第44話 いつも
──あの人は言っていた。この世界は残酷だ、と。
リトは自室のベッドの上に寝転がり、天井を眺めていた。そして今日、出会ったあの少女、ハルのことを思い出していた。
「⋯⋯魔法使い」
目にも止まらない速さで、リトをいじめていた奴らを叩きのめしていた。その光景は今も脳裏に焼き付いていた。
魔力はまるで感じ取れなかったけれど、細くて小さな体であんな動きはできない。だから、身体強化をしていたはずだ。
「あんなふうになれたら、いいのになぁ」
きっと、ハルの魔力強化は察知もできないほど洗練されていた。リトにはそうとしか思えなかった。
そして、そんな才能はリトにはない。
「そうしたら、僕でも⋯⋯」
リトは天井に手を伸ばし、空を掴んだ。
「ないものはないんだけどね」
リトだって、魔法は多少使える。でもそのほとんどは、道具で代用できるか、使えなくても問題ないものばかりだった。
──唯一、人並み以上に使える色もあるけれど。それは使わないって、今日、決めた。
「あーあ。⋯⋯まあいいや。寝よう」
リトは部屋の電気をリモコンで消して、瞼を閉じた。その裏には、母と妹の姿が映っていた。
すぐにリトは眠りについて、気がつけば朝日がカーテン越しに部屋を僅かに照らした。
カーテンを開くことなく、リトは部屋を出て、リビングに向かった。
今日は平日。学校に行くのなら余裕を持って支度できるくらいの時刻。
「おはよう。朝食、できてるわよ」
「お兄ちゃんおはよー」
リビングの机には三人分の朝食があった。母と妹はもう食べ始めていた。
「んー、おはよ」
二人はもう着替えていたが、リトは寝間着のまま椅子に座り、朝食に手を付けた。
ベーコンエッグが載せられたトースト、いくらかのサラダ、そして牛乳。
すぐにそれらを平らげたリトは、ハンガーラックに掛けられた学校の制服を手に取り、着替えた。
⋯⋯ああ、制服を着るのはいつぶりだろう?
そんなリトの様子に、母は何も言わなかった。まるでいつもの光景であるかのように。
妹は、少し驚いた様子を見せていた。リトはそんな妹の反応に気づかないふりして、支度を進めた。
リトはそのまま、すぐに家を出ようとした。かなり早く学校に着くだろうけど、家にいたらそわそわしてしまうから。
「一緒にいこ? お兄ちゃん」
しかし、そんなリトに妹は声を掛けた。
「⋯⋯リナ」
「いいでしょ、別に」
「⋯⋯わかった」
リトは少し迷ってから頷いた。
彼は玄関扉に手を掛け、開いた。いつもの朝日が飛び込んできた。いつもの玄関先の光景が広がっていた。
でも、いつもとは、少しだけ違って見えた。
「⋯⋯いってらっしゃい」
そのとき、母の声が背後から聞こえた。朝食の食器を片付ける前に、わざわざ言いに来たのだ。
「いってきます」
リトは外に出た。久々に制服を着て、登校する為に。
◆◆◆
──それじゃあ、駄目なんだ。
「⋯⋯は?」
リトが家に帰ってきたとき。すでに、違和感はあった。
いつものように「ただいま」と言えば、いつものように「おかえり」と母が言ってくれた。
なのに、今日はそれがなかった。
「⋯⋯っ!」
リトと一緒にいたリナは走り出して、リビングの扉を勢い良く開いた。
「────」
リナの金切り声が聞こえた。
リビングの扉から、濃い血の臭いが漂ってきた。
リトは玄関で、立ちすくんでいた。
脳内をぐるぐると、思考が回っていた。なぜ、どうして?
誰が、やった?
──この世界は残酷なんだ、って。
血の滴る音が、リトの耳に入った。
ようやくリトの足は動いた。
リビングへ向かった。
血の中に母が倒れていた。
──あいつらだ。
──殺してやる。
「リナ、あとはお兄ちゃんがやっておくから」
「お、兄ちゃん⋯⋯お母さんが、お母さんがぁ⋯⋯」
リトはリナの肩を掴み、彼女の部屋まで連れて行った。
妹に、これ以上、血みどろの母を見せたくなかったからだ。
リトは母を抱きかかえて浴槽に運び、そこへ寝かせた。
わずかに開いていた目にはまるで光がなかった。その顔に苦悶の色はなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
リトは母の瞼を閉ざした。今はこんなことしかできない。
それから、できる限りの保冷剤を母の周囲に置いた。それから毛布を被せた。
リビングの血は洗剤を使って処理した。まだ微かに血の臭いがするけれど、家の外まで臭うほどではないだろう。
「警察とか、救急とか、呼ぶのが普通なんだろうな⋯⋯」
でもそうはしなかった。
だってそうしたら、今からリトがやろうとしていることはきっと、邪魔されるだろうから。
「⋯⋯⋯⋯『闇より出でて、その鎖を引き千切れ』」
もう、詠むことはないだろうと思っていた一節を口にした。
「──〈死喰らいの招来〉」
リトの目の前の床に黒い魔法陣が展開された。
そして、『それ』が現れた。
赤黒いイソギンチャクのような、ぶよぶよとした体。
頭部と思われる生々しい十二面体には、いくつもの眼球と口が不規則に並んでいた。
退化したような翼はまるで外套のようだった。
その胴体は途中から二股に分かれて、足のような形状を取っていた。
「クスクス。ぎ、はハハは」
それ──死喰いは、人間の嗤うような声をあげた。
音としては何もわからなかった。
けれど、その意味は理解できた。
「⋯⋯対価は用意してある。そいつらを殺すことが、お前を呼び出した理由だから」
「ギャ、ふフ。はは。ハハハ」
死喰いは笑った。




