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第七章 白龍の記憶

黒龍の心に蘇る、遠い記憶。

白龍は、なぜ長い年月、人間を守り続けてきたのでしょうか。

そこには、人間から受け取った「ありがとう」という言葉と、何世代にもわたって続いてきた絆がありました。

裏切られた記憶だけではありません。

白龍の心には、たくさんの温かな記憶も残っていたのです。

そして今、その記憶が黒龍の心に小さな変化をもたらし始めます。

夜が明けてから、三日が過ぎた。

白龍の里には、まだ黒龍の爪痕が残っていた。


増水した川。

泥に覆われた田畑。

折れた木々。


そして――。

山の中腹に残された、崩れた祠。

凛は毎日、その場所へ通っていた。

祠はもうない。


けれど、そこに残された小さな石を一つずつ拾い集めていた。

「いつか……」

凛は拾った石を両手で包んだ。


「もう一度、ここに祠を建てよう」

蒼真が隣に立つ。

「白龍さまのために?」

「うん」

凛は頷いた。


「でも、それだけじゃない」

「じゃあ、何のため?」

凛は崩れた祠を見つめた。


「人間が忘れてしまったものを、もう一度思い出すため」

蒼真は何も言わなかった。

その言葉の意味が、少し分かったような気がした。


祠を建て直すことは、ただ建物を元に戻すことではない。

人間と白龍との間にあった絆を、もう一度取り戻すことなのだ。

___________________________

その夜。

山の奥深くで、黒龍は一人で眠っていた。

しかし、眠りの中で――。

白い光が見えた。

暖かな光だった。


黒龍は、その光へ向かって歩いていた。

すると、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

『白龍さまだ!』

『白龍さまが来たよ!』

『今年も雨を降らせてください!』

黒龍は立ち止まった。


その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。

「……これは……」

目の前に広がったのは、遠い昔の里だった。

まだ祠が新しく、人々が白龍を敬っていた頃。


老人も。

大人も。

子どもも。

皆、白龍の姿を見上げて笑っている。


一人の老人が祠の前で頭を下げた。

『今年もありがとうございます』

別の人が続ける。


『白龍さまのおかげで、田畑が潤いました』

『ありがとうございます』

『ありがとうございます』

その言葉が、白龍の心に響いていく。


――ありがとう。

その言葉が、白龍にとって何より嬉しかった。

白龍は長い年月、里を見守ってきた。


人々の喜び。

悲しみ。

誕生。

別れ。

そのすべてを見つめてきた。

そして、いつしか人間を愛するようになった。

_____________________

場面が変わった。

小さな女の子が祠の前に立っていた。

まだ幼い。

その少女が、白龍を見上げている。


『白龍さま』

白龍は静かに少女を見つめた。

『どうした?』

少女は笑った。


『私、大きくなったら巫女になります』

『巫女に?』

『はい』

少女は両手を合わせた。


『ずっと白龍さまを守ります』

白龍は、その少女を見つめた。

その笑顔が、今の凛と重なった。


「……凛」

黒龍は思わず名前を呼んだ。

しかし、目の前にいたのは昔の少女だった。

その少女は成長し、やがて年老いていった。


そして――。

静かにこの世を去った。

白龍は、何もできなかった。

ただ、その人生を見守ることしかできなかった。


それでも。

少女の子どもが祠を守り。

その子どもの子どもが祠を守った。


何世代にもわたって、人間と白龍の絆は続いていた。

黒龍はその光景を見つめながら、震えた。

『私は……』

胸の奥が痛い。


『私は、ずっと人間を信じていた』

なぜなら。

裏切られた記憶よりも。

信じてもらった記憶のほうが、はるかに多かったからだ。


しかし、記憶はさらに変わった。

現代の里。

祠を壊す男たち。


「こんなもの、必要ない」

「昔の話だ」

「白龍なんて存在しない」

その言葉が蘇る。


黒龍の身体が震えた。

『なぜ……』

怒りが込み上げる。


『なぜ、人間は忘れてしまった……』

黒い霧が身体を包む。

けれど、その中に――。

凛の声が響いた。


――私はあなたを忘れません。

黒龍の動きが止まった。

蒼真の声も聞こえる。

――僕には、あなたの悲しみが聞こえています。


黒龍は目を閉じた。

怒りの中に、別の感情が生まれてくる。

それは――。

寂しさだった。

「……寂しい」

黒龍は初めて、その言葉を口にした。


『私は……寂しかったのだ』

誰にも分かってもらえないと思っていた。

人間に裏切られた。

だから、すべてを憎もうとした。


しかし。

本当は違った。

ただ――。

もう一度、誰かに信じてほしかった。

_______________________

その頃。

凛は崩れた祠の前で、石を並べていた。

一つ。

また一つ。

小さな石を積み重ねる。

蒼真も手伝った。


「これで少しは祠らしくなるかな」

「まだまだだよ」

凛が笑う。


「もっと大きくしないと」

「じゃあ、僕も手伝う」

二人は黙々と作業を続けた。

やがて夕暮れが近づいた。

凛は空を見上げた。


「白龍さま……」

風が吹く。

木々が揺れる。

その瞬間――。

蒼真が顔を上げた。


「……聞こえる」

「何が?」

「雨の音」

凛も空を見る。


雲はない。

それなのに――。

蒼真には確かに聞こえていた。


ぽつり。

ぽつり。

しかし、その音は悲しくなかった。


どこか優しい。

まるで遠くから、誰かが二人を見守っているようだった。

「白龍さま……?」

凛が呟く。

山の彼方。


夕日の中に、一瞬だけ白い光が見えた。

蒼真は目を凝らした。

しかし、次の瞬間には消えていた。


「見えた?」

「うん」

二人は顔を見合わせた。

「白龍さまは、まだ帰ってきていない」

凛が言った。


「でも……」

蒼真が続ける。

「帰ろうとしている」

凛は微笑んだ。

「じゃあ、待とう」

__________________

その夜。

黒龍は山の頂に立っていた。

遠くに見える里。


その中に、小さな灯りが一つ見える。

それは、崩れた祠の前に灯された灯火だった。


黒龍は、その光を見つめた。

『……凛』

胸の奥に、暖かなものが広がっていく。


そして――。

黒い鱗の一枚が、ゆっくりと白く変わった。

黒龍は驚いた。

『私は……』

白い鱗を見つめる。


『まだ、戻れるのか……』

答える者はいなかった。


けれど、遠くの里から風が吹いてきた。

その風には、かすかな祈りが乗っていた。

――白龍さま。

――帰ってきてください。


黒龍は静かに目を閉じた。

そして、初めて――。

ほんの少しだけ笑った。


「……いつか」

その声は、夜の山へ消えていった。

「いつか……帰ろう」


第七章を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、白龍がこれまで人間を信じてきた理由を描きました。

人間には、忘れてしまう心があります。

しかし同時に、誰かを大切に思い、感謝し、受け継いでいく心もあります。

白龍が本当に求めていたのは、恐れられることでも、崇められることでもありません。

ただ、人間と心を通わせることだったのかもしれません。

黒龍の心に戻り始めた小さな光。

その光が、これからどこへ向かうのか――。

次章では、蒼真と凛が白龍を救うために、新たな一歩を踏み出します。

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