147:泣き笑い
短い間だったかもしれない。
けれど、カナタにとっては長い長い沈黙だった。
ベッドの上で体を起こして俯いているサラの様子をうかがうが、表情は分からない。
そのとき、ふっ、と空気が揺れた。
「そっか」
震える、小さな声だった。
「わかってたんだ」
切ないような、驚いたような、安堵しているような。
そんな声だった。
俯いていた顔を上げて、カナタに向けたサラの表情は、泣き笑いだった。
その顔は、迷子がようやく自分の親を見つけたときに似ていた。
ほっとして、ようやく自分を受け止めてくれる人を見つけて、泣きじゃくる前の顔。
それは、悲しみの涙ではない。
それは、絶望の涙ではない。
それは、嘆きの涙ではない。
カナタの体は、当たり前のように動いてサラを抱きしめた。
「サラは、よく頑張った」
堰を切ったように泣きじゃくる姿は幼子のようだった。
それが、正しいのだと思う。
カナタの知る限り、サラが泣く時は、いつも大人にならなければいけないときだった。
大人であることを自らに強いるサラは、子供のように泣きじゃくるさえ自分自身に許さなかった。
「幸せになろう」
囁いた言葉は、サラの泣き声にかき消されると思っていたら、サラの耳にも届いたらしい。
「なり、たいっ」
しゃっくりを上げながら、泣いて顔を真っ赤にしながら、カナタの目を真っ直ぐにとらえて、サラは言った。
「しあ、わせにっ、なるの!」
泣きながら決意をあらわにする姿は、守る必要なんてないほどの強さを秘めている。
(ああ、やっぱり)
サラがどんな姿を見せようと、カナタにとってはいつだって眩しいほどの光を放つ。
ずっと昔に、守りたいと思った女の子は、きっとカナタの手を離れても強く生きてゆくのだろう。
(やっぱり、愛おしい)
だからこそ、カナタはサラの手を放せない。
隔てられた瞬間に、崩れ落ちるのはサラではなくカナタの方だ。
(サラが居なければ、この世界は成り立たない)
常であれば、冷たくドロリとしたカナタの想いが、今はなぜかサラサラと温もりをもって体を巡る心地がする。
腕の中の温もりは、やがて泣きつかれたかのように眠りにつく。
ようやく“大丈夫”になったのだ、とサラを再びベッドに横たえながらカナタは思った。
きっとここから、サラは一歩ずつ踏み出していく。
叶うのならば、カナタはずっと、その隣をサラと共に歩んでいきたいのだ。
群がるナニかが、ソレを屠っている。
アカイ、アカイ、ソレから流れる血が大地を濡らす。
叫ぼうとして、叫んではいけないことに気づく。
否応にも重なる記憶だけが、私をここから切り離している。
遠ざかっていく光景から目をそらすように、自分を抱える存在の肩に顔を押し付けた。
その夢から覚めた瞬間、自分が誰なのかを思い出す。
夢の内容に引きずられるように、あの人を蔑む嗤いが口から漏れた。
根底にあるものは、怒りなのか、悲しみなのか。
引きつけを起こしているかのような自分の声が、自分でも不快で、なのに、衝動は収まらない。
まだ、私は“私”を失うわけにはいかない。
私は私の目的をまだ達していない。
消えるのならば受け入れよう。
けれど、私はそれまで足掻くと、諦めないと決めたのだ。
狂ったように響く嗤い声は止まらない。
その時だった。
へし折られそうなほどの強さで、誰かの手に首を締め上げられる。
打って変わって何の音も出せなくなった喉に空気を送ろうと、口を開閉するが締め上げる力は一瞬も緩まない。
首にかけられた手をどけようと、自分の両手でその手に爪を立てる。
弱々しい抵抗は、自分を殺そうとする手の主に何の変化も与えない。
その時ようやく、首にかけられた手が誰のものであるかに気づいた。
意識を失いそうになる一瞬、私はようやく“私”を取り戻す。
苦しみも痛みも恐怖も諦観も、先ほどまで私の体を支配していたあらゆるモノが、一瞬で遠ざかり、無に帰する。
「もういいよ。ありがとう、ファラル」
変わらず首を締め上げられたまま、レイは自分が横たわるベッドの端に腰を下ろし、無表情にレイの首に手をかけていた存在に言葉をかける。
その言葉に、ファラルはレイの首から片手を離す。
ごく自然に、ファラルの手は寝乱れたレイの髪に伸びた。
先ほどまで死を運んでいた手は、何度も整えるように優しく動く。
レイはされるがままに、その優しさを享受する。
ギィ、と微かな摩擦音を立ててレイの頭の上でベッドが沈む。
覆いかぶさるような体勢になったファラルの体は、手をついた場所に重みをかけて深く深く沈んでいく。
表情のないまま、ファラルは言った。
「泣いているな」
正しく人外の、凄絶なまでに美しい容貌がすぐ目の前にある。
「……ただの、名残よ」
レイは答えた。
「“父”なんて、役に立たないものよね。私には、母さんがいれば、それでいい」
そう言って、クスクスと笑っているうちに涙も止まる。
体を起こそうとすれば、ファラルの体も同じように動く。
本当に。
私には母さんさえいてくれれば、それでよかったのに。