第1章:第3部
記憶がないままでも、彼には一つだけ分かっていることがあった。
あの暗い部屋で目を開ける前、彼は別の場所にいた。
だが……。
どこに?
どこから来たのか?
あの部屋にたどり着く前、自分は何をしていたのか?
そして、自分を目覚めさせたあの声は、一体何だったのか?
考えれば考えるほど、疑問が次々と湧き上がってくる。
一つとして答えを見つけられなかった。
何かがおかしい。
ひどくおかしい。
ルシアーノは次第に落ち着きを失い始めた。
つい数分前までは、それをはっきりと自覚していなかった。だが今は理解していた。
自分は途方に暮れている。
どこにいるのか分からない。
どうやってここまで来たのか分からない。
何が起きたのかも分からない。
そして、何よりも……。
自分が誰なのかさえ分からない。
そんなことがあり得るのか?
頭の中は混乱していた。
思考を整理しようとしても、答えを探すたびに新たな疑問が生まれてくる。
少しずつ、恐怖が彼を支配し始めた。
彼は視線を落とした。
手はまだ震えていた。
まるで何か答えが見つかることを期待するかのように、彼は数秒間、自分の手を見つめた。
何もない。
「俺は……誰だ?」
その言葉は、ほとんど囁きに近かった。
だが、それだけで十分だった。
その問いが、彼に残されていたわずかな平静を完全に打ち砕いた。
自分が誰なのかさえ分からない。
彼は必死に記憶の奥を探り始めた。
何かあるはずだ。
何かの記憶。
何かの光景。
誰かの顔。
どこかの場所。
何でもいい。
「ル……」
彼は口をつぐんだ。
「ルシ……」
何かが浮かび上がった。
「ルシアーノ!」
その言葉は叫び声とともに飛び出した。
「それが俺の名前だ!」
彼はその場に立ち尽くした。
自分の声が木々の間に響き渡った。
ルシアーノ。
それが自分の名前だった。
少なくとも、それだけは自分のものだと思える唯一のものだった。
本当にそうなのか?
もし、他人の名前だったら?
その可能性もあった。
なぜその名前を覚えているのか、彼には分からなかった。
どこから出てきた名前なのかも分からない。
それでも、心の奥底では、その名前が自分のものだと感じていた。
「ルシアーノ……」
彼はもう一度、その名を口にした。
「ルシアーノ……ルシアーノ……」
何度も繰り返した。
ただの言葉だった。
数え切れないほどある言葉の一つにすぎない。
それなのに、何かが違っていた。
口にするたび、奇妙な感覚が体の奥を駆け巡った。
記憶ではない。
自分でも説明できなかった。
どちらかといえば、本能に近いものだった。
ほかのすべてが消え去ってしまっても、心のどこかが、その名前は自分のものだと知っているかのようだった。
「つまり、俺の名前はルシアーノ……」
彼の声は穏やかだった。
どこか考え込むような響きがあった。
まるで、たった今、何か重大な真実を告げられたかのように。
自分については何も分からない。
それでも、少なくとも名前だけは分かった。
わずかなものだった。
だが、何もないよりはましだった。
「どうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ?」
彼の表情が再び曇った。
「どうして何も思い出せないんだ?」
理由は分からなかった。
一体どうすれば、ここまで何もかも忘れてしまうのだろうか?
記憶を探ろうとするたび、喉も、頭も、胸も、すべてが同時に締めつけられるような感覚に襲われた。
彼は深く息を吸った。
一度。
そして、もう一度。
何とか落ち着こうとした。
考えなければならないことが多すぎる。
それなのに、考えるための手がかりはあまりにも少なかった。
そのことが、かえって彼の不安を募らせていた。
落ち着くんだ。
彼は数秒間、目を閉じた。
まずは、自分に何が起きたのかを確かめなければ。
彼は目を開けた。
「自分がどこにいるのか、知らなきゃならない」
そう口にした瞬間、山の上から見えた村のことを思い出した。
村。
人々。
もしかしたら、あそこなら誰かが助けてくれるかもしれない。
答えが欲しいのなら、あそこから始めるのが一番だ。
すべてを説明してもらえるとは思っていなかった。
記憶が戻ることさえ、期待していなかった。
今はただ、自分がどこにいるのか、それさえ分かればよかった。
ルシアーノは空を見上げた。
まだ少し明るさが残っていた。
日が暮れるまで、それほど時間はない。
暗くなる前に着かなければ。
それ以上時間を無駄にすることなく、彼は山を下り始めた。
森が夜の闇に包まれる前に、村へたどり着かなければならない。
木々の間に足を踏み入れるまで、それほど時間はかからなかった。
そして、森に入った途端、彼は後悔した。
「……」
彼は一瞬、足を止めた。
森はあまりにも広大だった。
木々は見渡す限り、どこまでも続いているように見えた。
辺り一面、植物に覆われていた。
枝。
根。
茂み。
葉。
何もかもが見知らぬものだった。
そして何より、木々の梢が光を遮り、わずかな光さえほとんど地面まで届かなかった。
俺って、怖がりすぎだろ。
彼は恐れることなど何もないと、自分に言い聞かせようとした。
だが、うまくいかなかった。
枝葉の隙間から差し込むわずかな光が、かろうじて道を照らしていた。
場所によっては、それすらなかった。
影が影の後ろに潜んでいるように見えた。
ルシアーノは唾を飲み込んだ。
あまりじっと見つめるな。
暗闇を凝視していたら、余計なものを想像し始めてしまう。
彼はそう考えていた。
少なくとも、そうであってほしかった。
恐怖を感じながらも、彼は歩き続けた。
ほかに選択肢はなかった。
一歩進むごとに、村へ少しずつ近づいている。
それだけが、彼を前へと進ませていた。
数分が過ぎた。
幸い、何の生き物にも遭遇しなかった。
だが、それは周囲に何もいないことを意味するわけではなかった。
森のあちこちから、奇妙な音が聞こえてきた。
叫び声。
遠吠え。
うめき声。
かすかにしか聞こえないほど遠くから響くものもあった。
一方で、すぐ近くにいるかのように聞こえるものもあった。
ルシアーノは歯を食いしばった。
ほかに選択肢がなかったのならともかく、自分から進んでこんな場所に足を踏み入れるなど、絶対にしなかっただろう。
恐ろしい場所だった。
時折、彼の足は震えた。
それでも、歩き続けた。
村に着きさえすればいい。
彼の頭の中にあるのは、それだけだった。
たどり着きさえすればいい。
やがて、彼の体は頭の命じるままに動き続けることができなくなった。
彼は足を止めた。
近くの木を探し、その幹に背中を預けた。
息が乱れていた。
呼吸を整えようとするたび、空気が肺へと入り、そして吐き出されていった。
こんなとき、ルシアーノは水が本当にありがたいものだと実感した。
喉が渇いた……。
彼は舌で唇を湿らせた。
目覚めてから、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
あの部屋にどれくらい閉じ込められていたのかも分からない。
歩き始めてから、どれくらい時間が過ぎたのかさえ分からなかった。
だが、体は少しずつ限界を訴え始めていた。
「まだ進まなきゃ……」
彼はゆっくりと木から背を離した。
小さく一歩を踏み出す。
そして、一瞬だけ目を閉じた。
ほんの一瞬。
再び目を開けたとき……。
「……え?」
彼はその場に立ち尽くした。
何かがおかしかった。
周囲を見回す。
森はそこにあった。
同じ木々。
同じ植物。
同じ暗闇。
だが、何かが違っていた。
彼の目の前には、土でできた道が伸びていた。
ルシアーノはまばたきをした。
後ろを振り返る。
それから、左右を見た。
こんな道は、さっきまでなかった。
「い、今度はどこにいるんだ!?」
困惑に満ちた声が漏れた。
相変わらず森に囲まれている。だが、ほんの数秒前までいた場所とは明らかに違っていた。
目の前には、木々の間へと消えていく土の道があった。
「どうやってここに来たんだ?」
彼は一歩後ずさった。
「ほんの数秒前まで、木々に囲まれていたはずなのに……」
再び周囲を見回した。
自分の勘違いだと証明できる何かを探した。
だが、何も見つからなかった。
「もしかして、俺はおかしくなったのか?」
呼吸が次第に速くなっていった。
「いや……。ここにいなかったのは間違いない」
自分の手を見た。
それから道を見た。
そして、木々へと視線を移した。
「たった数秒前まで、俺は……」
彼は言葉を切った。
もし、そうではなかったとしたら?
その考えが突然、頭に浮かんだ。
彼の記憶では、ただ目を閉じただけだった。
そして目を開けたとき、そこにいた。
何も感じなかった。
何も聞こえなかった。
何も見えなかった。
ただ、目を閉じただけ。
ほんの一瞬。
それだけのはずだった。
だが……本当に一瞬だったのだろうか?
ルシアーノは背筋に悪寒が走るのを感じた。
もし、もっと長い時間が経っていたとしたら?
彼は思い出そうとした。
何もない。
また、あの空白だった。
何が起きたのか考え続けるよりも早く、聞き慣れない音が沈黙を破った。
「……」
ルシアーノは動きを止めた。
全身に力が入った。
彼は音の聞こえてきた方向へ、ゆっくりと顔を向けた。
今のは、何だ?




