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閑話.雛には知らせぬ、真実。

 神とて、ただただ安穏と日々を暮らしているわけではない。


 蛇神と呼ばれる自分も、きちんと参拝に来る人間の顔は覚えるし、何度目の参拝かは数えている。 それにより、上奏を経て、願いを叶えてやったりもする。


 毎日社を訪れる、女がいた。 その女は、ある日突然、女童(めのわらわ)を連れてくるようになった。


「雛、蛇神様にご挨拶なさい」

「ひなです、へびがみさま、よろしくおねがいします」

 そのときは、【雛】という名に興味を覚えただけだった。 美味(びみ)そうな名だ、と思った。


 毎日毎日、【雛】と女は、参拝に来た。

 女の願いは、【雛】が幸せになることだった。

 【雛】の願いは、【大ばば様】がずっと一緒にいてくれること、だった。


 自分は【雛】の願いが、叶わぬものであることを知っている。

 人間は、いつか、必ず、死ぬ。


 女童(めのわらわ)の無垢で純粋な願いというものが、こんなに切ないものだということを、初めて知った。 そして、己がとても無力な存在であることを、崇められるような存在ではないことを、初めて思い知った。


 年月を経ても、【雛】の願いも、女の願いも、変わらなかった。

 そんな二人の関係を、確かに自分は、微笑ましく思っていたのだろう。


「へびさんをいじめるなぁ! へびさんは、へびがみさまのつかいなんだから!」

 ある日、そんな声が聞こえた。 あの、【雛】の声だった。

 悪餓鬼共から、ヤマカガシなんて毒蛇を守って、自分が噛まれていたのでは世話がない。

 毒蛇(あれ)蛇神(じぶん)の使いなんてこと、ありえないのだが、子どもの無知とは恐ろしい物である。


 女が、血相を変えて、【雛】を家に連れ帰り、里の人間を訪ねて歩いたが、誰も【雛】を助けようとはしなかった。 何もせずにはいられなかったのだろう。

 女は幽鬼のような形相で、ふらふらとしたおぼつかない足取りで、山へと入っていった。

 あの女は一体、何をするつもりなのだろう。


 布団で寝かされている【雛】は、顔を真っ青にして、青紫色の唇を震わせながら、苦しそうに息をしている。 雛の命の灯火が、消えかけているのは、わかった。

 あのとき、確かに自分は、この小さな命が尽きるのを、惜しいと感じた。


 見守る、見届ける、それだけでは我慢できなかったのだ。


「大君」

「ああ、雪華。 お前がここに来るなど、珍しいことだ」

 唇だけを笑みの形にした大君が、雪華を迎えた。

 その、呑み込まれそうに深い闇のような目は、きっと自分が何をしてここに来て、何を口にしようとしているのかも、見透かしている。


「私の判断で、私の名の下に、黄泉返りを行った」

「…そう、耶麻(ヤマ)は知らぬのだろうね。 愚かな雪華。 覚悟はできているか?」


 名も、神である証も、剥奪された。

 大君や閻魔に伺いを立てずに、【黄泉返り】を行ったのだから当然と言えば当然だ。

 【神】が役職である以上、律令違反に対する罰は不可避。

 だが、後悔はしていない。


 毎日足を運んでくれた、【雛】と女に報いることができた。

 恩に報いたい、目の前の大切なものを優先したい、と思う時点で、恐らく自分は、神の器ではなかったのだ。


 大君の監視下に置かれ、離宮でぼんやりと過ごす毎日。

 そこへやって来たのは、大君の妹だった。 正直、自分は彼女が苦手だった。 全ての男が、思い通りになると思っていて、意のままにならない自分を意のままにしたいと思っているのだ。

 むしろ、なびかない自分をなびかせ、(しもべ)のように扱おうとしている。

 どこからか、自分が名と神籍を剥奪されたことを聞きつけたのだろう。 今までのような、対等な立場ではなくなったからこそ、自分をどうにかできると考えたのが、容易に見て取れる。


「わたくしの使いになるのでしたら、そこから解き放って差し上げてよ?」

「…は」

 己の優位を信じて疑わず、自信たっぷりに告げる女に、失笑が漏れた。

 そこから解き放つも何も、自分は、望んで、進んで、ここにいるというのに。


「何が可笑しいの?」

 くすくすと笑う自分に、女は眉宇を顰める。

 だから、(あざけ)った。

「貴様などの使いに、この私が成り下がると? 笑わせてくれるものよ」

「っ…【神堕ち】! どこへでも行きなさい!」


 神ではなくなり、誰からも手を合わせられることがなくなり、望まれず、求められず、欲されない自分は、弱かった。 神が力を持てるのは、誰かに欲され、誰かのためになりたいと欲するからだ。

 心の強さが、力の強さとは、よく言ったものだ。


 女が自分を飛ばした場所は、何の皮肉か、自分が(まつ)られ、護っていた社の近くだった。

 ただの蛇の身とは、弱いものだ。 寒さに耐えきれず、枯れ葉の山へと潜り込む。 気休め程度ではあるが、何もないよりはましだ。


 これしきの寒さで、身動きが取れなくなる。

 暗い。 寒い。 これが、孤独ということなのか。

 今まで生きてきた中でのどの瞬間よりも、消滅を身近に感じながら、しばし記憶が飛んでいるのは、きっと眠っていたからなのだろう。


「あ、動いた!」


 届いた、歓喜の声。

 あのとき、私は、目にしたものを信じられなかった。


 すぐにわかった。

 見下ろす少女が、【雛】だ、と。

 あのとき、私が救った、幼い命。


「生きてて、よかったぁ…」


 ほっと安堵の笑みが降って来た、あのときの気持ちを、そなたは知らないだろう。

 私もそなたに、同じことを思ったのだ、雛よ。

 あのとき、救ったそなたが、元気に生きていてくれて、よかった、と。


「名前、どうしようね? 蛇さん、わたしが名前つけていい?」

 自分の名は、既に剥奪された。

 何と呼ばれようと、同じことだ。

 ああ、けれど私の美意識に適わぬような名であったなら、噛みついてやってもいいかもしれない。 この牙から出る毒は、この可愛い【雛】を死に至らしめるようなものではない。


「お目目の色が綺麗だから、紅の字を入れたいな。 もちろん、白い体もとっても綺麗なんだけど…」

 雛はうっとりとした表情で独りごちている。

 毒蛇に噛まれて死にかけたというのに、蛇好きは相変わらずのようだ。


 私の居つかなくなった社にも、雛は毎日、参拝に出かけていたのだろうか?

 私ではない、他の神を【蛇神様】と呼び、崇めたのだろうか?


 ぢりっと焼けつくような気持ちがした。

 すぐにでも、目の前の雛に噛みついて、捕食してしまいたいような気が。


 これは、一体、何だ?


 この雛が、私以外を神とするのが赦せない。

 そこまで考えて、気づいた。


 ああ、そうか、私は万人にとっての神ではなく、雛だけの、雛にとっても、唯一の神でいたかったのか。


 雛をじっと見つめていると、閃いたように、雛は言った。

「あ、神紅(シンク)、ってどうかな? 神の紅で、神紅、神の使いな蛇さんにぴったり!」


――神紅


 そう呼ばれた瞬間に、ドクン、と視界が揺れた気がした。

 この感覚には覚えがある。 大君から、神名を賜った瞬間の、あの感覚を思い出す。


 理解する。


 自分が、【神紅】となったこと。

 信じ難いことだが、【神堕ち】した自分が、先ほど望んだように、この【雛】だけの【守護神】になったことを。


 この、雛を、救ったこと、後悔したことはなかった。 けれど、ただ、それだけだった。

 【神紅】は、初めて、雛という存在と再会できたことを、【幸い】と感じた。


「神紅、小幸(コユキ)ちゃん、どこに行ったか知ってる?」

 雛の声に、神紅は意識を引き戻される。


 ここは、神紅の城だった。 約束通り、雛が天寿を全うするまで、神紅は雛の傍にいた。 そして、雛の魂を閻魔から掻っ攫って、神紅の城に連れてきたのだ。


 今、雛が探している【小幸】とは、雛の大ばばのことだ。

 猫の魂、九つとはよく言ったものである。 あと六回は死ねると笑っているのだから、小幸は大した玉だ。 今、猫又の小幸は、雛と同じく魂だけの姿になって、雛に飼われている。 一見すると猫にしか見えないし、その二又に分かれた尾ですら、雛には可愛くて堪らないものらしい。


「腹が空いたら出てくるだろうよ。 あれも、雛の傍を離れない」

 そう、返事をしながら、神紅は、自分の未来にもずっと雛が存在し続けることを、確信と共に【幸い】と感じている。

 私はずっと、雛だけの神だ。


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