▼第十四話「希望」
ユピテルの拳は、もはや単なる拳ではなかった。それは、概念そのものと化し、時間と空間の境界を揺るがし、因果律すら捻じ曲げるかのような、異質な力場を纏っていた。
その拳は、テュポンの分厚い肉体を容易く融解させ、その深奥に潜むハイペリオンの精神へと、直接触れた。
「天魔神功奥義<阿頼耶識獄門>ッッ!!!!」
その瞬間、テュポンの一部と化していたハイペリオンの意識は、さらなる深淵へと引きずり込まれた。
そこは、虚無と混沌が支配する、異次元空間。通常の人間の精神では、決して足を踏み入れることのできない、意識の最深部。
そこでハイペリオンの自我は、無数の断片に分解され、それぞれの断片が、異なる時間軸、異なる世界線に、容赦なく投げ込まれた。
ある断片は、幼い頃の無邪気な自分に戻り、花畑で無邪気に遊んでいる。しかし、その花は血の色に染まり、足元には無数の骸が転がっている。
別の断片は、絶望の淵で虚ろな目をし、永遠に続く苦痛に苛まれている。
また別の断片は、かつてハイペリオンが倒した敵の姿に変貌し、ハイペリオン自身を嘲笑い、罵っている。
無数の「自分」が、互いに争い、憎み合い、嘲笑い合う。
ハイペリオンの精神は、無数の「自分」によって八つ裂きにされ、混乱の極みに達し、やがて完全に崩壊していく。
過去、現在、未来、そして可能性として存在し得た、無数の並行世界の記憶が、制御不能な奔流となって押し寄せる。
さらに、喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、愛情、恐怖……あらゆる感情が、濁流となってハイペリオンの精神を呑み込んでいく。
それは、相手の意識を多元的に分解する、精神破壊の極致であった。
一方、現実世界では、ハイペリオンの精神が崩壊するのと同時に、ユピテルの拳がテュポンに触れた場所から黒い亀裂が広がり始めた。
亀裂は、ハイペリオンの精神が崩壊していくのに呼応するように、その勢いを増していった。亀裂からは黒い光が漏れ出しており、周囲の景色が奇妙に歪んで見えた。
テュポンの巨大な体は、熟した果実が落ちるかのようにあえなく崩れ落ちていく。その度に、黒い亀裂はさらに広がり、テュポンの体を蝕んでいった。
百の蛇の頭は、もはや炎を吐くこともなく、力なく垂れ下がり、時間が停止したかのように動かない。
そして、ついにその時が来た。ハイペリオンの精神が完全に崩壊した瞬間、テュポンの体全体を覆っていた黒い亀裂が、一斉に光を放ち始めたのだ。
次の瞬間、テュポンは、眩いばかりの光を放って大爆散した。
周囲一帯は真っ白に染まり、あらゆる音が掻き消されるほどの爆発であった。
遅れて、凄まじい爆風があたりを吹き荒れた。それは大地を揺るがし、周囲の岩を粉々に砕け散らせる。
テュポンの巨大な体は、跡形もなく消え去った。残ったのは、破壊の爪痕と、静かに立ち込める土煙だけだった。
阿頼耶識獄門は、相手を精神と肉体の両面から同時に破壊する、恐るべき奥義であった。
生き残った人々は、はるか遠くでテュポンが爆散する光を見て、安堵の叫び、そしてユピテルへの感謝の叫びを上げた。
しかし、その喜びも束の間だった。
世界は変わり果て、多くのものを失ってしまったのだ。
ユピテルは、オリンポスへは戻らず、妹の待つ場所、ティターンへと向かった。
しかして、そこは、オリンポスよりもさらに悲惨な状況だった。
かつて栄華を誇った街は完全に崩壊し、瓦礫の山と化していた。
大災害ですべてが潰れた街を目の当たりにし、ユピテルは静かに涙を流した。妹ヴェスタも、もはや遺体すら見つからないだろう。
その時、微かな声が聞こえた。それは、ユピテルにとって、聞き慣れた、大切な声だった。
それは、妹のヴェスタであった。
「お前……!! 生きていたのか!!」
ユピテルは大地に降り、ヴェスタを強く抱きしめた。
妹の温もりが、恐怖と不安の緊張を融かし、熱い涙が溢れ出した。
「ハイペリオンが私の部屋に誰も入って来れないように、サイキックで封印していったの。そのおかげで助かったんだわ」
そして、ティターン人の少数の生き残りが、おずおずとユピテルとヴェスタの抱擁を見ていた。
ユピテルは、彼らをどうするか、考えてもいなかったが、すぐに決断した。
「戦争は終わった! 全てを失ってしまったが、まだ希望はある! 俺と一緒に、新しい国を、新しい世界を創らないか?」
ユピテルは、ティターン人の生き残りを連れて、愛するユノの待つオリンポスへと向かった。
ユノはユピテルの姿を見つけて、迷うことなく彼の胸に飛び込んだ。二人は固く抱きしめ合い、言葉を交わすことなく、互いの無事を喜び合った。
オリンポスの人々は、ティターン人の姿を見て最初は怯えていたが、ユピテルの力強い宣言に、覚悟を決めた。
「みんな、よく生き残った! 何もかも消し飛んでしまったけれど、力を合わせて、この世界で生き抜いていこう!」
ユピテルは、わずかに生き残ったティターン人とオリンポス人を糾合し、新しい国家を築き始めた。
文明が失われた世界で、新たな歴史が始まろうとしていた。
それは、破壊と絶望の中から生まれた、希望の光だった。
ケラウノスを送り込んだ科学者ウルカヌスは、地下の秘密研究室のなかで、周囲の景色が瞬く間に変わっていくのを、面白がりながら観察していた。
そして、世界が一変した。
ネアンデルタール人の弾圧から逃れ、隠れながら研究していたウルカヌスだったが、研究室の設備まで変わってしまった。
恐る恐る外に出てみると、街並みが変わっている。
そして、歴史を調べてみると、その歴史のすべてが変わっていた。
元号も、新暦から西暦に変わっている。
人々の生活様式、文化、文明、全てが大きく変化していた。
さらに、おもむろにユピテルの名を検索すると、それは歴史の教科書ではなく、神話の中に記されていた。
彼は、神話の英雄、雷霆を操る神として、人々の記憶に刻まれていた。
ユピテルは、神話になっていた。
「平和な世界をありがとう、ご先祖様」
空を見上げながら、ウルカヌスは静かに呟いた。
現代では、ネアンデルタール人のDNAが、サピエンスのなかに数%残っていて、その痕跡を残している。
(おわり)




