第1話 血の靴
痛いくらい手を引かれ、少女は走っていた。
少女を寝室から連れ出したのは一人の男だ。
薄暗い通路。床の大理石はつい先ほど磨き上げられたばかりのようだった。
ただ一つ、赤い汚れを除いて。
男の黒い靴は、血の雨の中を歩いてきたみたいに赤く汚れていた。
「まって、なに、なんなの!?」
少女の叫ぶ声が通路内を反射した。
声が裏返りそうだった。喉がやけに痛い。
「さっき説明しただろ」
男は素っ気なく言った。
説明。
少女はその言葉に苛立ちさえ覚えた。
「『ここは危険だ。お前を連れ出す』って二言が説明っていうの!?」
まるで状況が理解できなかった。
納得できなかった。眠っていたところを叩き起こされ、乱暴に連れ出されているのだから。
「⋯⋯はぁ」
男は溜息をついた。
少女の方を一瞬振り返るが、それだけ。
「あんたほどの奴が、まだ理解できないのか?」
何を言っているのだろうか、この男は。
なぜあんな説明ですらない言葉で、事態を把握できると思っているのか。
少女はもう一度、声を上げようとした。
だが、それより早く、男は口を開く。
「⋯⋯いや、待て。あんた、自分の名前とか分かるか?」
「⋯⋯アルス。アルス・ヴィルミア」
少女──アルスは、即答する。
「役職は?」
男はそれに反応を示さず、また、質問を投げかけた。
アルスはそれにも、即答しようとした。
「それは⋯⋯。あれ⋯⋯」
けれど、喉の奥にすら、あるはずの言葉はなかった。
「私、は⋯⋯」
思い出す。記憶を探る。
──空白だ。
眠る前のことだけではない。
友人の顔、家族の声、いやそもそも、そういう大切な人たちがいたのか。
何も浮かばない。
アルスは、自分の名前だけが空白の中に取り残されているような気がした。
男は、また溜息をついた。
「やっぱりな」
彼は走る足を緩めない。けれど、アルスの手を引く力は痛くなくなった気がした。
「⋯⋯俺はライ・ストラーフ。あんたの救出を頼まれた」
「救出⋯⋯」
アルスは言葉を噛み砕く。
彼の靴にこびりついた血痕。明らかにただ事ではない。ここがどこだか分からないが、おそらく外では何かが起きている。
背中が冷えた。
アルスはそれ以上を考えなかった。
「あんたはそんな状態だ。くれぐれも、勝手な真似しないでくれよ」
「勝手な、真似⋯⋯」
アルスはそう呟く。それは独り言だった。
「ああ。人を助けようとしたりするなってことだ。あんたには勝手に死なれちゃ困るからな」
ライは冷たく、アルスの独り言に言葉を返した。
「⋯⋯⋯⋯」
アルスは、何も言わなかった。
代わりに、ライという男の後ろ姿を見た。
ついさっき、名前を知っただけの男。けれど彼は、アルスが何者であるかを知っているような口振りだった。
──私はいったい、何者なのか。
【人物情報:アルス・ヴィルミア】
淡い青髪の少女。
白いワンピースだけを着て、眠っていた。
記憶を喪っているらしいが、自分の名前は覚えていたりと、何もかもを忘れているわけではないようだ。




