プロローグ
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告白じゃない。ただ花火に誘うだけだ。
なのに、耳の奥で鳴り響く心臓の音がうるさい。肌にまとわりつく夏の夜の空気が、やけに重く、息苦しく感じられた。
――なぜ、ここまで緊張しているのか?
理由は単純だ。これから電話をかける相手、彩乃が――俺には永遠に手の届かない星のように眩しい女だからだ。
液晶画面に浮かぶ『彩乃』の二文字。手汗でスマホが滑りそうになるのを堪え、震える指先で発信ボタンを押し込んだ。
トゥルルル、という無機質なコール音が鳴るか鳴らないかのうちに、通話が繋がる。スマホをいじっていたタイミングだったらしい。
「はい」
「あ、いま大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「あ、あのさ……再来週の花火大会、一緒に行かない?」
一気に言い切った。ふっと沈黙が訪れる。
永遠にも思える数秒ののち、電話の向こうで少し戸惑ったような声が響いた。
「再来週の花火大会!? うーん、いま一緒にいる友達と行く約束してるんだけど……ちょっと待ってね!」
「……うん」
ちょっと待って。その言葉に、俺の心は勝手に期待を膨らませる。
(もしかして……友達との約束をキャンセルして、俺と行ってくれるのか?)
馬鹿みたいに浮き足立ちながら、保留になった無音の時間を待つ。心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
「…………もしもーし。お待たせ」
「はいはい」
「友達に確認したら『いいよ』って言ってくれたから……二対二で行かない?」
――ッ! そう来たか。
一瞬、目の前が真っ暗になった。
いや、何を期待してたんだ俺は。バカか。俺の脳内お花畑を一瞬で焼き払う見事なカウンターだ。彩乃が先約をキャンセルしてまで、後から誘った俺を優先してくれるはずがないじゃないか。
だが、二人きりじゃなくても、彩乃と一緒にあの夜空に咲く花火を見上げることができる。その事実だけで今の俺には十分だ。
「……もちろん、行こう」
俺は無理やり声を明るくして、そう答えた。
◇
ついに、待ちに待った花火大会の夜。
俺は悪友の智久が運転する車の助手席で、落ち着かない時間を過ごしていた。やけに気合の入ったキメ顔でハンドルを握る智久のことは、今はどうでもいい。向かう先は待ち合わせのコンビニだ。
駐車場に滑り込むと、すでに二人の影があった。
街灯の下に立つ、見慣れない艶やかな浴衣姿。茶髪にゆるふわパーマを揺らしているのが彩乃で、隣にいる黒髪ボブの女性がその友達だろう。いつもと違う彩乃の姿に、俺の普段は鈍いはずの心臓が激しく鼓動する。
二人を後部座席に乗せ、車は花火が一望できる小高い山へと向かう。
混雑する会場を避け、夜景と花火を同時に楽しめる展望台。俺なりの勝負プランだ。
駐車場に車を停め、展望台へ歩く。
人混みというほどではないが、そこそこの見物客がすでに陣取っていた。
「思ったより人がいなくて良かったね!」
彩乃が隣で嬉しそうに呟く。
その横顔に見とれそうになった直後――。
『ドンッ、ドンッ!』
腹の底に響くような重低音が、夜の空気を震わせた。
その音に導かれるように空を見上げる。すると、漆黒のキャンバスに大輪の光が咲き誇っていた。
赤、青、緑、鮮やかな光の粒が尾を引いてゆっくりと闇に溶けていく――。
あまりの美しさに、俺たちはしばらく無言で夜空に見入っていた。
星屑のような光の残滓が、夜風にゆっくりと溶けていく。
その静寂を縫うように、香苗が口を開いた。
「二人とも、今日は車出してくれてありがとね。彩乃の彼氏、今日は仕事で行けないって前から言っててさ。会場まで遠いし、ちょうど足探してたからホント助かったよー」
黒髪の友達――香苗が何気なく放ったその言葉は、周囲を震わせる爆音のさなかにあって、妙にクリアに俺の鼓膜を突き刺した。
(……彼氏?)
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。
『ドーン!』とまた一つ、漆黒のキャンバスに大輪の花火が破裂する。だが、そのまばゆい極彩色も、もはや俺の目には入らなかった。
視界の端で、彩乃が「うん、ホントごめんねー。助かったよ」なんて、軽い調子で同調している。
その瞬間、俺の世界から一斉に色が消え失せた。
点と点が、最悪の形で線に繋がっていく。
なぜ、二週間前という直前ではない誘いだったのに、彩乃はオーケーしたのか。なぜあの電話口で保留にし、わざわざ『二対二』なんて都合のいい形を提案してきたのか。
答えは簡単だ。あの電話の時点で、すでに本命の彼氏が仕事で来られないことは決まっていたのだ。
女友達と行く予定だったが、この展望台までは遠い。そこに俺という『都合のいい足(車)』から連絡が来たから、渡りに船とばかりにタダ乗りの計画を立てたに過ぎない。
さっきまで五感を満たしていた火薬の香ばしい匂いが、急に鼻を突く不快な臭いに変わり、熱を帯びていたはずの夜風が、骨の髄まで凍てつかせるような冷気に変わる。
彩乃に彼氏がいることなんて、本当は薄々感づいていた。ただ、決定的な言葉を聞くのが怖くて、見えているものから目を逸らし続けていただけだ。
最後の特大尺玉が弾け、その余韻が夜空に溶けていく。
その美しい光の残骸を見つめながら、俺は自分の『生涯最高の熱病』が、一発の花火よりも呆気なく散ったことを悟った。
◇
帰り道の車内。バックミラー越しに映る彩乃は、スマホの画面を見つめて楽しげに誰かへメッセージを送っている。
その淡い液晶の光が、助手席で俯く俺の横顔を、これでもかと惨めに照らし出していた。
「じゃあね」
コンビニの駐車場。引き攣りそうな笑顔で、俺は彩乃と同じように手を振り返す。
祭りの後の冷え切った空気だけを連れて、俺は逃げるように車へと戻った。
再び走り出した車の中で、智久は行きに流していた陽気な音楽をそっと無音にしていた。
ふいに、智久が無言でコンビニの袋を差し出してきた。中には、まだ少し熱を帯びた缶コーヒー。お前、そういうとこだけは優秀だな……。
「……悪い」
受け取った缶の温もりが、冷え切った指先にじわりと伝わる。だが、その温もりさえ今の俺には遠い出来事のように感じられた。喉を通るブラックの苦味だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
智久は何も聞かず、ただ真っ直ぐに夜のアスファルトを見つめてハンドルを握っていた。その沈黙が、今の俺には何よりもありがたかった。
◇
自室へ転がり込んだ俺は服も着替えず、半ば無意識にパソコンの電源を入れた。
現実逃避の行き着く先は、半年間起動していなかったMMORPG『ミソロジーワールド』だ。
各国の神話と伝説をモチーフにしたこのゲームで、俺はかつて、現実のすべてを犠牲にしてやり込む重度の中毒者(廃人)であり――同時に、界隈にその名を馳せるトップランカーでもあった。
暗い部屋の中、モニターの無機質な光だけが失恋で穴の空いた心をわずかに照らしている。鼻先にはまだ、あの展望台で嗅いだ火薬の匂いがこびりついているような気がした。
マウスを無心でクリックし続け、懐かしいログイン画面を抜ける。
かつてこの仮想世界で頂点を極め、覇者として君臨した自身のアバター『ユリウス』の背中がモニターに映し出された。どれくらいの時間が経っただろうか。
『おめでとうございます! 累計プレイ時間が2万時間に到達しました。多大なる貢献を祝して、ユニークスキル【召喚獣使い】を贈呈します!』
画面中央に、見たこともない金色のシステムメッセージが浮かび上がった。
2万時間。その時間を自分磨きに使っていれば、今日の悲劇は防げたかもしれない。……考えるのはやめよう。ダメージが加速するだけだ。ともかく、そのご褒美で特別なスキルを貰ったらしい。
「……召喚獣使い?」
掠れた声で呟いた――次の瞬間。
まるで小さな星が爆発したかのような、強烈な閃光が部屋を白く染め上げた。
次元を超えたような光の奔流が、部屋ごと俺を飲み込んだ。
それは奇しくも、さっき展望台で見上げた大輪の花火のように、俺の網膜を焼き尽くす圧倒的な光だった。
あまりの眩しさに、俺は反射的に目を強く閉じ――そのまま意識は、底なしの光の渦へと呑み込まれていった――。




