90s nostalgia ⅩⅡ
一時間ほど経った。
クーヤたちは放置されたままだった。
最初のうちこそ諦めずに部屋の中をネズミの一匹すら見逃さないほど念を入れて調べていた唯も、とうとう根を上げて座り込んだ。
二人とも黙りこんだままだ。
唯の心情はよくわからないが、なんだか暗い顔をしている気がする。
クーヤはクーヤで微妙な問題を抱えていた。
朝食後と昼食後の一日二回。決まった時間にスノッブから渡された薬を飲んでいるクーヤだったが、そろそろその効果が切れる時間だった。
唯にばれている節はあるが、それでも確定させてしまうのは気が引けるし、もしもの時に言い逃れができなくなる。薬そのものは制服に忍ばせているが、唯の前で飲むことには抵抗があった。
しかし、男の姿に戻るよりはマシな気がする。
クーヤは唯に背中を向けて、こっそりと薬を飲み込んだ。
「何飲んでるの?」
背中に目でもついているのではないだろうか。クーヤは本気で疑った。
「じょ、常備薬」
「嘘ついてもわかるんだよ。特にクーヤの嘘は。それにどこも体悪くないよね」
「栄養剤なんだ。お腹の足しになるかなって」
「私にもちょうだい」
唯の目はクーヤの手の中にある小瓶に注がれている。上手い言い訳がいつでも流れるようにすらすらと出てくるなら苦労はしない。考えている間に、さっと小瓶をさらわれた。
「どっちがオススメ? あー、やっぱり良いや。クーヤが赤なら、私は青にしよっと」
クーヤの返事を待たずに、唯は青いカプセルを口の中に放り込んだ。
「味はしないのね。こんなんでホントに栄養あるの?」
どうせ飲むなら赤いカプセルにして欲しかった。それなら女である唯には無害のはずだ。しかし、青いカプセルを元々女である唯が飲むとどうなるのか。クーヤは男に戻りたい時に青いカプセルを試したことはあるが、同じような変化が体に現れるのだろうか。実はクーヤも知らなかった。
三分が過ぎ、五分が過ぎても唯は何も言ってこない。
見かけだけでは判断できないが、特に変わった様子は無いようだ。
「クーヤ。つかぬことをお聞きしますが、よろしいでしょうか?」
急に畏まって唯が隣に座った。
「もしかして、さっきの薬。栄養剤ではなかったのではなくて?」
逃げようとしたクーヤの肩をガシっと掴み、地面に縫い付けたその力は女のものとは思えないほど強かった。
「怒らないから言ってみて。ホントは何の薬だったかを」
「か、勝手に飲むからだろ。常備薬だって言ったじゃないか」
「それならそうと言ってよ。常備薬で栄養剤だって言うから飲んだのに」
唯は涙目になっている。すわりが悪いのか、頻繁に腰の位置を変えている。恐らく急に生えた股間のものの扱いに難儀しているのだろう。
「もうやだ。何なのこれ。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪いー。クーヤ何とかしてよー。あ、そうだ。赤いやつ飲めばいいんだよね。そうだよね」
再び伸びた唯の手を、今度こそクーヤは押しとどめた。
「飲み過ぎると体のバランスが狂って戻れなくなるかもしれないって。時間が来れば戻れるから、それまで我慢して」
「我慢って。どれくらい?」
早ければ早いほど嬉しい。唯の目はそう言っていた。
期待には答えたいし、嘘をつくのは簡単だが、裏切りの失望は期待の大きさに反比例する。クーヤは迷ったが、ありのままを伝えることにした。
「……六時間くらい、かな?」
空気がこれ以上重くならないように明るく微笑んで言ってみた。
効果は無かった。唯は世界の終わりに吹き鳴らされる喇叭の音でも聞いたかのように膝を抱えた。効きすぎる薬が恨めしかった。
「今日中には戻れないってことなのね。あんまりよ」
「私の立場は……」
「クーヤは女の子だからわからないんだよ。男と女は違うの。私は男の気持ちなんかわかりたくないもん。クーヤのばかーっ!」
胸倉をつかまれてカクンカクンと揺すられる。
そういえば昔から予想外の事態に直面すると前後不覚に陥る癖があったなぁ、とクーヤは思った。
「人が大変なことになってるのに、なんで嬉しそうなのよ。というか、クーヤは可愛い女の子になって、私は見た目が変わらないってどういうことなのっ!? おかしくない!?」
「そこ!? そこなの? 突っ込むとこ」
「うるさーいっ!」
前後に大きく揺すられてクーヤは気持ちが悪くなってきた。唯は自分が男になっているのを忘れているに違いない。力の加減をしてくれない。クーヤはいまにも落ちそうだった。
「ギブ! ギブ! 力、強くなってるから。私、女の子だから!」
唯はきょとんとしているが、とりあえず前後に振るのはやめてくれた。クーヤは唯の手首を取って、自分から引き剥がした。
「そんなに焦らなくても大丈夫だって言ってるだろ。なんだよ。男になったくらいで」
「くらいって。くらいって……そんなに単純にできてないもん」
「あー、もうわかった。わかったから。悪かったよ」
クーヤは言い捨てて唯から離れると、膝を立ててドカンと座った。太ももはおろかパンツまで見える姿勢だが、どうせ側には唯しかいない。半ば自棄になっていた。
「……クーヤ、パンツ見えてるよ」
「知ってる」
当てこすりをしたいわけではなかった。一方的に唯を悪者にして責めたいわけでもない。しかし女のように振る舞いたくもなかった。自分でも矛盾していると思うが、クーヤは気持ちのやり場を失っていた。
薄暗い部屋に長い間、閉じ込められているせいで精神が参ってきていた。
「クーヤ、パンツ見えてる……」
「だから知ってる」
「知ってるなら閉じてよ」
唯は懇願するように言った。本気で恥ずかしそうだ。クーヤは全然恥ずかしくないのに。全く意味がわからなかった。
「クーヤ、お願いだから。気になるっていうか、変っていうか……おかしいの。わけわかんないよ」
「おかしいって? 何言ってんだ?」
クーヤが聞いても、唯はぎゅっと目をつぶってイヤイヤをするだけで答えない。
まさか副作用?
クーヤは何とも無かったが、もしかすると個人差があるのかもしれない。心配になったクーヤは唯の元へ駆け寄った。
「唯、どこか痛むのか? できることないか?」
手を取ると温かかった。唯はびくっと震えた。いよいよ心配になってきた。
「だ、大丈夫だから。平気だから。たぶんそういうんじゃない」
「何言ってるんだ。そんなにつらそうな顔して。隠さないでいいから。力になるよ」
手を握って唯の前髪をかき上げた。ヒッ、と唯が息を飲むのが聞こえた。額と額をくっつける。体温が高いような気がする。
「クーヤ、離れて。話すから。離れて」
唯の慌てぶりは尋常ではない。しかし、話す気になってくれたのは前進だ。クーヤは大人しく従った。
「なんて、いうのかな。クーヤが可愛いって。そう言えばいいの、かな。たぶん、そう。男の目で見ると、たぶんクーヤが可愛いんだと思う。女の時はそんなこと思わなかったの。自分の方が、その……美少女力高かったし」
「それで?」
「それでって……全部言わす気? ちょっと酷いよ」
「言ってくれないとわからない」
「だから、パンツが気になって気になって仕方なかったの! これでいい! いまだってクーヤのこと抱きしめたいの我慢してるの! もうダメだ、私」
聞き終わるのと同時に押し倒されてしまった。
あれ? もしかして、これはヤバイんじゃないか。とクーヤは思った。
「どうしたらいい? ねぇ、どうしたら」
「とにかく落ち着いて。落ち着こう。焦ってもいいことはないって。まず落ち着くのが大事。まずはそれから!」
落ち着け、落ち着け、と繰り返しながら、クーヤ自身は焦りまくっていた。
唯を悩ませている原因は明白だ。煩悩の虜になってしまったのだ。無意識が情欲の牙を突きたてろと命じているに違いない。対象は何を隠そう、この私。クーヤだった。
「クーヤ。苦しいよぉ」
「だー。落ち着けというに!」
抵抗むなしくぎゅっと抱きしめられてしまった。唯自身は自分の状態を把握しきれていないらしい。それが救いだった。しかし、いつまでも悠長なことは言っていられない。クーヤは諦めて実力行使に出ることにした。
「ぐぇっ!」
ひき潰されたカエルのようなうめき声を上げて唯は倒れた。ほうほうの態だが抜け出すことができた。だがクーヤの側の代償も大きかった。唯の煩悩を握りつぶしてやった。右手が光っていた。
「落ち着けー。落ち着けー」
唯のため、そして自分のために念仏をあげることにした。
うずくまっている姿は見慣れた幼なじみだが、心には獣が巣食っていた。まさしく貞操の危機だった。花を散らすには早過ぎる。大きかった。自分のものよりも大きいかもしれない。様々な思いがクーヤの中で交錯していた。心臓が早鐘のように鳴っていた。
「ひどいよ、クーヤぁ」
怨念のこもった眼差しを向けられてクーヤはたじろいだ。唯は地面に臥したままだ。目尻に涙をためている。
「ゆ、唯が悪いんじゃないかっ! 目が、目がヤバかった。アレは本気の目だった。怖すぎ!」
「そんなこと言われてもわかんないよ! 説明してよ。説明! 人のち……大事なところ潰しておいて、そんな言い方ひどい!」
「じゃあどうしたら良かったんだよ! あのまま抱かれてたら唯は襲っただろ! 最後までしたくなっただろ!」
「そんなことしないもん! クーヤのバカ!」
正座してにらまれるが、怯むわけにはいかない。思い出したくもないが、興奮した男性特有のそれを押しつけられた恐怖は簡単に薄れるものではなかった。しかし、説明したくない。
説明すれば何かが解決するのだろうか。
わからない。
唯のことを傷つける?
わからない。
自分は男? それとも女?
わからない。何もかもわからなかった。クーヤは発狂しそうだった。
クーヤは唯から距離を取って座った。座り方にも細心の注意を払った。
唯のほうからは何も言ってこない。
クーヤのほうからも言うことはない。
時間だけが過ぎていく。
冷静になってくると、クーヤのほうにも反省するべき点があったように思える。けれども自分から歩み寄るのは何となく癪だった。ひとまず脇に置いておくことにした。
閉じ込められているから気が滅入ってくるのだ。
クーヤは駄目だろうとは思いつつ扉を引いてみた。軽い。頑強に閉じられていたのが嘘のように簡単に開いた。
「クーヤ?」
「なんか、開いてるんだけど……」
扉の外に犯人がいる、ということも無かった。
クーヤは首を傾げながら地下室を抜け出した。
「上、調べる?」
「ううん。帰ろう」
クーヤが尋ねると、唯は力なく答えた。
外は日が落ちてとっくに暗くなっていた。