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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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7/20

暖炉前の聞き書き

 広間の暖炉には、館に残る一番乾いた薪がくべられた。

 炎は大きくはない。それでも凍った温室から移ってきた人々は、肩から少しずつ力を抜いていった。濡れた手袋を外す音、椅子を引く音、誰かが息を吐く音。ミリアは長卓の端に座り、紙束とインク壺を並べた。

「名前は、言える範囲でかまいません。あとから困る方は、村名と仕事だけでも」

 そう告げると、粉屋の妻が最初に手を挙げた。

「ラナ・ベルク、粉屋です。水車が止まったのは春分の七日前。けれど王都へ出した遅延届の控えには、春分後十五日と記されて戻りました」

 ミリアはそのままを書いた。言葉を整えすぎないよう、けれど読んだ者が逃げられないように、日付と事実を行ごとに分ける。ラナが差し出した控えの余白へ指先を置くと、薄く削れた筆圧が浮かんだ。

 春分前七日。氷厚く、水車動かず。

 ミリアは息を止めた。上書きされた本文より、消された余白のほうが寒かった。

「次の方、どうぞ」

 薬草畑の老女は、膝に置いた布袋から乾いた根を一本出した。

「ヘルマと申します。咳止め草は、毎年、春分後十日には芽を数えます。今年はまだです。ですが、管理局からの返書には『発芽怠慢、春分後二十七日』と」

「種をまいた日は」

「例年通り、雪の薄い日です。春分前の三日」

 ミリアが書き取る横で、レオナールは壁際に立っていた。領主の椅子は空けてある。彼はそこへ座らず、誰の証言も遮らず、ただ家令に次の茶と毛布を用意させた。

 その沈黙が、広間の人々を少しずつ前へ押した。

「駅夫のマテオです。峠道の閉鎖は春分前十二日から。雪崩の危険で馬を出せませんでした。ところが配送局の写しでは、春分後十八日に『理由なき休馬』となっています」

「養蜂小屋のニナです。巣箱を外へ出す合図は、南斜面の柳がほどける日です。今年はまだ固い。でも王都の帳面では、蜜不足は四旬も前から私らの失敗だと」

「羊番のオルガ。仔羊の生まれる時期がずれています。春草がないから母羊が弱っているのに、飼育記録では『春草豊富、管理不足』と書かれました」

 声は一つひとつ違った。低い声、震える声、怒りを噛み殺した声。ミリアはそれらを同じ形へ押し込めないように書いた。代筆官の仕事は、きれいな文章を作ることではない。言えなかった人の言葉に、正しい宛先まで耐える背骨を入れることだ。

 紙が増えるにつれ、余白にも同じ影が集まっていった。

 春分前の被害が、春分後の怠慢に変えられている。

 実際の雪が残る日が、記録の中だけ春になっている。

 しかも、ずれは一日や二日ではなかった。多くは二十日から三十日。村によって少し違うが、王都へ近い街道沿いほど大きく前へ動かされている。

「偶然ではありません」

 ミリアが呟くと、レオナールがそばへ来た。

「読めたのか」

「はい。消された日付の癖が同じです。元の記録は春分前後の自然な順番で並んでいるのに、戻ってきた写しだけが、北領にもう春が届いている前提になっています」

 レオナールの眉間がわずかに狭まる。

「春が来たことにされている、ということか」

「はい。春が来ていないからできないことを、春が来たのにしなかったことに変えている。そうすれば、配給の不足も、出荷の遅れも、薬草の欠乏も、すべて北領の失策として処理できます」

 広間が静まり返った。

 ミリアは、インクの乾ききらない紙を見下ろした。ここにあるのは訴えではない。暮らしの暦だ。雪の深さ、芽の遅れ、水車の止まった音、巣箱を抱えて眠れなかった夜。それらを誰かが帳面の上で春へ押し込めた。

「ですが、なぜそんなことを」

 ラナが掠れた声で言った。

 ミリアは答えを急がなかった。まだ証拠は足りない。けれど、問いの形はもう見えていた。

「季節契約では、春の配分が各領へ届いたかどうかを、配送記録と生活記録で照合します。生活記録だけが春になっていれば、北領は配分を受け取ったことになる」

「受け取っていない春を、受け取ったことに」

 ヘルマの手が、膝の上で固く結ばれた。

「その可能性があります」

 ミリアは断定を避けた。だが紙の余白は、彼女の迷いより先に冷たい確信を示していた。

 その時、暖炉番をしていた年老いた家僕が、薪を置く手を止めた。

「昔の春は、鐘で数えました」

 全員の視線が向く。家僕は恐縮したように頭を下げた。

「先代様の頃まで、家門文庫に『春告げ鐘の控え』がありまして。初代侯爵様が王都と交わした取り決めの写しも、一緒に納めてあると聞いております。春が届いた日を、鐘楼の番が毎年書いたものです」

 レオナールが顔を上げた。

「家門文庫か」

「若様がまだ小さい頃、先代様が、北の春は王都の暦ではなく雪解けの音で決まる、と」

 ミリアの胸の奥で、紙をめくるような音がした。

 王都の帳面は、北領の春を暦の上だけで先へ進めている。ならば、王都の暦ではなく、北領自身が春を受け取った証しを残す記録が必要だった。

「見せていただけますか」

 ミリアがレオナールを見ると、彼はすぐに頷いた。

「明朝、文庫を開ける」

 短い返事だった。けれどその余白には、もう客人への配慮ではない響きがあった。共に証拠を追う者へ向ける、静かな信頼。

 ミリアは最後の紙に、聞き取りの時刻と立会人の名を書き入れた。領民たちが順に署名し、書けない者には代わりに印を押してもらう。インクの黒が、白い紙に小さな足場を作っていく。

 暖炉の火は相変わらず弱い。それでも広間の空気は、温室より確かに温かかった。

 奪われた春は、まだ戻っていない。

 けれど、春がいつ奪われたのかを語る声は、もう余白の中に閉じ込められてはいなかった。

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