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第1話 将来の不安と、夫の言い分


私の名前は相原美咲。今年で31歳になる。

結婚5年目、子供なしの兼業主婦だ。


結婚当初は、いわゆる「専業主婦」になって家庭を守る、なんて未来もぼんやりと考えてはいた。


けれど現実は甘くない。

どうシミュレーションしても、夫である和也かずや一人の稼ぎでは、将来が心許なかったのだ。


子育てにかかる費用、自分たちの老後の資金、それに人生何があるか予想もできないリスク。

今が順調だからって、これからもそうだとは限らない。


まあ、稼げるうちに稼いでおこう。

そんな軽い気持ちで仕事を続けていたのだけれど、状況は年々深刻さを増していた。


和也の給料は、この5年で一向に上がる気配がない。


今の時代、会社に期待できないのはわかる。

けれど、あいつには自分から出世しようとか、資格を取って手当をもらおうとか、そういう向上心が欠片もないのだ。いくら言っても暖簾に腕押し。


それどころか、「美咲も働いているんだから困らないだろ」とあぐらをかいている節さえある。


確かに今は困らない。でも、子供はどうする気なのか。

真剣に話し合おうとしても、和也はいつもスマホを片手に生返事ばかりだ。


「まあ、そのうちな」


「なんとかなるだろ」


そんな言葉を聞くたびに、胸の中に冷たいおりが溜まっていく。


和也にその気がないなら、どうしようもない。

けれど、お互いの両親――特に義父母からの「孫はまだか」というプレッシャーは日に日に強くなっている。


それに、私自身だって子供は欲しい。

だけど、今のやる気のない和也を見て、どうしても自問してしまうのだ。


こいつに、父親が務まるのだろうか?


和也とちゃんと向き合って話し合うべきか。

それとも、見切りをつけて新しい人生を探すべきか。

あるいは、子供は諦めて、今の共働き生活を続けるべきか。


本当ならもっと早く決断すべきだったのだろう。

状況に流され、ズルズルと5年先延ばしにしてしまったのは、私の弱さだ。


わかってはいる。行動を起こすには、かなりのエネルギーがいるから。

タイミングがね……なんて、ああもう、ただの言い訳だ。


そんなモヤモヤを抱えていた私に、会社から大きなチャンスが舞い込んだ。

社運をかけた大型プロジェクトへの抜擢だ。これを成功させれば、管理職への道が開ける。


私は意を決して、夕食後のリビングで和也に切り出した。


「和也、ちょっといいかな。これから半年位なんだけどね、結構大きめのプロジェクトに参加することになったの」


和也はテレビに向けた視線を外さず、缶ビールを煽る。


「ふーん、で?」


「それでね、申し訳ないんだけど、急な出張や泊まり込みなんかも発生すると思うのよ。でね、家のことなんだけど、当分は和也も自分のことは自分でやってもらえるかな?」


予想通り、和也は露骨に嫌な顔をした。


「いきなりだな。それ、断れないのか?」


「うーん、断れないことはないんだけど……会社も私が断ったら困るだろうし。多分だけど、このプロジェクトをうまくやれば、管理職にもなれるかもしれないし」


そう、これはチャンスなのだ。


確約ではないけれど、上司からは「今期、このプロジェクトを頑張れば、来期の人事で推薦できる」とほのめかされている。

将来の不安を少しでも拭うために、断る選択肢は私にはない。


けれど、和也の反応は冷ややかだった。


「別に出世しなくたって、困ることないだろう? 逆に出世なんかすると、会社の都合に縛られて夫婦の時間がなくなるし。それに美咲がいつも言ってる子供のこととか、どうするんだよ?」


どの口が言うのだろう。

子供のことを真剣に考えてこなかったのは、どこの誰だと思っているのか。


カチンときたが、私は深呼吸をして言葉を選んだ。


「和也の言い分もわかるわ。でも、せっかくの機会だし、やってみたいのよね。確かに管理職なんて、上がった収入より責任や拘束時間を考えれば割に合わないかもしれない。でも、まずはやってみたいの。チャンスを与えてもらえるのは、全ての人ってわけじゃない。私はそれを活かしたいのよ」


これはもう、どちらが間違っているとか、正しいとかの問題じゃない。価値観の違いだ。


もしここで和也が「わかった、半年の辛抱だな。応援するよ」と言ってくれれば、私ももっと頑張れるのに。


どうも和也はこの手の話を「面倒くさい」と感じるようで、真剣に向き合おうとしない。


「とにかく俺は反対だからな。この話はこれで終わりだ」


和也はそう宣言すると、タバコとスマホを持ってベランダに出て行ってしまった。

ガラス戸の向こうで紫煙をくゆらせる背中を見て、私は悟った。


ああ、これはもうダメだな。


ああなると、面倒くさがってこっちの話は一切聞いてくれなくなる。いつものパターンだ。私が折れるのを待っているのだ。


だけど、今回の話は今までと違って、そう簡単に諦めることはできない。


いきなりの話ではあるけど、こっちの都合も一切聞かず、話し合いにも応じてくれない。

これじゃあ、和也の言う「夫婦の時間」ってやつも、私がただ黙って和也に従うだけの時間になりかねない。


……悩んだけれど、考えはまとまった。


私は、この話を受ける。


和也は文句を言ってくるだろうが、それは構わない。

それを機会にして、ちゃんと話し合えればそれでいいし、もう和也が話から逃げるのを「しょうがない」として私が合わせるのは、この件に関してはナシだ。


翌朝。

出勤前の慌ただしい時間を見計らって、私は和也にはっきりと伝えた。


「昨日の話だけど、私、プロジェクトに参加することにしたから」


トーストをかじっていた和也の手が止まる。

不機嫌そうに私を睨みつけた。


「勝手にしろ。あとで後悔しても知らないからな」


「……わかったわ。行ってきます」


うーん、何も解決していないのに終わりにするのは止めてもらいたいんだけどな。

こうなるかとも思ってはいたけど、本当に覚悟を決めないと。


始めてしまったら、生半可な理由では止めることができない。

会社にも迷惑がかかるし、話を受ける以上、家庭内不和程度のことで調整ができないようでは社会人失格だろう。


玄関のドアを閉めると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。


胃のあたりが重たい。でも、不思議と足取りは軽かった。

これが、私と和也の終わりの始まりだとは、まだ気づいていなかったけれど。

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