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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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6/20

凍った温室の昼食会

 フォルクレア侯爵家の館は、雪の底に沈む灰色の船のようだった。

 門をくぐると、馬車の車輪が固い氷を噛んで鳴った。王都なら春先に土の匂いが立つ時期だというのに、庭園の噴水は白い柱になり、彫像の肩には厚い雪が積もっている。

「本来なら、ここで黄水仙が咲く」

 レオナールが馬車の窓越しに言った。

 ミリアは凍った花壇を見た。土は見えない。けれど彼の声の余白には、毎年そこにあった色を数えるような静けさが残っていた。

 館では家令と侍女たちが出迎えた。彼らは丁寧に頭を下げたが、その頬は痩せ、手袋の指先は何度も繕われている。仮婚約者として紹介されたミリアへ向けられる視線には、好奇心よりも、何かが変わるかもしれないという切実な期待が混じっていた。

 昼食は温室で用意されている、と家令が告げた。

 温室と聞いて、ミリアは一瞬だけ緑を想像した。だが案内された硝子張りの建物は、内側からも霜に覆われていた。天井の梁には氷が垂れ、鉢植えの柑橘は黒ずんだ葉を縮めている。中央の長卓だけが敷物と炭火鉢で守られ、そこに数皿の料理が並んでいた。

 干し肉の薄切り、硬い黒パン、根菜の酢漬け、温め直した豆のスープ。銀器は磨かれていたが、皿の上には春の香草も、卵も、白いチーズもなかった。

「侯爵家の客人に出す膳ではありません」

 家令が深く頭を下げた。

「これが今の領民の膳に近い」

 レオナールは席につきながら答えた。「ミリアには、館だけ飾った姿を見せるつもりはない」

 謝罪ではなく説明だった。だからミリアも、ただ頷いた。

「見せていただきます」

 温室には数人の領民代表が招かれていた。粉屋の妻、薬草畑を預かる老女、雪道の馬を貸す駅夫。彼らは貴族の食卓に呼ばれた緊張で背を固くしていたが、スープの椀に指を添える手は荒れて赤い。

「去年の今頃は、温室の苗を村へ配っておりました」

 薬草畑の老女が、凍った棚を見上げて言った。「今年は種が起きません。子どもの咳止めに使う草も、根が眠ったままで」

 粉屋の妻が続ける。

「雪どけ水が来ないので、水車が止まりがちです。麦は残っていますが、粉にする手間が倍になりました。王都の市には、北の怠慢だと書かれた帳面が回っているそうで」

 言葉は控えめだった。けれど、卓布の端に置かれた配給記録の余白には、書ききれなかった疲労が濃く沈んでいた。足りない。待てない。それでも領主の前で泣くわけにはいかない。

 ミリアは無意識に鞄へ手を伸ばした。筆記具の重みが、駅舎で取った立会記録を思い出させる。

「その帳面を見せていただけますか」

 粉屋の妻は驚いたように瞬き、懐から折り畳んだ写しを出した。王都の商人から戻された納品評定だった。表には、霜領の出荷遅延、品質低下、季節対応不足と整った字で並んでいる。

 ミリアが余白に指を置くと、紙の奥に削られた日付の影が浮いた。

 春分後十日、雪どけ不着。春分後二十日、苗配布未了。

 だが、そこに重ねられた新しい行は、すべて一月早い日付になっていた。北領が春の準備を怠ったように見せるため、春が来るはずの前から遅延が始まっていたことにされている。

「これは、生活の遅れではありません」

 ミリアの声に、卓上の匙が止まった。

「記録の季節だけが先に進められています。実際にはまだ雪に閉ざされている時期を、帳面の上では春が来た後として扱っている。だから、できなかったことがすべて怠慢になる」

 老女が唇を押さえた。

「では、私たちが悪いのでは」

「ありません」

 ミリアは言い切ってから、自分の声の強さに少し驚いた。けれど取り消したくはなかった。

 レオナールが彼女を見た。無言の視線は、続きを促すものだった。

「私は王都で、届かない手紙を見ました。ここでは、暮らしそのものが違う日付で読まれている。どちらも、言葉の宛先を奪うやり方です」

 温室の硝子が風に鳴った。凍った葉の一枚が落ち、乾いた音を立てる。

 ミリアは立ち上がった。

「書かせてください。配給記録、薬草の発芽日誌、水車の稼働控え、王都から戻された評定。文字が残っていない分は、皆さんの言葉を聞き取ります。誰が、いつ、何に困り、どの記録と食い違っているのか。代筆官として残します」

「客人にそこまで」

 家令が言いかける。

「客人ではありません」

 ミリアは胸元の仮婚約のリボンではなく、鞄の中の代筆官徽章に触れた。

「一季限りの約束でここへ来ました。でも、手紙も契約も、人の暮らしへ届いて初めて意味を持ちます。私はそのための仕事をしてきました。ここで見たものを、寒かった、気の毒だった、で終わらせたくありません」

 言い終えると、指先が震えていることに気づいた。寒さのせいではなかった。

 レオナールがゆっくり立ち上がる。

「温室は午後から開ける。村ごとに聞き取りの場を設ける」

「ここでは寒すぎます」

 ミリアは凍った鉢を見た。「皆さんが長く話せる場所が必要です。暖炉のある広間をお借りできますか」

「用意させる」

 短い返事の余白に、信頼があった。

 昼食の皿は質素なままだった。それでも、さきほどまで俯いていた人々が、互いの記録を思い出すように小声で話し始める。薬草畑の老女は、失敗した苗床の日付を指で数え、駅夫は凍った道で戻された荷車の数を告げた。

 ミリアは新しい紙を広げた。白い余白は、もう空っぽには見えなかった。

 そこには、北領の春を奪われた人々の声が、これから正しい宛先へ向かうための場所があった。

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