで」

「関係ない人なんていなかったからだよ。ある国の子どもは読み書きを習い、別の国では農具の使い方を教わるように、『剣の国』はその国民全員が武器職人だった。十五歳にも満たない少年少女が石火矢を作る工場で働いていた。午前に畑を耕したあと、男も女も隔てなく午後は刀剣を作って生計を立てているのが当たり前の国だ。国民全員が兵士みたいなものだよ。『月の国』を守るために必要だったんだ」

 違う。そんなことが聞きたいんじゃない。

「では他の六つの国はどうだ? 全く同じ手口で滅ぼされていたぞ」

「『月の国』は小さな国ですから。それらの国の農民が鍬や鋤を持って立ち上がるだけで、ひとたまりもないからですよ。やるなら徹底的にやらないと、こちらが危ないですからね」

 ねぇランス。どうしてそんなことを、平然と言うことができるの?

 国を守るためって言うけれど、ランスは悲しい気持ちになったりはしないの?

「バケモノが」ノレイン王子が踏み出す。「どんな理由があろうと、何万人という罪の無い者の命を奪って通る道理があるものか!」

 ノレイン王子が大きく振りかぶると、銀色の一閃。ランスは剣撃のすべてをツララで受け止め、その度にツララは砕けて壊れる。確実に押されているのはランスだった。

 ノレイン王子はランスの投げたツララを砕き、銀色の剣を突き出す。それはランスの首をすぐ横を掠めていく。ランスはそこから更に一歩踏み込むと、ノレイン王子の手首を掴んだ。

「あなたこそ、その程度の覚悟も無く王子を名乗るべきではありません」ランスが言う。「命は尊いものです。それは認めます。ですが、僕は国民のためならこの先も何千何万と命を奪います。悲しいですか? 苦しいですか? それは背徳感ですか? 罪悪感ですか? 悪夢に魘され食が喉を通らなくなり、全てのことを後ろめたく感じながら、自分などが生きていていいのかと悩み、誰から恨まれているかも分からない生活の中で全てが信じられなくなりますか? その程度のことで立ち止まっていては、国が背負えるわけが無いでしょう?」

「その行為に何も感じないというのであれば、もはや貴様は人間ではない。誰が人間と認めるものか!」

「人間の心など、とうの昔に捨ててしまいました。汚れるのも壊れるのも、僕一人で十分ですから。『月の国』の民は誰一人として剣を持つことなく、戦禍に巻き込まれて悲しむことなく生きていくんです」

「箱庭だな。稚拙な自己満足だ」

「それでも守ると決めたんです。そのためなら、僕はすすんで悪魔にでもバケモノにでも、何なら神にでもなってみせますよ」

 ランスが指を鳴らす。

 一瞬、空気が変った。時が止まったのではないかと錯覚するような静けさの中、先に動いたのはランスだった。

 ランスが腕を振りぬくと同時、生み出されたツララは計四本。ノレイン王子が飛び退き、それを追うようにツララのうち三本が飛んでいく。ノレイン王子は剣を横なぎに振り抜き、一瞬で三本のツララを砕いた。先ほどまでの戦いでは一度も見せなかった、とても速く力強い斬撃だった。

 振り抜いた剣を戻す直前、ノレイン王子の動きが一瞬止まる。ランスはその隙を見逃さなかった。いや、狙っていたと言ったほうが正しいのかもしれない。ランスは残る一本のツララを左手に持ち替えると、銀色の剣に思い切り一撃。刃が立たないように打ち付けられたそれは、ノレイン王子の剣の動きを完全に封じていた。

 ノレイン王子の左側が、完全に無防備となる。

「僕の勝ちです」

「いや、私の勝ちだ」

 ランスの右手の中指に親指が重ねられる。ノレイン王子の脇腹へと、狙いはすでに定められていた。

 ランスが人を殺める瞬間が頭に浮かぶ。受け入れたくないことを認めざるを得なくなってしまいそうで、とても嫌な気持ちになった。

 たぶんわたしは、まだ夢を見ていたいのだ。ランスが多くの人を殺めていたこととか、罪の無い人を殺めることに躊躇いを持っていないこととか、それらが嘘であってほしいという甘い夢。ノレイン王子が証拠を突き出し、ランスも事実を認めたそのことを、わたしはまだ現実として認めたくないのだ、きっと。

 だからわたしは、指が弾かれた瞬間、

「駄目ぇぇぇぇっ!」

 気がつけば、わたしは叫んでいた。

 とにかく無我夢中だった。捕らえられている腕を振りほどく。自分とは思えないほどの力が出て、二本傷の兵士は大きく弾かれて飛んだようだった。

 駆けた。ランスの右手にはすでにツララがあり、しかしそれがノレイン王子に刺さる直前、突き出されるはずのツララが動きを止めた。

「え?」

 空気が、まるで溶けたガラスか水飴のように重く感じる。突き進むはずのツララをまわりの空気が掴んでいて、その現象がわたしの意志で起こっているということをただ理解した。ランスが新たなツララを作ろうとし、ノレイン王子が銀の剣で反撃しようとするので、二人とも動けないように押さえつける。

 直後、気付く。水飴のような空気を掻き分けて、三方向から矢が飛んで来るのを感じた。わたしが矢を止めようと思えば矢の動きは止まり、折って捨てる想像をすれば現実がそのとおりになった。

 ノレイン王子が言っていた『勝ち』の意味をようやく理解する。自分を囮にしてランスの動きが止め、その隙に射殺すことを言っていたのだ。続いて飛んでくる矢が計八十一本、その全てを止めたところで今度こそ矢は飛んでこなくなった。

 これが、ランスの言っていた『空間掌握能力(サイコキネシス)』なのだろうか。

 もしもわたしが能力者じゃなかったら、この能力が都合よく発動してくれなかったらと思うとゾッとする。飛んでくる矢に気づけたのは本当に偶然だし、わたしの能力が別の何かだった場合でも、ランスを守ることはできていなかっただろう。

「わたしがランスを守らないと……」

 意を決する。

 察知できる範囲を広げようと集中する。三人の弓を持った兵士を捕捉して、そのまま持ち上げて近くまで連れてくる想像。イメージ通りに弓兵が宙を飛んでわたしの目の前で落ちる。わたしは三人の弓兵と二本傷の兵士、そしてノレイン王子に言い放つ。

「帰ってください」

 この開いた場所で、自分の言葉が反響したようにぼやけて聞こえる。ちゃんと聞こえているか不安に思ったが、顔に出さないようにして言葉を続けた。

「今この場で足の骨を折ったりして、全員の身動きを取れなくすることがわたしにはできます。でも、わたしにそんなことはさせないでください。ランスはわたしが守ります。次に手を出してきたら、そのときは容赦しません」

 嘘だ。足の骨を折るなんて怖くてできないと思うし、いざというときにちゃんと能力を発動できるのかも分からない。それでも、これがハッタリだと言い切る証拠も無いはずだと、わたしは自分に言い聞かせた。

「退くぞ」

 ノレイン王子がただ一言そう言うと、四人の護衛も続いて退散する。追おうとするランスを能力を使って引き止め、ノレイン王子たちが見えなくなるまで拘束した。

 集中力の限界だった。気を緩めた瞬間に能力は途切れ、全身に力が入らなくなる。

 それでもわたしの体を突き動かしたのは、怒りだった。縺れそうになる足を踏ん張って、わたしはランスに詰め寄る。

「どうして止めたの?」

 ランスが聞いてくる。それが理解できないことがなおさら腹立たしくて、わたしはランスの頬を思いっきり引(ひ)っ叩(ぱた)いた。乾いた音が響く。気持ちなんてちっとも晴れやしない。熱く痛む右手を握りつぶして、わたしはランスを睨んだ。

「どうして止めたかって? ランスに人を殺してほしくないからよ。好きな人が誰かを殺めているところなんて見たくないし、もし止められるなら全力で阻止するに決まっているでしょ!」

「じゃぁ今度はナナミのいないときにするよ」

「そういう問題じゃない!」

「だが、これでまた戦争になる。『月の国』の戦力は、僕やナナミを数に入れても五人だけ。六部隊以上で攻めてこられたら、足止めし切れずに『月の国』は滅びるだろう。たった一人の人間を殺めるだけで、その事態は回避できたんだよ」

「『たった一人』じゃないっ! ねぇランス、誰かが死んだら悲しむ人がいるんだよ? わたしには分かるの。大切な人が突然いなくなるって、すっごいすっごい悲しくて苦しいの! たぶん記憶を失っても毎晩夢に出てくるぐらいに。なのにそれを敵意の無い人たちまでなんて……ねぇランス。それでランスは本当に、何も感じないの?」

 ランスが笑う。いままで見てきた笑顔が全部、薄っぺらく剥がれていく。わたしの中で何かが壊れていくようだった。

「ごめん。でも、もう何も感じないんだ」

 涙が出た。

 ランスの笑顔が痛い。とても自然な表情で優しく笑えているものだから、なおさら悲しい気持ちがこみ上げてきた。

 きっと、悲しみだけじゃない。怒ることも喜ぶことも、ランスにはもう分からなくなくなってしまっているのかもしれない。

「以前はね、殺した数を数えたりもしたんだ。悲しいと感じたし、それ以外の方法が無かったとしても、自分の無力さを嘆いたこともあった。最初の頃は一日中怯えていたりもして、罪悪感で夜も眠れなかったのを覚えている」

「だったら、どうしてこんなになってまで続けるのよ……」

「誓ったんだ。どれだけ苦しんでも、どれだけ罪を背負ってもこの国を守らなくてはいけないと、かつての僕が誓ったのを覚えている。いまはもう、そのときの気持ちも理解できないけれど、ランスという人間にとって『月の国』は自分以上に大切なものだった。だから僕は自分がどうなろうと、もう引き返すわけにはいかないんだよ」

 ランスがまた「ごめん」と笑う。もう前みたいに、優しい笑顔には見えなかった。心を失ってしまったその笑顔は、とてもとても寂しいものに思えた。

 記憶を失ったわたしが立ち上がれるように、ランスは支えてくれた。いろいろな人が支えてくれた。けれどランスが立ち上がろうとしたときには、誰も寄り添うことができなかった。だからランスは壊れるしかなくなってしまったんだ、きっと。

「わたしこそ、ごめん」

 ごめんね、気づいてあげられなくて。

 こんなに傍にいたのに。こんなに傍にいてくれたのに、わたしはいつも自分のことで精一杯で、助けてもらってばっかりだったね。

 ランスが「どうしてナナミが泣くの?」なんてわたしの顔を覗き込むものだから、「見ないでよ。ランスが悲しくても泣けないからでしょ、馬鹿……」と、たぶん格好悪いことになっている顔をランスの胸にうずめた。

 ランスが恐る恐る、わたしの肩に手を添える。頬を叩いてしまった手前、『いいよ』なんていうのも恥ずかしくて、だからわたしは両手で強くランスの体を抱きしめた。

 ランスの腕がわたしの体を抱き返してくれて、それがとっても嬉しかった。

「ランス、聞いて……」

 わたしは弱音を吐いた。

 拾ってもらってから今日まで、溜め込んでいたものを全部。

 ランスがわたしを拾ってくれたばかりのころは不安でたまらなかったこと。初めて会う人は誰もが怖くて、それを誰にも相談できなくて痩せ我慢していたこと。戦争がとっても不安なこと。みんながいなくなることが不安なこと。本当に自分がここにいていいのか不安なこと。でもやっぱり、今のこの生活が好きなこと。ランスにもいっぱい助けてもらったこと。ランスに何もしてあげられていないのが悔しいこと。

 ランスにわたしのことを知ってほしいと思った。ランスのことをもっと知りたいって思えた。

 恥ずかしいこともかっこ悪いことも全部、思いつく限り話したら、ランスも自分のことを少しずつ話してくれた。悲しい話が多かった。中にはとても酷い話もあった。話し出しに目を逸らしたときがあって、無理しなくていいよって何回も言った。

 こんなにランスのことを知ったのに。ほんの一時間前と全然違う一面を見ているのに、それでもランスを想う気持ちは変わらなかった。

 この気持ちを告げたら、ランスはどう思うかな? やっぱり何も感じないかもしれないな…… でも、今はそれでもいい。それでも伝えたくて、だからわたしは

「ランス。わたし、ランスのことが好き」

 ちょっと強張っちゃったかな? ランスの目を見て、わたしは言った。

 返事は無かった。それも仕方が無いと思う。

 それでも、背伸びをしてランスの口に唇を重ねると、ランスはわたしを受け入れてくれた。

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