Flag10―趨勢―(5)
何故なら、その瞬間に目に飛び込んだ光景のせいで全て否応なしに切り換えさせられることとなったのだから。
「何だよ……これ……」
赤黒い液体は地面に広がり、その中心には温かさが奪われて横たわる人だったものとその一部だったもの。
それは一つだけでなく複数で、見たことがあるものも多い。
何かの冗談かと思いたいけれど、無理だった。
「うっ……あッ……」
我慢出来ずに、腹部から込み上がってきたものを地面に吐き出した。喉元に広がる不快な酸味が、これは現実だとしつこく俺に言い聞かせにくる。
生徒も教師も関係無く、男も女も関係無く。死屍累々。恐らく野次馬だった人達だろう。
少し経ち、込み上げてくるものも一通り吐き出して喉元の不快感も幾分治まってきた頃、視界の先、廊下の先の景色が陽炎のようにゆらゆらと揺れた。
しかし、その現象は陽炎みたく先の風景が見えにくくても視認は出来るものではなく、二階で見た黒い何かが、散在して蠢いているようで見通しが非常に悪い。
そしてその宙に漂う黒い何かは、只々蠢いて浮かんでいるのではなく、数十ヶ所に別れながらも集まって段々と人形を形成していった。
誰かが通るのを待っていたのだろうか……? いや、そんなことはどうでも良いか。きっとこの惨事を作り出したのは、こいつらなのだから。
左腕を上げ、手の平を正面に向けて狙いを定める。思い浮かべるのは魔力の流れと、それにより発動させる事象の心的表象。
「〝結果知らずの大洪水〟」
込み上げてくる情動に任せて描かれて行く魔法陣を眺めている俺は、酷く冷静だった。
青白く発光する魔法陣からは雷を纏った小さな水の粒が無数に放たれる。
狙い通りに真っ直ぐ飛んで行った雨粒は、人形を形成している黒い何か達に命中し……突き刺さった。
同時、雷が舞う。
この魔法を教わった時に範囲の限定をしてもらっていたお陰か、建物への被害は殆どない。
発動した魔法への違和感はない。あるとすれば、起こった事象とそれを生起するにあたって口にした魔法の名の違いと、想像以上に魔力を持って行かれた事ぐらいだ。
しかし問題などない。故に俺は魔法を発動したことで生まれた一瞬の硬直が解けると共に《暦巡》の柄を強く握り締めて走り出した。
雷を纏った刃の様な雨が止むと残っていた黒い人形の何かの数は八体。当初は何十体も居たのだから魔力をかなり使ったとはいえど、結果としては上々だろう。
黒い何かは感情と言うものは持っていないようで、向かってきた俺に対して動じる事なく反応し、腕を剣のような形へと変化させる。
一番近い人形の元に着いた俺は、走ってきた勢いのまま刀を横に振るった。
すると意外にも、刃は受け止められる事なく人形の腹へと吸い込まれる様に入って行く。
……が。
「ッ……!」
高い金属音が一つ。同時に体重を乗せた一撃は弾かれてしまった。
その上、それにより生まれた隙を突いて、人形は黒い刃は振り下ろしてくる。
「ぐッ……」
簡単には避けられないと悟り、俺は咄嗟に雷の属性強化を足に纏わせて、無理矢理ではあるものの、後ろに跳ぶことでそれを避けた。
それにより背中から着地することになり息が詰まるが、それも一瞬。直ぐに立ち上がり人形と相対する。
背中をぶつけた位で無事済んだ……と思いきや胸部から腹部に掛けて軽い痛み。どうやら避けられたのは痛手になることであって、攻撃自体は避けられなかったらしい。その証拠に制服は開け、ほんのりと赤く染まったシャツの隙間から、胸部から腹部にかけての浅い切り傷が露出していた。
とはいえ、少し痛いだけで動けないような痛みではない。それよりも問題は目の前のこいつらだ。魔力付加をしているだけでは刃が通らなかった。二階では上級魔法を使って倒せたが、この先にこいつらが何体も居ると考えるとあまりここで魔力を使うのは宜しくない。
かと言って属性強化を部分部分に施しても必ず刃が通るとは限らないのだから困ったものだ。その上、刀は斬るものであり、叩き斬るものではないので力任せに斬ろうとすべきではない。
立ち上がった俺に対して人形は接近して来ると、今度は人形の方から俺に斬りかかって来た。
不用意に攻撃して隙を見せたりするわけにはいかないので、相手の攻撃をいなす。しかしそこだけに集中はせず、同時に先程から行っている思考も止めない。
どうする? このままでは不利になって行く一方だ。《暦巡》だけに属性強化を纏わせるか? ……いや、これはまだ使いなれてはいない分、魔力の消費が激しいから却下。
防一遍の中で、人形の振るう腕と同化した漆黒の剣は俺の左手を掠り、赤のラインを生み出す。
掠り傷ではあるが傷も増えてきた。人形一体でこの体たらくでは、今は襲って来ていない他の人形までも動き出したらどうなることか。
その前までには何とか対策を考えたいのだが、そうそう都合よく俺の頭は働いてはくれないらしい。
その上、人形と鍔迫り合いになり接近したことで、今刃を交えている人形とは別の、待機していた人形の姿まで見えなくなってしまう。
急いで目の前の人形を弾いて後ろに跳ぼうと考えた矢先、少しだけ後ろの光景が目に映った。
「増え……てる……」
くそっ、まんまと嵌められた。どうやら人形が一体しか襲ってきていなかったのは俺の注意を引くためだったらしい。
そしてその間に俺の後ろで行われていたのは人形……というよりかはそれを形成している黒い何かの再生。
まだ五体ほどしか再生されていないところを見ると、それなりに時間は掛かるらしい。
しかし“五体ほど”であるが俺にとっては“五体も”である。行く道の先も戻った先も、どちらにせよ居るのは敵。なんとまあ険しい道であろうか。
鍔迫り合いをしながらも、何だか笑えてきてしまう状況で、気のせいか突如目の前の光景が近付いてきた。
「ッァ……!?」
……と思いきや。腹から広がる衝撃と共に俺は後ろへと吹き飛ばされる。どうやら人形は腕を刃に変化させたように、腹に腕を追加で作り、俺を殴ったらしい。
そんなことも出来るのか。とか、こいつらは笑う暇さえ与えてくれないのか。等と愚痴りたくなる気分だが、そうはいかない。吹き飛ばされた先に居た人形達も動き出した。
皆一様に腕を変化させ刃を形作る。繰り出される斬撃を捌く作業は俺には早すぎた。
「ぅあっ……!」
血が止まってきた傷口が抉られ、更に深くなった傷からは一度目よりも多い血が流れる。
咄嗟に振るった刀をこいつらは避けようとはしない。無残にも甲高い金属音が響いた。
「くそっ!」
ならばと苛立ちを込めた蹴りを目の前に居た人形にお見舞いすると、やはり人形は避けようとはしなかったが後ろへと吹き飛び、どうせダメージは無いのだろうと思いきや、地面にぶつかった衝撃で刃の先が少し欠けた。
それは些細な事であったが、お陰で一つ、思い付いた。