90s nostalgia ⅩⅣ
オールタイムシフト。
加速していく主観時間は遷移していく。消費するたびに消耗する享楽の酒池肉林。時計の秒針が奏でるラプソディー。賞味期限切れの神は腐っても鯛のような味がしたらしい。
思い出の楔は凍土に打ち込まれているが、腐食することそれ自体を止めることはできようはずもない。
神は死なず。
半死半生のまま、虚ろな目をして焦土をさまよい続けている。
蔓延するカビのように繁栄する砂上の楼閣を目指し走る姿は郷愁の絞りかすに希望を見出した虜囚のようだ。
僕たちは未来に囚われている。
ドクター、ジニアの日誌より
視線を感じる。それも一人や二人ではない。朝から誰かとすれ違うたびに顔を見られている気がして、クーヤは落ち着かなかった。
左手の人差し指に巻かれた絆創膏は特訓の証。ナズナの料理教室、名誉の負傷。全く自慢にはならないが、本格的に料理をするのは初めてだった。出来上がった料理――肉じゃが――を試食してみると、思いのほか美味しくできていた。しかし、唯は何故か微妙な顔をしていた。味に文句はないと言っていたから、なおさら不思議だった。じゃがいもを咀嚼しながら、全く別のことに思いをめぐらしているように見えた。
ナズナに言うと怒るだろうが、当初クーヤは彼女の特訓をほとんど信用していなかった。料理スキルを磨くことが美少女力の上昇に繋がるとは、思ってもみなかった。ところが、現実はどうだろう。注目の的だ。クーヤは改めて自分の美少女力を測定してみることにした。期待に胸が躍る。
……二千五十。
めまいがしそうだった。
「……こんなはずでは」
「クーヤ、馬鹿やってる場合じゃないよ」
いつの間にそこにいたのだろう。背後から唯が手元を覗き込んでいた。急いで数字を隠そうとするが、見られたあとで隠しても意味がない。しかし、彼女の表情はクーヤの痴態を見ても暗く沈んだままだ。明らかに様子がおかしい。
「かなりマズイことになってる。私がドジ踏んだせいだ。ごめん」
「ちょっと何? どうしたの?」
クーヤが問いかけても、彼女はうつむいたまま答えようとしない。
教室のどこかから押し殺した笑い声が聞こえたような気がした。実際には聞こえるはずがない。聞かせたくないことを聞こえないようにする配慮くらいは誰でも持ち合わせている。だから、それは錯覚だ。しかし、漏れ出た悪意は空気感染する。何よりも、泣きそうな唯の顔がクーヤの直感の正しさを雄弁に物語っていた。
「ここでは話せないことなんだね?」
「……うん」
クーヤは唯の手を取った。濃密に膨れ上がった悪意を肌で感じる。どこか二人きりになれるところはないだろうか。それはひとまず後から考えることにして、教室から飛び出した。とにかくそこにいたくなかった。
階段を下りて避難場所を探す。保健室に逃げ込むことにした。理由は適当にでっちあげれば良い。養護教諭に「気分が優れないそうです」と告げると、一瞥しただけでベッドを指し示した。ひと目で訳ありだと見抜いたのだろう。日和見主義とも言えるが、余計な詮索をされないのはありがたかった。
カーテンを閉め切ってベッドに並んで腰をかけると、唯は少しだけ持ち直したようだ。外界からは完全に遮断された。
「話してくれる?」
「うん」
唯はぽつりとうなずいた。中空にスクリーンが浮かび上がった。動画の再生が始まった。画面全体が薄暗いため、はっきりとは見えないが、二人の少女が絡み合っているのが確認できた。地下室に閉じ込められたクーヤと唯だった。しかし、それは姿かたちこそ似ているが、決して二人ではありえなかった。言った覚えの無い卑猥な言葉が乱舞していた。
音声のサンプリングと編集。手法は容易に想像できた。
見るに堪えなくなってクーヤは再生を停止した。
「クーヤぁ」
唯が泣いていた。細い肩を震わせて、声を押し殺して、それでも涙は止められなくて……そんな彼女にかけてやれる言葉をクーヤは持ち合わせていなかった。ただ肩を抱いて好きなだけ泣かせてやるくらいしかできなかった。
こうしている間にも悪意は拡散していく。一度流れ出してしまえば、犯人をつかまえたところで意味が無い。二次、三次放流者……その先まで。永遠にいたちごっこを続けることになる。
自分は女のなりをしているが、それはあくまで仮の姿だ。影響はコンテストで不利になるくらいで、それほど痛くない。唯は違う。傷つけられれば、生身の体が血を流すのだ。犯人が許せない以上に迂闊な自分が許せなかった。
犯人のめぼしはついていた。
だが、クーヤは迷う。これ以上騒ぎを大きくするべきなのだろうか。
「クーヤ?」
「大丈夫。なんとかするから」
一人でやろう。可及的速やかに。誰にも気取られることなく。
翌日、唯は学校を休んだ。
音信不通。
クーヤが思っていたよりもずっと唯が負わされた傷は大きかった、ということなのだろう。話し相手は皆無。清々しいまでにはぶられていた。延焼の危険を冒してまで、クーヤに話しかけようとする猛者はいない。異様な雰囲気を感じ取ったのか。そわそわしていたアリサには個人的に釘を指しておいた。
空いた時間はスノッブから渡されたゲームをしてつぶしていた。空欄が目立つようになってきていた。恐らく交換をしていないせいだ。ナズナの中ではどういう位置づけなのだろうか。ふと気になった。そう言えばアリサもプレイしていると言っていたような気がする。……関係ないことを考えている。弱気になっている証拠だった。
ウィルスのように増殖する動画を撃退する特効薬は無いものだろうか。
クーヤは上書き保存して電源を落とした。ゲームのようにセーブポイントまで戻って不都合なデータを書き換えることができれば、とクーヤは思う。
懲りずにミズハナの身辺調査に乗り出す。
仮に成功したとしても、クーヤたちについた黒いイメージを払拭できるとは思えない。何よりこれ以上泥仕合をする気にはなれない。
男であることを暴露する。
インパクトは抜群だが、スノッブとの賭けには敗北することになる。まるでナズナと唯を秤にかけているようだ。気分の悪くなる想像だった。
蜘蛛の巣に絡め取られたように身動きができなくなっている。
唯のことを頼りにしていたんだな。
教室でただ一つの空席を見つめながら、クーヤはひとり思う。
まずはクラスメイトのモブオを放課後、校舎裏に呼び出すことにした。
手法は古典的に。
靴箱に手紙を忍ばせた。
モブオを選んだのは、ミズハナ初来襲の際に、何事もなく唯をクーヤと偽って教えた前科があったからだ。モブオは一人校舎裏でうきうきしていたが、クーヤの姿を認めるやいなや露骨に顔をしかめた。予想通りいいやつだった。無記名で手紙を出したのは正解だった。
「なんだ。よりによっていらないほうかよ」
モブオは悪態をつきながらも、色々教えてくれた。
男子の間で動画はどんどん広がっているが、一部を除いて悪ノリしているだけだということ。ユイが クーヤのために、一人で防波堤を築いていたということ。動画の出所はおそらくミズハナのところだろうということ。ネガティブキャンペーン自体は成功かどうか怪しいということ。少なくとも男子の間では、好評を博しているということ。百合カップルはおいしいらしい。
「ミズハナ陣営についても面白くないんだよね。下馬評だといまのところミズハナの圧勝だぜ。対抗馬というよりは大穴扱いなんだよ、クーヤさんは。なんか変だし。まぁ俺は面白ければ何でもいいんだけど。というわけで、今度みんなで飯いこうぜ。アリサと比べられるとツライけどさ。君ら二人ともそこそこ人気あるよ」
モブオは予想以上にいいやつだった。
「個人的にお付き合いしてもいいぜ」
「遠慮しておきます」
「あー、やっぱり男は顔なのか。ちくしょー」
本気で悔しがっているが、おそらくノリで言っているだけだろう。一瞬あとには、晴れやかな笑顔を見せる。自分が女なら惚れていたかもしれない。
「お付き合いは無理ですけど、全部終わったら一緒に泳ぎにでもいきましょうか?」
「そんなこと言うと期待しちゃうよ、おれ」
鼻を鳴らしながら言うモブオは、どこまでも冗談みたいな男だった。
彼のことは信用してもいいのかもしれない。
「案外話せるやつだな。クーヤさんは。友達にも根回ししとくね。あんまりはしゃぎすぎないようにって。モチロン下心こみで」
とにかく味方は一人でも多いほうが良い。クーヤは曖昧に笑っておくことにした。本来の性別は口が裂けても言わないほうが賢明だろう。
何を勘違いしたのか、モブオは楽しそうに笑っている。
「ところで、君たちは実際のところあの通りなの? その……同性愛者? いや、別に君らがそうだったとしても、どうだってわけじゃないんだけど。ほら、夢は広がるじゃん。みんなが一番気になってるところはそこだと思うんだよ。君たち異常に仲いいしさ。妄想されて気分悪いとは思うけどさ。その……ここだけの話、教えてくんない?」
「それは下種の勘ぐりというやつですよ」
「下種でゲス」
クーヤの白い目に晒されても、さして気にならないようだ。どこでも誰とでもこの調子なら、警戒心を持たれることもなさそうだ。羨ましい性格だった。
「真面目に聞くけど、ユイさんが休んでたのってアレのせいなの? 答えたくなければ答えなくてもいいよ。普通に失礼だからな」
「……わからない」
「そっか」
モブオは声の調子を落とした。
「なんか、ありがとうございます。突然相談したみたいになってしまって」
「ああ。気にしないでいいよ。俺は学校生活が楽しければ、それでいい人だから。クーヤさんが言ったように下種なんだよ。噂話とか好きだしね」
初めて真面目な顔をして語るモブオは、どこか気恥ずかしげに見えた。
「余計なお世話だとは思うんだけど、ユイさんのことをなんとかできるのはきみしかいないと思う」
そんなことは言われなくてもわかっているつもりだったが、モブオの誠実さにクーヤは背中を後押しされたように感じた。
唯に会いに行こう。
素直にそう思えた。
「誰にも言うなよ。このこと。俺のクラスでの立場が悪くなるから」
「ええ」
クーヤは右手を差し出していた。どういうわけか、自然とそうしたくなったのだった。モブオは軽く触れるようにクーヤの右手を取った。そして恥ずかしそうにしながら、足早に去っていった。
心強い味方ができたような気がしたクーヤだった。