第1話 馬小屋育ちのでくの坊
「おいっ、おいっ! ニココッ! このでくの坊がっ! いつまで寝てやがるっ!!」
遠くで騒がしい声がした。
薄らと目を開けると、いつもの馬小屋が視界に映る。昨日は新しいわらを敷いたから気持ちよく眠れた。
「起きたんなら返事をしろ、でくの坊っ!!」
ずいと目の前にひげ面の中年が現れた。ボドロだ。
ここはラーディッヒ公爵の屋敷だ。ボドロは家畜の世話をする使用人のまとめ役だった。
「おはよう、ボドロさん」
「なにがおはようだっ! おせえっ!! おせえんだっ! 太陽はとっくに真上だぜっ! 馬に水浴びさせたかっ? 羊に草を食べさせたのかっ?」
「あーっ……」
ボドロが早口すぎてよく聞き取れなかった。
一度に二つ、三つのことを言われると途端に理解できなくなる。だから、みんなにでくの坊と呼ばれるんだ。
俺だって、わざとやっているわけじゃないが、すぐに頭がいっぱいになる。
「すみません……一つずつ言ってもらいたい……」
「でくの坊がっ!! なんで真っ昼間まで寝てんだよっ!?」
聞いていた話と違う。
「今日、俺、休みじゃ?」
「アホッ! 仕事が入ったって、帳面に書いといただろうが!」
「文字読めなくて」
「はあっ!? 嘘こくなぁっ! こないだ教えたときはわかってたよなぁ!? 仕事か休みか二つしか覚えなくていいんだぞっ!」
ボドロは鼻息荒く、怒声を飛ばした。
なんと説明すればいいか迷うが、ありのままに答えるぐらいしか思いつかなかった。
「すみません。文字はやっぱり、覚えるの苦手で」
「はっあぁっ!? どんだけでくの坊なんだよっ!!」
そう言われても、頭に入ってこないんだ。
みんなは二、三〇回ぐらい読み書きすれば覚えると聞いた時は驚いた。俺は一〇〇回、一〇〇〇回やってもすぐに忘れてしまうのに。
努力が足りないと言われるが、みんなの何倍やってもだめなんだ。ボドロには覚えるまでやれと言われた時もあって、仕方ないから覚えるまで一日中読み書きを繰り返したこともあった。
そしたら、いつまでやってんだ、仕事しろ、と怒られた。
本当に理不尽だと思う。
みんな一度、俺の頭になってみればいいんだ。本気で無理だから。
「……すみません」
「あー、もうわかった。羊はオイラがやっとくから、おめえは馬を連れてけ。ぼーっとして怪我させんなよ。レオス坊ちゃんに怒られたくなけりゃな」
ボドロは走って羊小屋の方へ向かった。
いつもは休みでも、早く目が覚めるのに今日はなんで昼まで寝ちゃったんだっけ?
そう、確か、水汲みを終えた後に、良い感じの木の枝を拾って――
と、寝床にしていたわらの上に転がっていた棒を見つけた。木の枝の余分な部分をナイフで切り落とし、ヤスリで磨き、持ち手に布を巻いたのだ。
これを夜明けまで振っていたから、朝起きられたかったのだろう。
俺は棒を拾い、軽く一振りしてみる。
ビュウッと風を切り裂く音がした。
やっぱり、良い感じだ。重さもあって、かなり剣に近い気がする。勿論、剣なんて高価すぎて振ったこともないけど。
別になにを斬るわけじゃなく、剣術の修練をするだけなら、この棒でも十分だと思う。
たとえば、そう。
俺は馬小屋の外に出て、木の下に立つ。
棒を一振りすれば、木の葉が一つ舞い落ちてくる。
更に一振り、空を斬り裂き、落ちた木の葉を空中に舞い上がらせる。
もう一振り、木の葉を落とさないように空気をかき混ぜる。
あとはこの繰り返しだ。ゆらゆらと揺れる木の葉の動きは毎回違うし、どう空気を斬り裂けばそれが舞い上がるのかも同じではない。
だから、何度斬っても工夫がいるし、何度斬っても飽きがこないんだ。
普段ならこのまま二時間は続けるところだけど、今日は馬に水浴びをさせなきゃいけない。
「あ」
舞い落ちてくる木の葉を見て、ふと閃いた。
これを剣だけで、どこまで空に運べるだろうか?
屋根の上まで?
いや、もっと高く――
「あの雲まで!」
ブオンッ。
剣を振り抜き、その風で木の葉を飛ばす。
一回目よりも二回目、二回目より三回目の方がより強い風を起こさなければならない。
ブオンブオンブオンッ。
だんだん厳しくなってきた。
力任せに振っても、これ以上は飛ばせない。
風が分散しているんだ。もっと細く、一点に力を集中し、あの木の葉だけを巻き上げる風を起こせ。
もっと高く……もっと高く……もっと高く……
もっと高く、もっと高く、もっと高く――
もっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高くもっと高く、もっともっともっともっともっともっともっと――――
◇
「おいっ、おいっ、おいっ! ニココッ! このでくの坊がっ! 棒を振り回すのをやめねえかっ! 聞いてんのかっ! おいっ!」
腕を誰かにつかまれて、俺はそちらに意識を向けた。
見知ったひげ面が目の前にある。
「あ、ボドロさん」
そう口にすると、ボドロの表情が怒りに歪んでいく。まるでゴブリンみたいだ。彼はよくこんな顔をする。
「ボドロさんじゃねえっ! お前、今の今まで! いってえなにしてやがったんだっ!?」
なにをしていた?
「剣で風を起こして、あの雲まで木の葉を飛ばせるか試していたんだ」
「んなことは聞いてねえよっ!!」
もの凄い剣幕で、ボドロは怒鳴りつけてくる。
聞かれたから答えただけなのに……。
「でも、うまくいったんだよ! 見て」
俺は雲を指さす。
「あそこから、木の葉が落ちてくるから」
「そんなことできるわけがねえだろうがっ!」
ボドロが俺の頭にげんこつを食らわせる。衝撃が顎までズンッと突き抜ける。これは相当怒っている証拠だ。
「んなことより、馬の水浴びはどうしたんだっ? もうすぐ日が暮れちまうぞっ!!!!」
「え?」
そう指摘され、初めて気がついた。
日は沈みかかり、鮮やかな夕焼けが見える。木の葉を舞い上げることに没頭して、時間が経つことを忘れていた。
「すみません。忘れてました」
ボドロは頭を抱え、盛大にため息をついた。
「おめえはなんでいつもそうなんだよ……文字は読めねえ、馬の水浴びは忘れる、じゃいったいなんだったらできるんだ?」
「今から行ってくるっ!」
「よせっ!」
走り出そうとした俺を、ボドロは呼び止めた。
「今から行ったら日が暮れちまう。馬が川に落ちでもしたら、一大事だ。おめえよりも馬の方が高価なんだからな」
「……うん」
俺は漁村の三男坊だった。待つのが苦手な俺は、釣りも網猟もできず、魚一匹とったこともない。親からもでくの坊と言われ、この屋敷に奉公に出されたのだ。
親に支払われた前金は銅貨五枚。僅か五キーリだ。
「今日は夕飯抜きだからな。頭ぁ冷やしとけ!」
足をズンズンと踏みならしながら、ボドロさんは屋敷の方へ去っていった。
いつもこうだ。
言われたことすら俺は満足にできない。やらなきゃいけないことを何度も心の中で繰り返しても、ふと気がついたらまったく別のことをしている。自分で自分が制御できないんだ。
漁村でもでくの坊、お屋敷でもでくの坊。いったい、なになら人並み程度にできるんだろう?
俺はぼんやりと空を見上げた。
ゆらり、ゆらり、と木の葉が舞い落ちてきて顔の上にのった。俺が棒で雲まで飛ばした木の葉だ。
「剣なら、他よりはできるかなぁ?」
なんて――
何度か考えたことがあるけど、無理に決まっている。
剣士になろうにも俺は剣を買う金さえないんだから。




